十七分、という数字が受話口の奥でまだ震えていた。
ミンジェは階段を二段飛ばしで上がった。二階の踊り場に近づくほど、硬貨の残響は薄れ、代わりに紙のこすれる音が耳の奥へ張りついた。答案用紙が机に置かれる音。鉛筆の先が紙の上で止まる音。何も書かれないまま、時間だけが削れていく音だった。
オ数学学院の廊下には、蛍光灯が半分だけ点いていた。空き教室の黒板には先ほどの文字が残り、その隣の試験室の扉だけが開いている。ジョンフンは扉の前で立ち尽くしていた。袖口のチョーク粉が汗で灰色に固まり、いつも具体的に動く目が、教室の奥の一点から離れない。
「開けたんじゃありません」
ミンジェを見るなり、ジョンフンは低く言った。
「気づいた時には、ここに座っていました。全員、席順どおりに」
ミンジェは返事をせず、中へ入った。
二十一人の生徒が、模擬試験用の机に一人ずつ座っていた。騒ぐ者はいない。泣いている者もいない。ただ、全員がひどく眠そうな顔で、目の前の答案用紙を見つめていた。恐怖で固まっているのではない。恐怖へ入る前の段差を抜かれたように、ぼんやりと椅子に置かれている。
机の上の答案は、どれも同じだった。
名前欄だけが埋まっている。鉛筆の濃さも、字の癖も、それぞれ違う。だがその下の大問一から最後の計算欄まで、白い。消しゴムで消した跡すらない。最初から、何も始まらなかった紙だった。
「問題は読めるんですね」
ミンジェは一番手前の生徒に声をかけた。中学三年くらいの男子だった。名前欄にはカン・ジュンソとある。少年はゆっくり目を上げ、頷いた。
「読めます。二次関数です。グラフの頂点を求める問題で……式も、意味も、分かります」
「では、最初に何を書けばいいかは」
少年の指が鉛筆を握り直した。鉛筆は紙に近づき、そこで止まった。
「そこが、ないんです」
「ない?」
「頭では、授業でやったって分かります。先生が黒板に書いたのも覚えています。でも、手をどこへ持っていけばいいか分からない。式へ入る場所がないです」
隣の女子生徒が、小さく頷いた。
「問題文を読むと、意味は浮かぶんです。なのに、解くっていう感じが来ません。靴を履いているのに、歩き方だけ忘れたみたいで」
別の生徒が震える声で言った。
「空欄が怖いのに、何を書けば空欄じゃなくなるのか分からないんです」
ミンジェは教室の音を拾わないよう、端末のマイク入力を切った。記録は手入力にした。喪失項目。学習記憶ではない。公式の知識でも、問題文の理解でもない。解答へ移行する身体的な開始感覚。ジョンフンから抜けたものと似ているが、今度は教師ではなく、学ぶ側の入口だった。
「オ先生。模試は何時からですか」
「十時半から自習形式で残したものです。騒ぎがあったので帰したはずでした。保護者にも連絡して……」
「この二十一人の名簿を」
ジョンフンはすぐに教卓のファイルを開いた。手は震えていたが、教師としての動きはまだ残っている。ミンジェは生徒の名前、席順、答案の名前欄、黒板の備考を照合した。番号順に並んだ二十一人のうち、三人の姓に目が止まった。
カン、イム、チョ。
どこかで見た並びだった。ミンジェが目録の撮影データを開く前に、ジョンフンが息を詰めた。
「待ってください。その子たち……」
彼は名簿を奪うように見直し、三つの名前を指で押さえた。血の気が、みるみる頬から引いていく。
「この三人、古い目録にありました。本人ではありません。家族です。カン・ドンチョル、初めて息子に九九を教えた声。イム・ヘスク、娘の入学祝いの歌。チョ・ミンス、学費を払えた日の封筒を閉じる音。契約者名は親の世代でした。でも、生徒の住所と保護者欄が……一致します」
