キュル、キュル、キュル。
暗闇の奥で巻き戻し音が続くあいだ、ミンジェはスマートフォンの画面を文書箱へ向けた。光の輪は棚板の縁、埃の筋、古い綴じ紐を順に照らしたが、音を出している機械は見えなかった。
「パクさん……」
ヒョンジュの声はすぐ隣にあるのに、壁を一枚隔てたように遠く聞こえた。彼女は机の端をつかみ、削られた理由欄と暗い棚を交互に見ていた。
「何も触らないでください」
ミンジェは短く言い、録音機を胸ポケットから抜いた。市役所へ来る前から録音状態にしてあった小型機だ。電源表示は生きている。だが波形の窓だけが黒く潰れ、音量メーターは底で動かなかった。
それでも、耳には聞こえている。
キュル、キュル。
巻き戻し音は三回で止まった。
次の瞬間、録音機の液晶に一瞬だけ白い線が走り、極端に低い声が割れた磁気の底から浮いた。
「……音の教習所」
ミンジェは息を止めた。声はかすれていたが、今度は切れなかった。ほんの数秒。だが単語として残った。書庫の空気はその言葉を吐き出したあと、何もなかったように静まり返った。
「今の、聞こえましたか」
ヒョンジュは首を横に振った。
「巻き戻し音は……聞こえたと思います。でも、声は」
「無理に思い出さないでください」
彼は録音機を止めず、画面を確認した。新しいファイルが作成されている。長さは六秒。削られていない。ファイル名は自動の時刻表記のままだった。
市役所の非常灯が遅れて点き、地下書庫は赤く濁った。ヒョンジュは規則を破って撮影したことを咎める顔もできず、ただ文書箱を閉じようとした。ミンジェはその手を止め、削られた理由欄とペク・テジュの署名に付箋を貼った。
「コピー申請はこのまま出してください。ドウォンビル全体の用途変更資料として」
「私が、忘れたら」
「閲覧記録があります。付箋もあります。あなた自身が手続きした形を残してください」
ヒョンジュは震える指で申請番号を書いた。三階という言葉を避けると、彼女の動きはかろうじて行政の軌道へ戻る。ミンジェはその姿を見ながら、音が人の記憶を消すのではなく、特定の入口だけを塞いでいるのだと改めて思った。
市役所を出るころには昼を過ぎていた。外の光は薄かったが、地下書庫の赤い非常灯よりは現実に近かった。ミンジェは庁舎の階段を降りながら録音ファイルを再生した。
キュル、キュル、キュル。
数秒の無音。
「……音の教習所」
低くかすれた囁きは、再生するたび同じ位置にあった。ノイズを増幅しても、母音の揺れは変わらない。人が後から吹き込んだものではなく、文書箱の奥、削られた理由欄の向こう側から直接出た声だった。
ミンジェは再生を五度繰り返し、波形の山を目で覚えた。声の直前に、木箱の蓋が内側から軽く叩かれたような低い衝撃音が刻まれている。書庫の棚に隠れた機器ではない。音は紙の束の内部から生じ、録音機へ入る前にすでに古いテープの質感を帯びていた。
ドウォンビルへ戻るバスの中でも、彼はイヤホンの片側だけを耳に入れた。窓の外では低い商店街が流れ、看板のハングルが薄い雨粒に歪んでいた。だが耳の底では、あの囁きだけが乾いたまま残っている。
音の教習所。
歌や楽器の教室なら、なぜ三階全体を抹消する。なぜ訂正理由を削る。なぜペク・テジュの名が、巻き戻し音の直後に浮かぶ。
『ペク・ドヒョンは知っている』
その結論は、推測ではなく既に音の形を持っていた。
ドウォンビルに着くと、一階薬局のシャッターは半分だけ開いていた。セヨンが奥から顔を出しかけたが、ミンジェは目だけで制した。まだ聞かせる段階ではない。階段室には消毒液と古いコンクリートの匂いが混じり、二階から四階へ折れる長い空白が昼でも冷えていた。
管理室の扉は開いていた。
ペク・ドヒョンは机の上の書類を揃えていた。整った顔の目の下には、昨夜より濃い影がある。ミンジェが入ると、彼は待っていたように顔を上げた。
「市役所へ行かれたそうですね」
「ええ。竣工時の資料を見ました」
「古い紙は誤記が多い。あまり振り回されないほうがいいですよ」
