ドギョムは電源ボタンを押さない。ケーブルを根元から引き抜く。画面は一瞬だけ白く乱れ、ADMIN-MAINT-09の一行を残したまま暗く落ちる。
地下室の空気が、発電機の低い振動ごと止まったようになる。グラディスは端末から手を離せず、ジョアンは壇の端に丸まった紙片を見ている。そこには震えた筆跡で、ドナルド・フィントンの名と住所がある。
「今のは、こっちを見た?」
アルマが低く聞く。
ドギョムは抜いたケーブルを巻き、端末の背面を確認する。通信は切れた。だが閲覧中の表示が出た以上、相手も同じ発行履歴を開いていた。
「見たのは履歴だ。俺たちかどうかは、まだわからない」
「でも、向こうも気づいた」
グラディスの声は細い。受付台の向こうから、紙の上で人が消える瞬間を見てきた声だ。
ドギョムはフィントンの紙片を取り、コンクリートの壇の中央に置く。湖畔の住所。町外れの平屋。郡保健局長ドナルド・フィントン。死亡診断書の署名欄を開き、午前二時四分の空白を作った男。
「ADMIN-MAINT-09は、保健局の保守権限か」
グラディスは眼鏡を直し、記憶をたぐる。
「文書処理室の端末番号とは違う。でも保健局の保守委託で使う管理者名に似てる。普段は夜間点検でしか出ない。発行履歴を見に来る権限じゃないわ」
ジョアンが短く息を吐く。
「フィントン……逃げる」
かすれた声だが、言葉だけは鋭い。ドギョムは彼女を見る。
「なぜ」
「彼は、証拠を一つの場所に置かない。自宅。車。保健局。三つに分ける。見られたら、持って出る。そういう男」
ヘナが換気口を見上げる。雨はまだ強い。だが町の音は少しずつ変わっている。遠くで車が一台、濡れた舗装をゆっくり曲がる。
「自宅へ行くんですか」
「今は行かない」
ドギョムはフィントンの住所の横へ、湖の線を鉛筆で引く。町外れの湖畔にある平屋。前庭は狭く、裏は水辺へ落ちる。道路は一本。家の外壁を回る人間がいれば、足音は砂利で鳴る。
「夜間警備は」
グラディスが首を振る。
「保健局長の家に専属警備なんてないわ。けれど、今は違うかもしれない」
ミゲルが弁当箱を開く。底板の奥から、古いカセットを一つ出す。D-3で守った最後の一本だ。割れていない。ラベルには、鉛筆で「シャトル」とだけある。
「前に録ったやつです。カジノシャトルの運転手の交代と、保安官事務所の連絡が入ってます。フィントンの名前も、たぶん」
ドギョムは受信機の横にカセットレコーダーを置かせる。ミゲルは折れた指をかばいながら再生ボタンを押す。テープの走る音が、地下室の濡れた石に薄く広がる。
最初はノイズ。次に、運転手同士の短い会話。外郭の食堂。カジノ裏。水曜の夜明け。医者じゃないが医者より高い男。笑い声。別の声が、運転手の交代時刻を読み上げる。
ドギョムは紙に一行ずつ抜き出す。
水曜、四時四十分。カジノシャトル一便。
四時五十二分。外郭食堂着。
五時十六分。旧車両登録事務所脇、短時間停車。
運転手交代、マローン側。
「旧車両登録事務所……」
ディナが顔を上げる。そこは、ドギョムが鉱山図面を盗み出した場所だ。ルーファスの解体屋の隣。南壁の換気口。フィントンが自宅から逃げるなら、湖畔の家から直接大通りへ出るより、カジノシャトルへ乗って外郭を回り、そこで車を替えるほうが目立たない。
ミゲルがテープを少し戻す。今度は別の声が入る。若くない男の声。保健局長を「局長」と呼び、クラブでの面会時刻を確認している。
「水曜は夜明け前だ。食堂で降ろす。戻りは旧登録の脇。運転はこっちで持つ」
ヘナの目が細くなる。
「こっち、ってマローン側ですね」
ドギョムはうなずく。ラウクの車ではない。保安官事務所の車でもない。町の記録に残らない運転手。フィントンを逃がすには、そのほうが都合がいい。
