壁の奥で一段分の足音が消えてからも、ミンジェはすぐには動けなかった。
録音機の液晶には「施錠音声、応答待機中」という文字が残り、父の名を冠したファイルは一バイトのまま沈黙していた。壁の膨らみはわずかに引いたが、どこかで何かがこちらの反応を待っている気配だけが濃くなっていた。
夜明け前、彼は機材を回収しなかった。ドウォンビルの中で動けば、ペク・ドヒョンが必ず止める。壁を開ける許可も、電気室の鍵も、管理記録もすべて彼の手にある。ならば建物の外側から掘るしかない。
ミンジェは二階踊り場の壁に貼った接触マイクだけを残し、薬局裏で短いメモを書いた。セヨンには、今日中に誰かに聞かれても三階の話をしないよう伝えた。ジョンフンとギジュンにも、記録を続けることだけを頼んだ。
午前七時過ぎ、彼は京畿道の市役所へ向かった。
建築課の窓口は、蛍光灯の白さだけが先に目に入る場所だった。まだ人は少なく、職員たちが紙コップのコーヒーを手に端末を起動している。ミンジェは番号札を取らず、窓口の前に立った。
「ドウォンビルの建築物台帳と竣工当時の添付図面を確認したいのですが」
顔を上げた女性職員は、名札にイ・ヒョンジュとあった。三十代半ばほどで、疲れた目つきの奥に、余計な仕事を増やされたくないという用心深さがあった。
「所有者ですか」
「騒音紛争鑑定士です。管理組合から正式に依頼を受けています」
ミンジェは契約書の写しと身分証を出した。ヒョンジュはそれを見て、端末へドウォンビルの住所を打ち込んだ。画面を見た彼女の眉が少し寄る。
「閲覧だけなら可能です。ただ、古い建物なので電算化された内容がすべてです。図面の写しは申請書が必要です」
「電算化前の紙台帳はありますか」
「普通は見ません」
「普通でない点があるので来ました」
ヒョンジュは口を閉じた。ミンジェの声は低く、押しつけがましくはなかったが、引くつもりがないことだけは伝わったらしい。彼女は後ろの棚から薄いファイルを取り出し、まず電算記録を印刷した。
「これが現在の登録です。地上五階、地下なし。用途は一階近隣生活施設、二階教育研究施設、四階宗教施設、五階共同住宅。一階、二階、四階、五階ですね」
「三階がありません」
「そう登録されています」
「最初からですか」
ヒョンジュは端末をスクロールした。変更履歴の欄で指が止まる。
「電算上は、最初からこの構造です。三階の項目はありません」
「地上五階なのに、三階項目だけない」
「古い建物では、増築や用途変更の過程で表記が変わることがあります」
「階数そのものが飛ぶことはありますか」
ヒョンジュは答えなかった。代わりに、印刷物をクリップで留めて差し出した。
「公式に出せるのはここまでです」
ミンジェは受け取らなかった。
「竣工当時の消防点検添付図面を見せてください。避難経路や階別平面があるはずです」
「それは建築課ではなく、安全管理の保管になるかもしれません」
「取り寄せに時間がかかるなら待ちます。閲覧申請も書きます」
ヒョンジュは小さく息を吐いた。面倒な依頼者だと思っている顔だったが、完全に拒む理由もない。彼女は奥へ行き、しばらくして茶色い厚紙の台帳を二冊抱えて戻ってきた。
「原本です。撮影は禁止です。コピーは、こちらで確認してからです」
「わかりました」
閲覧台に置かれた台帳は、湿気を吸った紙の匂いがした。表紙にはドウォンビルの旧称と竣工年度が記されている。ミンジェは手袋を借り、最初のページをめくった。
一階。薬局と食堂の区画。二階。学習施設。四階。宗教集会所。五階。住居。
紙の上でも三階は抜けていた。
だが電算記録と違い、紙には消えた跡があった。ページ番号の間隔が不自然だった。二階の次の紙は四階ではなく、何かを剥がして貼り直したように、綴じ穴の周りだけ色が違う。ミンジェは光の角度を変えた。