ミンジェは録音機を机に置かず、手の中に持ったまま尋ねた。
「ペク・テジュとは誰ですか」
ドヒョンの指が一枚の書類の角で止まった。ほんの一拍だった。だがミンジェは見逃さなかった。
「昔の建築業者の名です。父の代の人間ですから、私が詳しく知る立場ではありません」
「建築主として署名していました」
「なら、なおさら建築業者でしょう」
「三階を抹消した文書にも、その名がありました」
ドヒョンの視線が鋭くなる。丁寧さの膜が薄く剥がれ、下から固い命令が見えた。
「パクさん。あなたの依頼は騒音鑑定です。三十年前の権利関係を掘ることではありません」
「騒音の発生源が、その三十年前の処理に繋がっています」
「繋がっていません」
「ではなぜ、三階の記録だけが消えている」
「三階はありません」
言い切る声は低かった。部屋の空気が一瞬、硬貨七枚目の後のように平らになった。
ドヒョンは立ち上がり、壁際の書類棚へ歩いた。古い契約書や管理費台帳が並ぶ棚だった。彼はその中段を閉じ、鍵を差し込んだ。金属が噛む小さな音が、ミンジェの耳に不自然なほど大きく響いた。
「これ以上、入居者を不安にさせる行動は控えてください。報告書の提出を待っています」
「質問への答えになっていません」
「答える必要がない質問です」
ドヒョンは鍵をポケットへ入れた。そこまで露骨に隠されると、逆に探すべき場所は狭まる。ミンジェは録音機をしまい、管理室を出た。
廊下に出ると、掲示板の前で足を止めた。現在の清掃当番表、消防点検のお知らせ、塾の模試日程、薬局の営業時間。どれも最近貼り替えられた紙だった。だが掲示板の右下だけ、金具が古く、板がわずかに浮いている。
ミンジェは周囲を見た。食堂のテレビ音、薬局の小さなレジ音、二階から降りる足音。ドヒョンの姿はない。
彼は掲示板の隙間へ指を入れ、ゆっくり引いた。板の裏側に、黄ばんだ紙片が一枚挟まっていた。糊はとっくに乾き、端は虫に食われている。広げると、色あせた赤と青の印刷が現れた。
賃貸案内。
ドウォンビル新規入居募集。
そして中央の目立つ枠に、太い文字でこうあった。
「ドウォン音の教習所 3階入居」
その下に、小さな写真があった。廊下に並ぶ十二の扉。看板らしきプレート。さらに下段に、院長名が印刷されている。
ペク・テジュ。
市役所の削られた文書の署名と同じ名だった。建築主ではなく、院長。三階を抹消した男が、三階に入居した教習所の院長でもあった。
ミンジェは紙を持つ指に力が入るのを感じた。証拠が一つ、行政文書から建物の内側へ戻ってきた。消された階は、ただ貸し出されたのではない。名を変え、目的を隠し、人の出入りする場所として始まっていた。
そのとき、すぐ上の階段から床板が鳴った。
ミンジェが顔を上げると、踊り場に老人が立っていた。小柄な女で、灰色の髪を後ろで結び、古いカーディガンの袖を手首まで引いている。上階から降りてきたのだろう。五階のワンルームに住む入居者かもしれない。彼女は手すりを握り、目だけでミンジェの手元のチラシを示した。
「それを、どこで」
声は細いのに、廊下の音を押しのける重さがあった。
「掲示板の裏です。あなたはこれを知っていますか」
老人は答えなかった。ゆっくり階段を降りて近づき、ミンジェの手元にあるチラシの院長名を見た。その目が、印刷されたペク・テジュの文字の上で止まる。
ミンジェは口を開きかけた。
「ペク・テ——」
「言うな」
老人の低い声が、階段室を切った。
それは怒鳴り声ではなかった。だがミンジェの喉の奥で、続く音節が凍った。老人は階段の低い位置から手すりを強く握り直し、白くなった指でチラシの名前を指した。
「その名は、まだ口にしてはいけない」
直後、二階と四階のあいだの壁の奥で、誰も踏んでいないはずの階段が一段、きしんだ。
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
14話 ユン・ボンレの青い票
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