その声が落ちた瞬間、ドギョムは息を止めたまま膝を沈める。ラウクの懐中電灯が亀裂の内側を細く切り、コンクリートの剥がれた角を白く舐める。あと半歩、上に残っていれば指が見えていた。
彼は足裏を枕木へ押しつける。鉄ではない。濡れた木だ。音は小さい。体重を膝で殺し、胸のダッフルバッグを抱えたまま、鉱車レールの脇へさらに体を押し込む。
頭上で若い男が息を呑む。
「見えましたか」
「まだだ」
ラウクは短く返す。怒りではない。待っている声だ。ドギョムが内側でどちらへ動くか、その最初の擦過音を拾おうとしている。
ドギョムは動かないまま、無線受信機のダイヤルを爪で回す。音量をもう一段落とす。ノイズは消えず、胸の骨をかすかに震わせるだけになる。坑道奥の通信が、白い息のように切れ切れで浮かぶ。
「……D-3外周、二名巡回」
「南枝道、閉鎖ダンパー異常なし」
短いコードが混じる。単語ではなく、位置と状態を縮めた報告だ。男たちは名前を使わない。番号と方角で動く。ブラスヒルの紙と同じだ。
熱気が喉を塞ぐ。換気塔の内側は狭く、古い鉄と崩れたコンクリートが肩を削る。下へ進むほど、空気は濃くなる。ディーゼル、錆、薬品、濡れた坑木の甘く腐った臭い。リハビリセンター地下二階の漂白剤より荒い。隠すための臭いではなく、急いで動かすための臭いだ。
彼は右手を先へ伸ばす。枕木の間に溜まった泥が指に触れる。新しい油が水を弾いている。鉱車は最近まで走っている。D-3は紙の上の閉鎖坑道ではない。今も口を開け、息を吐いている。
頭上で金属板を引きずる音がする。
「今なら塞げます」
「塞ぐな」
ラウクの制止は近い。塔の外にいる。雨の中で、亀裂へ顔を寄せている距離だ。
「中にいるなら、下りる。下りた先を聞く」
ドギョムは目だけを細める。ラウクは殺すだけなら早い。塞げばいい。だが彼は、ドギョムがどこへ向かうかをまだ必要としている。キャビネット列の端。D-3。マローン。そこに繋がる動きまで、紙にしたいのだ。
なら、紙にできない速度で潜る。
ドギョムは一歩、二歩と進む。足を置く場所は枕木だけ。レールへ触れない。バッグの金具が肋骨へ当たるたび、痛みが白く跳ねる。彼は息を半分ずつ吐き、喉の音を殺す。
換気塔の底から横へ折れる細い通路に入ると、頭を上げる余裕が少しだけできる。天井は低い。肩をまっすぐにはできない。壁には古い安全標識が黒く貼りつき、文字は油で読めない。足元のレールはゆるい傾斜を保ったまま、坑道の奥へ吸い込まれている。
無線が二度、短く鳴る。
「三一、D-3南、問題なし」
別の声が返す。
「三二、東横坑、巡回継続」
間隔。五秒。三一、三二。位置報告のあと、状態。応答の前に短い無音。ドギョムは舌の奥でその間を数える。軍で使った符丁ほど整ってはいない。だが下手な自由発話より読みやすい。
通路の先で、小さな橙の火が浮いた。
煙草だ。
ドギョムはその場で止まる。閉鎖された換気ダンパーの横、金網の前に男が一人立っている。安全帽を浅くかぶり、無線機を腰に下げ、片手で火を隠すように吸っている。坑道の規則を守る男ではない。見張ることに飽きた夜勤組だ。
男の背後にはレバーが三本、鉄の札がついている。D-3南、旧排気、閉鎖。ダンパーは閉じられているが、隙間から熱風が漏れている。作業場の空気がこちらへ逃げている。
ドギョムはバッグを静かに下ろす。左手で濡れた布を取り出し、右手で壁に触れる。男の視線は煙草の火と無線機のランプに落ちている。足音は出せない。レールも枕木も避け、壁際の砂利へ体重を分ける。
男が無線を取る。
「三三、南ダンパー、異常な……」
言い終わる前に、ドギョムの左腕が背後から男の口を塞ぐ。右腕は喉ではなく頸動脈へ入る。男の肩が跳ね、煙草が落ちる。火は水に触れて小さく鳴る。
男は肘を振ろうとするが、ドギョムは腰を一歩引き、背中を自分の胸へ固定する。十秒。十一秒。男の靴底が枕木を二度削り、膝から力が抜ける。ドギョムはすぐに腕を緩め、気道を確かめる。呼吸はある。意識だけが落ちている。
「眠っていろ」
声は息より低い。
彼は男をダンパー脇の影へ引きずり、ベルトの結束バンドで両手を背中へ固定する。口には布を噛ませ、顔を横へ向ける。無線機、安全帽、坑道出入カードを奪う。安全帽の内側には汗と薬品の臭いが染みついている。ドギョムはかぶらず、ライトだけを手の中で試す。点灯はしない。今は要らない。
奪った無線機から、さっきの間隔で声が続く。
「三三、南ダンパー。応答」
ドギョムは送信ボタンに指を乗せる。声を出す前に、もう一度間を数える。三一、三二。五秒。状態は短く。余計な息は入れない。
「三三、南ダンパー。煙あり。旧排気側へ確認」
声をわずかに潰し、喉の奥で通す。雨の外ではなく、地下の無線らしく乾かす。
一拍、ノイズだけが返る。
「三二、旧排気へ回れ。三一、東を一つ下げろ」
「了解」
足音が遠くで二つ動く。見当違いの座標へ向かう音だ。走らない。疑ってはいない。短いコードが正しい間隔で入ったからだ。
ドギョムは無線機を腰に移し、奪ったカードを手袋の内側へ挟む。倒した男の安全帽から小さな紙片が落ちる。勤務表ではない。D-3の簡略図だ。キャビネット列の端に小さな丸があり、その横に子供二名と鉛筆で書かれている。
彼の指が一瞬だけ止まる。
怒りは遅い。今は使わない。彼は紙片を折らず、そのまま胸へ入れる。ミゲルとアルマは位置情報になった。だから取り戻す。
通路の奥から、発電機の振動が強くなる。鉱車レールが二股に分かれ、片方は旧排気へ、もう片方は低いコンクリートの開口へ続いている。開口の上には、古い黄色の標識が残る。
D-3。
一度塞いだあと、また開け直した跡がある。新しいコンクリートの縁はまだ白く、古い岩盤との継ぎ目に黒い防水材が塗られている。閉鎖坑道を郡が安全のために塞いだのではない。誰かが閉じ、誰かが必要になった時だけ開けた。
ドギョムは入口の影へ張りつく。外の換気塔から、ラウクの声が遠く混じる。
「光を中へ入れろ。下の反射を見ろ」
尾根の上では、まだラウクが格子に懐中電灯を向けている。彼は亀裂の内側を探っている。だがドギョムはもう、D-3の入口まで下りている。
無線機が、これまでと違う音で割れた。
全員の報告を切る強い送信。短いコードではない。現場を支配するための、生の声だ。
「作業場の点呼を始めろ」
ヴィンス・マローンの声が、熱い坑道の奥から直接流れてくる。
「子供たちの指から確認する」
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
72話 マローンの私設作業場
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