青い票の裏側から滲み出した泣き声は、すぐに消えた。
消えたあとも、部屋の中の空気だけが泣き続けているようだった。ボンレは両手を膝に押しつけ、食卓の上のケースを見ないようにしていた。ミンジェは紙票を元の向きに戻さず、まずスマートフォンを取り出した。
「記録します」
「撮らないで」
「これを隠したままにすれば、次に同じ音が出たとき、何と照合することもできません」
ミンジェは青い票の表、裏、端の破れ、押印の濃さを順に撮った。フラッシュは使わなかった。小さなシャッター音が鳴るたび、ボンレの肩が少しずつ縮んだ。彼は撮影後、画像が保存されたことを確認し、番号の欄へ指を寄せた。
青い押印の下に、細い活字で通し番号が打たれていた。
DWS-0317-12。
「この番号に覚えはありますか」
ボンレは首を振った。否定ではなく、そこに近づけない人間の動きだった。
「なぜ今まで隠していたんです。あなたは、最初から音の教習所を知っていた」
「知っていたから隠したんじゃない。知っていることが、どこまで本当か分からなかった」
「青い票の裏にあなたの名前があります」
「名前はある。けれど、名前があれば人は全部覚えているの」
細い声だったが、そこには責め返す力があった。ミンジェは答えなかった。セヨンのカレンダーにも息子の誕生日は残っていた。ジョンフンの教科書にも公式は印刷されていた。紙に残っていることと、本人の内側に残っていることは違う。
ボンレは伏せられた写真立てへ目を向けたが、手は伸ばさなかった。
「若い頃よ。夫が倒れた。手術費が要った。借りる先はもうなかった。市場で一緒に働いていた人たちも、誰かは病院代、誰かは家賃、誰かは子どもの授業料で首が回らなかった」
「その人たちと三階へ上がった」
三階、という言葉を口にした瞬間、蛍光灯の紐がかすかに揺れた。ボンレは唇を噛んだが、今度は止めなかった。
「階段を上がった覚えはない。エレベーターでもない。気づいたら、細い廊下に並んでいた。皆、何かを抱えていた。封筒、古い財布、病院の紙。私は夫の診断書を握っていたと思う」
「録音室は」
「狭かった。壁が厚くて、外の音が死んでいた。机の上に黒いマイクがあった。向こうの部屋で、丸いリールが回っていた。キュルキュルじゃない。もっとゆっくり、布を引くような音」
ボンレの目が、今の部屋ではなく別の暗い部屋を見た。ミンジェは録音機のレベルを下げた。彼女の声を大きく拾えば拾うほど、何かが聞きつける気がした。
「あなたは何を預けたんです」
問いは避けられなかった。青い票には泣き声とある。だが本人の口から出る答えが必要だった。
ボンレは長く黙った。窓の外で誰かが廊下を歩いたような音がしたが、五階の廊下はすぐに静まった。
「分からない」
「泣き声と押されています」
「だから、そうなんでしょうね。でも、どんな泣き声か、誰のものか、私は正確に言えない。赤ん坊だった気もする。違う気もする。泣いていたのは私だったかもしれないし、泣けなくなった私の代わりに、誰かの声を渡したのかもしれない」
「夫のために」
「夫は生きた。しばらくはね。だから取引は成功だった。そう思うしかなかった」
成功、という言葉だけが乾いて落ちた。ミンジェは青い票の端を見た。紙は古いのに、番号と押印だけが異様に鮮やかだった。時間の表面から、そこだけ切り抜かれている。
「ペク・テジュはいましたか」
ボンレの顔色が変わった。彼女はすぐに天井を見上げ、換気口を睨んだ。
「名前を続けて呼ばないで」
「本人を見たんですね」
「白い手袋をしていた。声は優しかった。優しい人間の声じゃない。客を帰さないために柔らかくした声」
「何を言った」
ボンレは両目を固く閉じた。皺の間に、長年押し込めてきた恐怖がにじんだ。
「音を失っても人は生きる、と」
ミンジェの指が止まった。
「他には」
「覚えていない。あの言葉だけ残った。ひどいでしょう。何を渡したかは薄れていくのに、渡させた男の言葉だけが、釘みたいに残っている」
「それで、隠した」
「隠したんじゃない。忘れたふりをした。夫が助かった日、封筒の中の金を数えた音も、病院の廊下で靴が鳴った音も、全部普通だった。普通だったから怖かった。何かを売ったのに、翌日も米は炊ける。薬も飲ませられる。人は本当に、生きてしまう」
その告白は大声ではなかった。だがミンジェには、四階の祈祷院で抜け落ちた一行より重く聞こえた。怪異は、人を突然奪うだけではない。何かを手放したあとも日々が続くという残酷さを、静かに利用している。
彼は青い票をケースへ戻さず、透明な証拠袋に入れた。ボンレが抵抗しようとしたが、指先は途中で止まった。
「持っていくの」
「一時的に預かります。撮影データだけでは弱い。番号を照合します」
「照合して、何が分かるの」
「これが個人の思い出ではなく、手続きだったことです」
ミンジェはタブレットを開き、市役所の地下書庫で撮った写真を呼び出した。削られた訂正理由欄、ペク・テジュの署名、申請受付印。画面の端に映っていた文書番号を拡大する。紙の端が歪んでいたため、彼は角度補正をかけ、数字を手帳に写した。
DWS-0317-09、DWS-0317-10、DWS-0317-11。
次の写真では、面積訂正文書の控えにDWS-0317-13が打たれていた。
ミンジェは青い票の番号をもう一度見た。
DWS-0317-12。
一つだけ、行政文書の列の間に挟まっている。
「同じ日だ」
声が思ったより低く出た。ボンレが顔を上げる。
「何が」
「三階の用途廃止、面積訂正、契約票。番号が連続しています。市役所の抹消処理と、あなたたちの音の契約が、同じ帳簿の上で同時に扱われていた」
「役所が知っていたってこと」
「少なくとも、誰かが同じ番号体系で処理した。建物の三階を消す手続きと、人の音を預かる手続きが、別々ではなかった」
彼は写真のメタデータも開いた。地下書庫で撮った文書群の受付日は、竣工から一か月後の同じ午後に集中している。青い票には日付欄がなかった。だが通し番号だけが、削られた理由欄の前後へ正確に差し込まれていた。行政の抹消と、個人の支払い完了。その二つが同じ機械で刻まれたように並んでいる。
ミンジェは手帳を開いた。DWS-0317-12、ユン・ボンレ、泣き声、一回支払い完了。行政抹消番号と連続。そう書こうとした。
ペン先が紙に触れる直前だった。
部屋の外、五階廊下の奥から、ボンレの声がした。
「まだ終わっていない」
はっきりした声だった。今、食卓の向こうで震えている老女より、少し若く、息が深く、録音室の壁に反響したような声だった。
ミンジェは立ち上がった。椅子の脚が床を引っかき、ボンレの肩が跳ねる。彼はすぐに彼女を見た。
ボンレの口は、固く閉じられていた。
唇は一文字に結ばれ、喉も動いていない。ただ、彼女の小さな体だけが、誰かに内側から名を呼ばれたように震えていた。もう一度、廊下の奥で同じ声が薄く笑った。
「まだ、支払いが残っている」
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
16話 壁裏に眠るリールの箱
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