呉世俊の言葉がホールの空気を切った瞬間、道允は振り返らなかった。
父親の記録。その一語だけで、白昌浩の署名、金道植の病室、十歳の自分の空白がまとめて客席へ晒されたように感じる。前列の公務員たちは興味と警戒を混ぜた目でこちらを見ている。呉世俊はそれを望んでいた。道允が怒れば、危険執行官の映像が完成する。
海凛の声が、耳元でほとんど息だけになる。
「歩いて。反応しないで」
道允は足を止めない。出口前の警備員が半歩動いたが、海凛は鞄から紙の招待証を抜き、通過認証へ押し当てる。弁護士徽章が一瞬だけ光る。警備員が手順を確認する隙に、二人は硝子扉を抜けた。背後で拍手が戻る。呉世俊の声も、制度の言葉へ戻っていく。
廊下の角を曲がったところで、海凛は道允の袖を引いた。
「走らない。監視に残ります」
「向こうは俺を見ていた」
「最初から席も動線も知っていたのでしょう。だから、予定どおりに外れます」
地下駐車場へ下りる非常階段は人が少ない。海凛はそこで端末を開き、中継チップから抜いた研究リストを隔離画面へ展開した。講演で映された美しい略歴とは違い、そこには予算番号、共同研究者、閉鎖済み施設、対象群分類が無機質に並んでいる。
末尾の一列だけ、灰色のタグが二重に付いていた。
『CS-SR-EXB』『環境管理委託』『青松特殊収容所旧実験棟』
道允は画面を見つめる。
「青松。閉鎖施設コードは、ここですか」
「正式には廃止された特殊収容所です。十二年前に収容者移管、十年前に実験棟閉鎖。公文書上は環境浄化と設備撤去だけ」
「なのに、呉世俊の転換年度以降の予算に残っている」
海凛はうなずく。画面の右下に、内部告発者ネットワークからの未読通知が点滅していた。彼女は一度だけ道允を見る。開く前から、良い内容ではないとわかっている顔だった。
通知文は短い。
『青松旧実験棟、現地サーバー残存。夜間のみ環境管理経路稼働。研究名、人格耐性試験。死刑囚および長期囚へ複数記憶束注入。対象者脳の境界崩壊点を測定』
道允の胃の奥が冷える。金道植の中に重なっていた処刑室、独房、取調室。姜武鎮の脳を縫っていた恐怖層。言葉にならなかったものが、研究名を与えられている。
海凛はさらに添付を開く。施設図面の断片だった。山間部の収容棟、外周フェンス、廃棄物搬入口、そして実験棟の地下へつながる細い通路。図面には『環境管理夜間点検路』とある。
「告発者が開けると言っています。今夜一時四十分から十五分だけ」
「罠の可能性は」
「あります。けれど、ここを開かないと、呉世俊は講演者のままです」
道允は端末の灰色タグを見つめる。父の記録を読んだか、と呉世俊は言った。読ませたかったのではない。読んでも、まだ全体を見ていないと示したのだ。
「行きます」
海凛は反対しない。ただ、車両予約を外部名義に切り替え、裁判所サーバーへ現在のリストを暗号保全した。
夜半、二人は青松の山道へ入った。街灯は途中で途切れ、車窓の外は黒い林と古い金網だけになる。特殊収容所の正門は封鎖板で塞がれ、公式には廃墟にしか見えない。だが敷地奥の低い建物だけ、換気塔の赤い灯が生きている。
海凛が無人車両を林道脇へ止める。
「ここから徒歩。会話は必要最小限で」
道允はうなずき、端末の通信を閉じる。外気は湿って冷たい。金網の切れ目へ近づくと、錆びた南京錠が内側から一度だけ震えた。誰の姿も見えないまま、ロックが外れる。
通路の先には、環境管理業者用の小さな扉があった。認証盤は古い型で、海凛の端末に届いた一時キーを受け入れる。扉が開くと、消毒薬と湿ったコンクリートの匂いが押し寄せた。
青松旧実験棟は、閉鎖という言葉とは違っていた。白い床は埃をかぶっているが、天井の配線だけが新しい。壁の標識は剥がされているのに、監視レンズの黒い点はまだ残っている。道允は歩きながら、角ごとの視野を数える。
地下階段を下りると、鋼鉄扉に『第三区画』という掠れた文字が残っていた。海凛が端末を差し込む。内部告発者のキーはここでも通る。扉の向こうにあったのは、病院でも刑務所でもない部屋だった。
壁際に記憶椅子が三台並んでいる。第五特殊執行室の装置より古いが、拘束リングは太く、頭部固定具には乾いた茶色の痕が残っている。天井から垂れたケーブルは切断されず、床の溝を通って奥のサーバー室へ続いていた。
道允の喉が勝手に動く。
「ここで、入れたのか」
「複数の記憶を、順番に。耐えられるかを見るために」
海凛の声は低い。彼女は椅子を見ないようにして、サーバー室の扉へ向かう。怒りを見せれば手が鈍るからだ。道允も同じように、椅子から目を離す。
サーバー室は生きていた。ラックの半分は停止しているが、奥の三列だけ青いランプを点滅させている。環境管理名目の電力が、ここへ流れていたのだ。海凛は持参した端末を閉鎖回線へ直結し、道允は監視ログの書き込みを止めるため、古い保守端子へ迂回コードを入れる。
「残り九分」
海凛が言う。
画面に索引が開く。研究番号、対象者、記憶束構成、反応値、人格境界破損率。死刑囚の番号が並び、その横に恐怖、怒り、罪悪感、順応という分類が積まれている。人間の苦痛が、薬剤の配合表のように扱われていた。
「候補者名簿を探します」
「姜武鎮以前の容器候補」
道允が条件を入れる。容器安定化前処理、人格耐性、NAC-04-113A。検索結果が三件で止まり、すぐに一件が追加で灰色表示になる。
海凛の指が止まった。
第一候補。金道植。長期囚。怒り反応定着試験後、人格境界重度破損。再利用不可。
第二候補。尹泰謙。長期矯正対象。非事件関連恐怖反応混入、自己罪悪感過剰。日常機能崩壊。再利用不可。
第三候補。姜武鎮。死刑囚。複合恐怖層定着、裁判証拠用表層生成、容器適合率九十七・六。分類、完成候補。
海凛の顔から血の気が引く。兄の名前が、研究表の二行目に平然と置かれている。十年追ってきた事件が、失敗欄の一つとして処理されている。
道允は声を出さない。彼女に慰めを言う場所ではない。今必要なのは保存だ。彼は名簿を丸ごと隔離コピーへ送り、ハッシュ値を生成する。
その時、最下段の灰色行が明滅した。
『次期対象者、未割当』
『古登録波形照合、待機』
『候補コード、DY-10』
海凛の手が、端末の上で凍った。
道允はその文字を読んだ瞬間、胸の奥にあった白い空白が、冷たい形を持つのを感じる。DY。白道允のイニシャル。十。記憶を消された年齢。第五特殊執行室の破損映像に浮かんだ識別列。姜武鎮の次の候補者欄。すべてが、ここで同じ名前に閉じる。
「……道允さん」
海凛が初めて、職務の声を失う。
道允は画面から目を離せない。自分は事件に巻き込まれた執行官ではなかった。十年前から、番号を振られ、戻され、観察され、必要な時に再び呼び出される対象だった。
その瞬間、サーバー室の奥で停止していたはずの端末が一斉に点灯した。灰色だった『未割当』の文字が、赤へ変わる。
『候補DY-10、生体接近確認』
『割当手続き、再開』
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
29話 完成容器と封鎖実験棟
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