指が固まった、その一秒後だった。
緊急停止ボタンの縁に触れかけた道允の親指が、見えない力に押し返される。停止面の赤い光がいったん沈み、すぐに黒へ反転した。執行卓の警告音が一段高く跳ね上がる。
『緊急停止要求、保留』
『深層混入層、対象者脳内に固定化』
『自動補正モードへ移行』
「そんな……白執行官、切断が弾かれています!」
世羅の声が裂ける。道允はもう一度、停止ボタンを押し込もうとする。だが装置は受け付けない。記憶椅子の固定アームが姜武鎮のこめかみをさらに強く押さえ、神経端子が青白く発光する。椅子の下から低い唸りが響き、空調の冷気まで震えた。
「手動遮断に切り替えろ」
「権限が落ちています。補正回路が主系統を奪っています!」
道允は執行卓の側面パネルを開き、物理遮断レバーへ手を伸ばす。だが画面に新しい表示が走る。
『対象者急性崩壊回避のため、執行官感覚基準を臨時参照』
次の瞬間、こめかみの奥を針で貫かれたような痛みが走った。
道允の視界が、執行室から引き剥がされる。白い壁も、世羅の青ざめた顔も、姜武鎮の痙攣する身体も薄い膜の向こうへ沈む。代わりに、濃いカビの匂いが鼻腔を満たした。古い木材が湿気を吸って腐りかけた匂い。金属の錆。床に溜まった水の冷たさ。肺へ入る空気が、生ぬるいのに底だけひどく冷えている。
倉庫だ。
画面の中ではない。道允自身の皮膚の内側で、倉庫が開いている。
割れた高窓から初夏の光が斜めに落ちる。光の筋には埃が舞い、壁のひび割れを白く浮かび上がらせる。遠くで蝉が鳴いているような、しかし厚い壁に遮られて潰れた音がする。天井から落ちる水滴が、ひんやりした床で弾ける。
裸足ではない。だが靴底越しに冷気が上がってくる。小さな足。頼りない膝。汗で背中に貼りつく薄い半袖シャツ。
道允は息を止める。
『俺は、ここにいた』
思考ではない。結論でもない。身体が先に知っていた。十歳の自分は、たしかにこの倉庫に立っていた。窓の位置も、水滴の間隔も、床のひびの形も知っている。木箱の裏に錆びた釘が出ていることも、鉄扉の向こうに別の部屋があることも知っている。
なのに、そこへ来る前の記憶がない。
誰といたのか。なぜここにいたのか。どうやって出たのか。白い霧で塗り潰されたように、前後だけが抜けている。十歳の夏が、そこだけ丸くえぐられていた。思い出せないのではない。思い出す場所そのものが、脳の中から切り取られている。
「白執行官!」
世羅の声が遠くで響く。道允は執行室へ戻ろうとするが、倉庫の感覚が骨の内側から噛みついて離さない。喉の奥に鉄の味が広がる。目の前の十歳の少年が、モニター越しではなく、手の届く距離にいるように見える。
少年は震えている。逃げろと唇を動かしたあと、何かを背中に庇うように両腕を広げている。道允の視界はその背後を捉えようとする。木箱の影。倒れた布。小さな白い何か。だが補正ノイズが走り、そこだけ黒く裂けた。
見せないように、誰かが塗っている。
姜武鎮が絶叫した。
執行室の音が一気に戻る。記憶椅子の上で、姜武鎮の身体が弓なりに反っている。拘束具が軋み、手首の皮膚が裂けて血がにじむ。開いた口から泡があふれ、喉の奥で潰れた呼吸が鳴った。
「対象者脳圧、危険域! 補正層が二重に噛んでいます!」
世羅が制御卓へ飛びつく。道允もようやく手を動かす。だが指先が自分のものではないように遅い。倉庫の床の冷たさがまだ足裏に残っている。十歳の身体の恐怖が、現在の筋肉を縛っていた。
姜武鎮の脳波モニターに、二つの恐怖値が重なって跳ねる。
一つは李志厚のものだ。車の床に押しつけられ、息を塞がれた七歳の恐怖。
もう一つは、倉庫のものだった。視点の高さは定まらず、子どもの心拍と大人の呼吸が交互に混ざり、そこへ道允の生体反応まで絡め取られている。姜武鎮の脳は、被害児童の死の恐怖と、道允の封印された記憶片を同時に浴びている。
「姜武鎮、聞こえるか。意識を戻せ」
道允はマイクへ向かって言う。声は掠れていた。
姜武鎮は答えない。瞳孔が開き、焦点が合わない目が天井を見ている。だが唇だけが、何かを探るように震えた。
「……ち、がう」
かすかな声だった。
道允は身を乗り出す。
「何が違う」
姜武鎮の喉がひゅう、と鳴る。歯のあいだから血が滲み、泡に混じって赤く広がった。
