解除音は、扉の向こうで一つずつ近づいてくる。
道允は反射的に隔離端末の画面を手で覆う。海凛は椅子を蹴るように立ち、閲覧室の壁面にある来訪者表示を呼び出した。警告色は出ていない。保安官の緊急侵入でも、記憶矯正庁の押収手続きでもない。
表示されたのは、裁判所職員の案内タグだった。
『未成年被害記録関連、家族面談申請』
『李志厚事件、遺族二名』
道允の肩から、力が抜けるより先に別の緊張が入る。志厚の両親。彼らが今、なぜここへ来るのか。誰がこの地下閲覧室の場所を知らせたのか。
海凛は端末の画面を素早く閉じ、司法保全番号だけを固定表示に切り替える。
「顔に出さないでください。ここは裁判所の閲覧室です。私たちは正当な面談中。それ以外の姿勢を見せれば、向こうに材料を与えます」
「庁の人間が尾行している可能性は」
「あります。だから通します。拒めば、遺族接触妨害の形にされる」
扉が開く。
先に入ってきたのは、やつれた男だった。背は高いが肩が落ち、黒い上着の袖口を何度も握り直している。その隣で、女が両手に紙袋を抱えていた。目元は腫れ、頬はひどく痩せている。それでも髪をきちんと束ね、来客用の札を胸につけている。
海凛が立ったまま、低く名乗る。
「尹海凛です。白道允さんの弁護人予定者として証拠保全手続きに入っています。お二人は、李志厚君のご両親ですね」
男は一度うなずく。
「父の李成勲(イ・ソンフン)です。こちらは妻の朴美妍(パク・ミヨン)です」
美妍は名前を呼ばれても顔を上げない。紙袋を胸の前で抱きしめたまま、床の一点だけを見ている。裁判所職員が扉の外に下がると、閲覧室のロックは静かに閉じた。
道允は自分が何者としてここに座っているのかを、改めて意識する。李志厚の恐怖記憶を姜武鎮へ注入した執行官。事故を起こした当事者。だが同時に、その記憶の奥に混じった倉庫を見た証人でもある。
「急に来てしまって、すみません」
成勲の声は乾いていた。
「庁に行っても、担当者は会議中だと言われるだけでした。記憶相談センターでは、事件は終了した、これ以上見ないほうがいいと。けれど妻が……どうしても、これを渡さないといけないと」
海凛は椅子を勧めるが、二人はすぐには座らない。美妍の指が紙袋の縁を強く握り、かすかに震えている。
道允は端末を見た。先ほどの追加照合結果が、閉じた画面の裏でまだ残っている。六件の重犯罪者矯正記録。事件現場も被害者も違うのに、姜武鎮の脳波断片が同じ形で検出された。その続きを確認しないまま、今度は志厚の両親が目の前にいる。
海凛はそれを承知で、あえて先に端末を再表示した。
「お二人に来ていただいた理由は、こちらにもあります。今、裁判所鑑定サーバーで、姜武鎮の執行記録と過去の矯正記録を照合しています」
成勲の顔が固まる。
「姜武鎮の……?」
「はい。ただし、犯人性を追認するためではありません。彼の脳に、別人の記憶反応が入っていた可能性を確認しています」
美妍が初めて顔を上げた。
「別人の、記憶……」
その声には、驚きよりも疲れた納得が混じっていた。何度も誰かに説明しようとして、聞き流されてきた人間の声だった。
海凛は画面を二人の側へ向ける。重犯罪者六名の事件番号、矯正日、対象者名は一部黒塗りだが、反応層の比較だけは見える。赤い線が同じ位置で重なっていた。
「場所は全部違います。倉庫、地下駐車場、山林、空き家、廃工場、車内。被害者も、犯行態様も一致しません。なのに深層音響反応だけが同じです」
道允は表示を拡大する。波形の横に、裁判所サーバーが自動分類した注記が並ぶ。
『鉄扉擦過音』
『低速成人呼吸』
『湿度反応、密閉倉庫型』
『水滴音、断続』
見慣れてはいけない文字列だった。志厚の末尾三秒にあった黒い音。第五特殊執行室で開いた倉庫。十歳の自分が立っていた床。そのすべてが、六人の記録の奥に同じ深さで沈んでいる。
「自然な記憶転移なら、こんな出方はしません」
海凛の声は冷たい。
「人が同じ場所を見たとしても、恐怖の焦点、音の拾い方、湿度への皮膚反応はずれます。これは、同一の原本記憶を複数の対象へ、何層にも上書きした痕跡です。上書きのたびに表面の事件記憶は変わっているのに、深い層の倉庫だけが型で押したように残っている」
道允は姜武鎮の顔を思い出す。報道で見た凶悪犯の顔ではない。記憶椅子の上で、自分のものではない恐怖に押し潰されていた男の顔だ。
「姜武鎮が本当の犯人ではなく、他人の罪悪感を入れられた容器だったなら」
彼はそこまで言って、言葉を止める。職務として何度も口にした有罪確定者という言葉が、喉の奥で変質する。
海凛が続きを引き取った。
「本人の犯罪記憶ではなく、誰かが作った犯人の内面を注入されていたことになります。罪悪感、恐怖、後悔、逃避反応。外から入れられたそれに本人の脳が順応すれば、彼は自分が犯人だと振る舞う。供述も、涙も、反省も作れる」