「この台帳、途中で差し替えていますね」
ヒョンジュが身を乗り出した。
「古い書類ですから、補修はあります」
「補修ではなく、上書きです」
ミンジェは四階と書かれた欄の下に、薄く残る罫線を見た。インクは擦れている。だが紙の繊維の沈み方が違った。もともとそこに別の文字があった。
「消防点検の添付図面もお願いします」
ヒョンジュは壁時計を見た。
「地下書庫のほうにあるかもしれません。確認してきます。ここを動かさないでください」
「はい」
彼女が台帳を一冊だけ残して奥へ消えると、閲覧室は急に静かになった。隣の窓口でプリンターが紙を吐き出す音だけがした。ミンジェは手元の台帳を見下ろした。
動かすなと言われた。
だが、めくらないとは言っていない。
彼は綴じ目を傷めないよう、ページの端を慎重に持ち上げた。四階の欄の前後を確認する。用途変更、面積訂正、管理者変更。どれもありふれた行政文書の形をしている。けれど、ページ番号の三十七から三十九へ飛ぶ箇所で、紙の下にほんのわずかな段差があった。
貼り重ねられた紙の端だった。
ミンジェは息を浅くした。蛍光灯の光を斜めに当てるように台帳を傾ける。白い訂正紙の下で、古い文字の圧痕が浮かんだ。
三階賃貸区域。
薄い。ほとんど水に溶けたインクの影のようだった。それでも読めた。三階は空白ではなかった。最初からなかったのでもない。誰かが、そこに存在していた階を、別の階数で上から覆っていた。
ミンジェの指先が冷えた。
削除ではない。抹消でもない。記録を空にしたのではなく、別の現実を貼りつけた痕跡だった。電算記録が最初から一、二、四、五の構造だと言ったのは、単に入力されたからではない。紙の原本そのものが、そう見えるように作り替えられていた。
彼はスマートフォンに手を伸ばしかけ、止めた。撮影は禁止されている。ここで揉めれば、次の書庫閲覧が閉じる。必要なのは感情ではなく、公式なコピーだった。
足音が戻ってきた。
ミンジェはページを元の角度へ戻し、指を離した。イ・ヒョンジュがファイル箱を抱え、少し息を切らして立っていた。
「消防関係は地下書庫に別綴じでした。今日すぐの閲覧は申請が要ります」
「申請します。その前に、このページのコピーをください」
「どのページですか」
ミンジェは台帳の四階欄の前を指した。
「ここです。下に三階賃貸区域と読める痕跡があります」
ヒョンジュは彼の指先を見た。台帳を覗き込む。目を細める。彼女の顔に、困惑ではなく、もっと奇妙な空白が広がった。
「三階……?」
「今、見えたはずです」
「すみません。何階とおっしゃいましたか」
ミンジェは言葉を止めた。
ヒョンジュは本当に覚えていない顔をしていた。とぼけているのではない。職員として嫌な閲覧を拒む表情でもない。数秒前、自分が置いていった台帳を、ミンジェがどのページで止めたのかすら、曇った窓越しに見ているような目だった。
「このページを、あなたが出しました」
「はい、それは覚えています」
「私が何を指摘したかは」
「四階の……用途欄でしょうか」
彼女は慎重に答えた。ミンジェの背中に、ドウォンビルの階段で感じたあの冷えが這い上がった。
音の影響は、建物の中だけではないのかもしれない。
彼は台帳を見下ろした。さっきまで薄く浮かんでいた「三階賃貸区域」の文字は、まだそこにあった。ヒョンジュの目の前にある。だが彼女の表情は、そこだけを認識から滑らせていた。
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
12話 削られた訂正理由の空白
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