「俺じゃ、ない……あれは、俺の……」
言葉は途中で途切れる。椅子がまた激しく揺れ、警告灯が赤から紫へ変わる。神経崩壊の直前を示す色だ。
「白執行官、もう補正ごと落とします。対象者が死にます!」
「落とせ」
「裁判所命令の主系統まで飛びます」
「責任は俺が取る。落とせ!」
世羅がためらわず非常系統に手をかける。だがその前に、姜武鎮の身体が急に静まった。痙攣が止まったのではない。全身の筋肉が一瞬で硬直し、音を失ったのだ。執行室の警告音だけが、過剰に鮮明になる。
姜武鎮の目が、ゆっくり道允へ向く。
焦点は合っていない。なのに見ている。道允の現在の顔ではなく、その奥にいる十歳の少年を見ている。
「おまえ……」
血に濡れた唇が動く。声はマイクを通さなくても、奇妙にはっきり聞こえた。
「お前も……倉庫の子どもだった」
道允の中で、何かが落ちた。
それは記憶ではない。記憶が戻ったわけではない。むしろ逆だった。空白の形が初めて輪郭を持った。自分の人生の中で最も重要な一日が、誰かの手で丸ごとえぐり取られている。えぐられた場所に、別のものを詰められ、平らにならされ、何もなかったように歩かされてきた。
父の穏やかな顔。矯正制度への信頼。執行官として積み上げてきた手続き。すべてが、薄い氷の上に置かれていたのだと悟る。
「白執行官、下がって!」
世羅が叫ぶ。姜武鎮の口から血が噴き、頭部固定具の内側に赤い飛沫が散った。モニターの数値が一斉に振り切れる。記憶椅子は自動鎮静剤を注入しようとするが、補正回路がまだ主導権を握っている。椅子は姜武鎮を救おうとしているのか、壊そうとしているのか、もう判別できない。
道允は手動遮断レバーを掴む。指に力を込める。皮膚の奥で再び倉庫の冷気が立ち上がる。十歳の自分が背中越しに振り返り、もう一度、声のない口で告げる。
『逃げて』
今度は、誰に向けた言葉なのかわからない。志厚へか。姜武鎮へか。現在の道允へか。あるいは、少年の背後に黒く塗り潰された誰かへか。
道允は歯を食いしばり、レバーを引き下ろした。
執行室の照明が半分落ちる。記憶椅子の発光がぶつりと途切れ、姜武鎮の身体が拘束具の中で崩れる。神経端子が順に消灯し、モニターに灰色の遮断表示が重なった。遅れて、非常電源の白い光が室内を満たす。
静かだった。
姜武鎮は息をしている。浅く、切れ切れに。だが意識はない。頬を伝う血と汗だけが、彼がさっきまで叫んでいた証拠のように残っている。
世羅が分析官席から立ち上がれないまま、震える指で救急チームを呼ぶ。声は職務用の抑揚を保とうとしているが、語尾が何度も崩れる。
「第五特殊執行室、対象者急性神経発作。救急搬送要請。執行装置、強制遮断済み。繰り返します、強制遮断済み」
道允は返事をしない。手はまだレバーを握っている。離そうとしても、指が開かない。倉庫の匂いが肺に残っている。初夏の光がまぶたの裏を焼き、床の冷たさが足首から上へ這い上がる。
彼は自分の十歳前後を思い返そうとする。
学校。家。父の怒鳴り声。母の食卓。断片はある。だがその一年だけ、写真の中央を刃物で切り抜いたように、肝心な部分がない。いままで気づかなかったのではない。気づかないように作られていた。
視界が傾く。
床が近づいてくる。世羅が席を蹴って走る音が聞こえる。遠くで扉が開き、救急要員の足音が雪崩れ込む。誰かが道允の名前を呼ぶ。だがそのすべてが水中の音のように鈍い。
倒れかけた道允の目に、最後に執行卓の画面が映った。
遮断済みの灰色表示の下で、まだ一行だけが点滅している。
『自動補正参照元、照合中』
文字がぶれ、二重に重なる。次の表示が、かすかな電子音とともに確定した。
『臨時参照生体署名、一致。白道允』
その瞬間、道允の耳の奥で、姜武鎮の血まみれの囁きがもう一度よみがえる。
「お前も……倉庫の子どもだった」
世界が暗く沈む直前、道允は悟る。奪われたのは一つの記憶ではない。自分が何者だったのかを決める、始まりそのものだった。
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
6話 盗まれた生体署名の痕跡
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