成勲が机に手をつく。指の骨が白く浮く。
「では、息子は……志厚は、誰に」
誰に殺されたのか。その言葉だけが、出てこない。
道允は答えられない。答えれば、嘘になる。姜武鎮ではない可能性がある。だが真犯人が誰かはまだ見えていない。制度の奥にいる誰かが、志厚の死を別人の罪悪感で覆った。その事実だけが、今は刃のようにある。
美妍が紙袋を机に置いた。中から薄いファイルを取り出す。児童心理相談用の透明フォルダだった。角は何度も開かれ、折れている。
「志厚は、誘拐される前から言っていました」
閲覧室の空気が止まる。
「毎晩、眠る前に泣きました。頭の中で、知らないおじさんが泣いているって。自分が悪いことをしたんだって泣いている。でも志厚は何もしていないから、どうして謝らないといけないのかわからないって」
道允の背中に冷たいものが走る。志厚は、死の直前に記憶を混入されたのではない。誘拐前から、誰かの罪悪感を感じていた。
海凛の視線が鋭くなる。
「いつからですか」
「失踪の十日くらい前です。最初は悪い夢だと思いました。でも夢ではなく、昼間にも急に耳をふさいでしゃがみ込むようになりました。鉄がこすれる音がする、濡れた床の匂いがするって」
成勲が低く補足する。
「小児神経科では異常なしでした。だから記憶矯正庁の相談センターを紹介されました。子ども用の記憶安定検査なら、外部感情ノイズを取り除けると」
「検査を受けたんですか」
道允の声が少しだけ硬くなる。
成勲はうなずく。
「ええ。庁の相談センターです。検査後、志厚は二日だけ静かになりました。私たちは治ったと思った。けれど三日目から、もっとひどくなった。知らないおじさんだけじゃない、暗い倉庫に子どもがいると言い始めた」
美妍の目から涙が落ちる。だが泣き崩れはしない。長く泣きすぎて、崩れる力さえ残っていないようだった。
「その子が逃げてって言うんです。でも声は出ないって。口だけが動くって。志厚は怖がって、寝るたびに発作を起こしました。私たちが庁へ連絡しても、成長期の感情反応だと」
道允は拳を机の下で握る。十歳の自分が、志厚の記憶の中で唇だけを動かした。『逃げて』。それは志厚が死ぬ瞬間に見た幻ではない。誘拐前から、彼の脳へ押し込まれていた警告だった。
海凛は録音許可の確認を取る。成勲が震える手で同意欄に署名した。美妍も遅れて名前を書く。彼女の字は途中で乱れたが、最後まで書き切った。
「もう一つ、あります」
美妍はファイルの最後から、白い画用紙を取り出した。
子どもの絵だった。色鉛筆の線は拙く、壁は斜めに傾き、窓は黒い四角で塗られている。だが道允は、その絵を見た瞬間に息を忘れる。
割れた高窓。錆びた鉄扉。灰色の床。床の端に描かれた水たまりのような青い線。
そして中央から少しずれた場所に、小さな靴が二足、描かれていた。
一つは黄色い。志厚の写真にあった靴と同じ色だ。もう一つは、灰色に近い古い運動靴だった。二足は並んでいない。片方は扉の近く、もう片方は、十歳の道允が記憶の中で立っていた位置のすぐ後ろにある。
「志厚が、自分で描きました」
美妍はかすれた声で言う。
「誘拐される三日前です。私たちには、ただ怖い絵にしか見えませんでした。でも今朝、ニュースで姜武鎮が死んだと聞いてから、どうしても……この絵を見てもらわないといけないと思ったんです」
道允は画用紙へ手を伸ばしかけ、途中で止める。触れれば、記憶が開いてしまう気がした。海凛が代わりに端を押さえ、端末の記録映像へ映す。
画面の中で、二足の小さな靴が拡大される。
道允の断片記憶には、片方の靴しか映っていなかった。李志厚の押収品目録でも、現物は片方だけだった。だが志厚の絵は、倉庫に二人分の子どもの靴があったと示している。
海凛が低く言った。
「白さん。これは、志厚君が見たものではありません」
道允はうなずけない。視線は灰色の運動靴に釘づけになる。記憶の底で、背後に隠れていた黒い欠損が、ほんの少しだけ形を持つ。
その瞬間、隔離端末の追加照合が勝手に完了音を鳴らした。
閉じていたはずの画面に、DY-10の照合結果が浮かぶ。絵の灰色の靴の位置座標と、第五特殊執行室の破損映像内の欠損座標が、赤い線で重なっていた。
そしてその下に、裁判所サーバーが新しい候補名を表示する。
『補助対象、未成年女児の可能性』
道允の指先が冷たくしびれる。姜武鎮が最後に言った、もう一人の子ども。志厚が誘拐前から見ていた、倉庫の中の子ども。十歳の自分が背に庇っていた黒い欠損。
海凛が画面を見つめたまま、初めて言葉を失う。
閲覧室の保安灯が、静かに赤へ切り替わった。
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
15話 志厚の検査記録と世羅の警告
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