その視線が電気室のドアに触れた瞬間、ラウクは二歩だけ進む。
舞台脇の暗がりから後方通路へ出た彼に、民間警備の男が場所を空ける。扉の前には空ボトルが転がり、床には清掃カートの車輪跡が濡れた線を引いている。半分裂けた箒の柄は、内側から扉を押さえていたものだ。
「開けろ」
扉はもう抵抗しない。電気室の中は空だった。配電盤、古いラック、予備入力端子、床に落ちた雑巾。変換器もUSBもない。ラウクは敷居を越えず、そこに残された数秒ぶんの仕掛けだけを見る。
内側から掛けたかんぬき。外の男を一歩崩すために引かれた扉。後方通路へ続く車輪跡。そして通路の曲がり角には、別の清掃カートが斜めに放置されている。急いで追う者ほど足を取られる位置だった。
「追いますか」
警備の男が言う。ラウクは会場のほうへ耳を向ける。大型スクリーンは町長の写真へ戻った。だがざわめきは戻っていない。客席では人々が紙を見せ合い、番号を読み、記者たちは壇上ではなく家族席へレンズを向けている。
『追わせるためじゃない。遅らせるためだ』
ラウクの顔に笑みはない。ドギョムは自分自身を、会場の内側へ縛りつけた。電気室の扉も、清掃カートも、追跡を引き寄せて時間を食わせるためのものだ。逃げるだけなら、こんなに目立つ線は残さない。
自分を追わせる。客席の騒ぎをさらに大きくする。記者に、保安官事務所が何を守ろうとするのかを見せる。
そして、その間に別の場所から目を逸らさせる。
ラウクは無線機を取る。
「外郭検問、配置を変えろ」
舞台脇の男たちが顔を上げる。
「郡道八十一号線南、カジノ側、貨物整備場の入口を薄くする。逃走車両を追うな。町の内側を閉じろ」
無線の向こうで、若い代理が一拍遅れる。
「内側ですか」
「そうだ。標的はよそ者ひとりじゃない。潜む場所、匿った人間、紙を出した手だ」
ラウクは床の雑巾を靴先で動かす。洗剤の臭いの下に、古い油と焦げた鉄板の匂いがかすかに残る。ヘナズ・ダイナーの厨房で嗅いだ匂いと同じだった。
「第一班、ヘナズ・ダイナー。屋根裏まで捜索しろ。名目はガス漏れ点検だ。消防の札を一枚借りてこい。第二班は裏路地。第三班は通り向かいの空きガレージ。店主を先に外へ出すな」
「令状は」
「ガスは令状を待たない」
声は低く冷えている。プライスの演説よりも、会場のざわめきよりも鋭い。
「女ひとりと思うな。屋根裏、冷凍倉庫、カウンター下、パン棚、床板。燃えるものと濡れているものを分けて見ろ。紙は濡らすな。見つけたら俺へ直接回せ」
短い了解が返る。
同じころ、後方非常口の外で、ドギョムは清掃カートを壁際に押しつけて止めている。雨は細かい霧のように非常灯を滲ませ、搬入口のコンクリートを黒く濡らす。彼は灰色の作業帽を脱ぎ、黒いUSBを内ポケットの奥へ押し込む。変換器は洗剤ボトルの底へ戻した。見つかっても、ただの清掃道具に見える。
非常口の横には、ミゲルが自転車を押して待っていた。濡れた髪が額に貼りつき、右手の添え木を巻くテープは雨で浮いている。それでも目だけは折れていない。
「こっちです」
ドギョムはまず少年の背後を見る。通り、排水口、非常階段の下、停められた車。自転車の尾灯は消えている。一回だけなら合図に使える。二回なら見つかる。ミゲルはそれを覚えていた。
「録れたか」
「はい」
ミゲルは肩から下げた古いカセットレコーダーを持ち上げる。学校の放送室にあった傷だらけの機械だ。親指が再生ボタンを押す。
ざらついたノイズのあと、ラウクの声が薄く流れた。
「外郭検問、配置を変えろ。郡道八十一号線南、カジノ側、貨物整備場の入口を薄くする。逃走車両を追うな。町の内側を閉じろ」
ドギョムの目がわずかに細くなる。
テープの中で、ラウクは続ける。
「第一班、ヘナズ・ダイナー。屋根裏まで捜索しろ。名目はガス漏れ点検だ」
ミゲルが再生を止める。雨音だけが残る。
ドギョムの呼吸が一瞬短くなる。走ったせいではない。会場で起こした火が、思っていたより速く、真っ直ぐヘナの店へ向きを変えたからだ。
「ヘナさんと姉さん、まだ店です」
ミゲルの声が小さく割れる。
「黒電話は一回鳴った。踏み込まれていない」
「今は違います」
少年はそこで初めて、恐怖を隠し切れない顔になる。姉を奪われ、母を消され、それでも録音機を握っていた手が震えていた。ドギョムはその手ではなく、通りの向こうを見る。コンベンションホールの前にはまだ車が詰まり、ロビーへ出てきた人々は立ち止まって携帯電話や古いカメラを構えている。
会場内では、プライスが再びマイクを握っていた。
「皆さん、どうか席へお戻りください。先ほどの映像については、適切な確認を行います。ですが今夜は、ブラスヒルの未来を語るための場です」
声は落ち着いている。だが前列右側の家族席では、誰も完全には座らない。ディナは面会申請書を胸に押し当て、グラディスは死亡診断書の写しを隣へ渡す。記者席では、三脚に載せたカメラの赤いランプが一つ、また一つ点く。
ラウクはそのすべてを横目で見ながら、舞台脇の出口へ歩き出す。追跡の方向はもう変わっていた。逃げた清掃員ではなく、逃がした町を狙う。よそ者を捕まえるより、よそ者に水と紙と屋根を渡した者を燃やすほうが、町には効く。
ドギョムはミゲルからカセットを受け取らない。
「持っていろ」
「でも、これがあれば」
「お前が持っていれば、二本目になる」
黒いUSBはドギョムの内ポケット。銀のUSBはミゲルの弁当箱の底。ラウクの指示はカセットの中。証拠は一つでは足りない。一つなら燃やされる。一つなら濡らされる。一つなら奪われる。
「自転車で戻るな」
「じゃあ、どうやって」
「押せ。人が走る方向と逆へ。会場へ向かってくる連中の間を抜けろ。尾灯は点けるな」
ミゲルは唇を噛み、うなずく。
「あなたは」
ドギョムは答えない。雨の通りの向こう、ヘナズ・ダイナーへ続く角を見ている。そこへ向かう保安官事務所の車両は、まだこの場所からは見えない。だがラウクの声が録音された以上、もう走り出している。
コンベンションホールの中では、また一つカメラのフラッシュが光る。プライスの笑顔、ラウクの背中、立ったままの家族席。その全部が、誰かの小さな画面に残り始めている。
しかしヘナズ・ダイナーには、まだ誰のカメラも向いていない。
ドギョムは濡れた襟を立て、闇の側へ一歩踏み出す。会場で上げた火を守るには、その火が最初に焼きに行く場所へ先に届くしかない。
そのとき、止めたはずのカセットが小さく巻き戻る音を立てる。ミゲルが慌てて押さえる前に、ラウクの声の最後の一文だけが、雨の中へもう一度漏れた。
「店主を先に外へ出すな」
ドギョムの足が止まる。ヘナを捕まえるつもりではない。中に閉じ込めたまま、店ごと処理する命令だった。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
57話 燃えるヘナズ・ダイナー
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