グラディスは端末を閉じたまま、フィントンの名を見つめている。
「彼が資料を持って出たら、死亡診断書の発行履歴も署名欄画像も、保健局側で上書きされるかもしれない。紙の原本をなくされたら、私の赤線だけじゃ弱い」
「だから家へは行かない」
ドギョムは地図を引き寄せる。湖畔の平屋からカジノシャトルの停留所、外郭の食堂、旧車両登録事務所脇の路地まで、細い黒線を一本でつなぐ。
「家の外壁は、非番の代理が一時間に一度回る程度だ。捕まえる場所としては広すぎる。水辺もある。裏から逃げられる」
アルマが小さく眉を寄せる。
「じゃあ、どこで」
ドギョムは指先で最後の停車地点を押さえる。旧車両登録事務所脇の路地。昼間でも暗い。壊れた電話ボックスと、錆びたフェンスと、南壁の換気口がある。車が入れば、前と後ろを塞げる。運転手が銃を持っていても、扉を開ける一拍は必ず生まれる。
「ここだ」
ミゲルの喉が鳴る。
「イベントの日の夜?」
「フィントンが資料を持って自宅を出る前に動けば、家の警備が増える。警備が増えれば、ラウクに読まれる。逃げ道で捕まえる」
ジョアンが苦しそうに体を起こす。ヘナが支えようとするが、彼女は首を振る。
「フィントンは、書類を鞄に入れる。黒い革。鍵は二つ。中に、保健局の印影と署名欄の元画像がある」
「爆薬の図は?」
ドギョムが問う。
ジョアンは一瞬だけ目を閉じる。
「マローンが逃げる時、証拠ごと坑道を潰すなら、フィントンにも写しが渡る。医療記録の処分名目で、死亡者を増やせるから」
地下室の誰も、すぐには答えない。会計、死亡診断書、輸送路、そして爆薬。フィントンは紙の上の男ではなく、次に人を消すための鍵を持って逃げようとしている。
アルマがドギョムを見る。
「殺さないんですよね」
質問は静かだ。だがミゲルの指が弁当箱の縁を強くつかむ。ディナはトミーの名がある紙を胸へ寄せる。グラディスは赤いペンを置いたまま、答えを待っている。
ドギョムはすぐに返さない。フィントンの住所、午前二時四分の七行、ミゲルの母の空白、ジョアンの剥がされた爪。殺す理由なら、壇の上にいくつもある。だが殺せば、また紙は黙る。
「話させる」
それだけ言う。
ヘナは短く息を吐き、アルマはうなずく。ミゲルは何も言わず、テープを止める。
そのとき、換気口の向こうの古いラジオが、雨音に混じって町のニュースを拾う。プライス町長の録音ではない。地元局の短い読み上げだった。
「ブラスヒル町長事務所は、外部脅威の終息宣言を州知事訪問イベント当日の正午に前倒しすると発表しました。夜の式典に先立ち、広場では安全回復を示す式次第が――」
ドギョムは地図の上の時刻を書き換える。正午。二十三時ではない。プライスは夜を待たず、昼に町へ終わったことを宣言する。外部脅威は片づいた。安全は戻った。そういう絵を先に作るつもりだ。
フィントンの名の横には、旧車両登録事務所脇の路地が黒く囲まれている。そこは、彼が逃げる最後の曲がり角になる。だが同時に、ドギョムたちが最初に噛ませる罠にもなる。
ラジオの声が途切れ、雨だけが戻る。ドギョムは鉛筆の先を折り、折れた黒い芯を路地の印の上へ押しつぶす。
「正午までに、向こうは勝った顔を作る」
彼は顔を上げる。
「その顔のまま、夜にフィントンを消そうとする。俺たちは、その前に口を開かせる」
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
85話 北の鉄道駅に置いた餌
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