ミンジェは端末で目録画像を拡大した。ジョンフンの指摘は正しかった。三人だけではない。完全に読めない滲みの中にも、保護者名と一致しそうな枝番号がいくつかある。契約は当人だけを狙っていない。預けられた音が、子どもに渡された学びの入口へ伸びている。
「親が預けた音が、子どもの答案に来ている」
ジョンフンの声は掠れた。
「そんなことまで、持っていくんですか」
「音に結びついていれば、対象は本人に限らないようです」
ミンジェは画面を閉じた。胸の奥に、冷たいものが沈む。路地の商人たちから勘定の感覚を抜いた直後、二階の子どもたちから解き始める感覚が抜かれた。金を扱う手から、学ぶ手へ。生活を始める音から、未来を組み立てる音へ。装置は弱い場所を選んでいるのではない。契約番号に沿って、人の生活の取っ手を順番に外していた。
「回収開始まで十七分、と出たのはいつです」
「電話する直前です。今は……」
ジョンフンが腕時計を見た。針は動いている。だが教室の壁時計は十一時四十七分で止まっていた。止まった秒針の先に、チョーク粉のような白い点がついている。
ミンジェは端末の時刻を確認した。残り九分。
「全員、席を立たせないでください。答案にも、問題用紙にも追加で書かせない。名前を呼ぶ時は、出席番号で。保護者へ電話するなら、用件だけです。失った内容を説明しないでください」
「名前を呼ばない方がいいんですか」
ジョンフンの問いに、ミンジェは一瞬だけ黙った。
今までは、名前が契約を開く鍵の一部だった。セヨンの息子の名、ボンレの名、父の名。装置は名を呼ぶ直前の息を集め、誰かを返事させる。もし次の波が名前へ向かっているなら、ここで生徒の名を反復するのは危険だった。
「念のためです。名前欄が埋まっているのに、本文が白紙という形が気になります」
その時、教室の一番後ろで、鉛筆が机から落ちた。
乾いた音は一度だけだった。けれど二十一人の生徒が同時に肩を震わせた。白紙答案の上で、名前欄の文字だけがわずかに濃く見えた。インクではない。鉛筆で書かれたはずの文字の縁が、黒板の字と同じように湿っている。
「先生」
前列の女子が言った。声に起伏がなかった。
「わたし、これを書いた覚えがありません」
「名前欄ですか」
「はい。自分の字だとは思います。でも、いつ書いたのか……」
別の生徒が続けた。
「名前は読めます。でも、さっきから変な感じがします。これ、僕の名前ですよね」
ジョンフンが一歩踏み出しかけ、ミンジェは手で制した。
「答えないでください」
「でも、生徒が」
「答えた瞬間に、こちらが確認者になります」
ジョンフンの喉が動いた。教師として、生徒の名前を肯定することは当然の行為だった。その当然を止められ、彼は苦痛に顔を歪めた。
「どうにかして、彼らをここから……」
事態を収拾しようと、ジョンフンが切迫した声で対策を口にしかけたその時だった。
試験室の開いた扉の向こう、薄暗い廊下に重い足音が響いた。靴底が床を擦るような、急ぎながらも何かを威圧するような歩みだった。ミンジェが振り返るより早く、扉の枠に黒い影が立った。
ペク・ドヒョンだった。
彼は乱れた息を隠そうともせず、暗い目をして教室の中を見渡した。生徒たちの異様な静けさと、白紙の答案用紙を一瞥すると、その顔に冷たい怒りが浮かんだ。
「ここで何をしているんですか」
低く、しかし空間を圧迫するような声だった。
ジョンフンがすがるように一歩前に出た。
「組合長、生徒たちが異常なんです。試験を受けられない。問題は読めるのに、解き方が……」
「そうじゃない」ドヒョンはジョンフンの言葉を冷たく遮った。「なぜまだ塾を開けているのかと聞いているんです。この事態を起こしたのは、そこの鑑定士だ。あなたも分かっているはずでしょう」
ドヒョンはミンジェを鋭く睨みつけ、再びジョンフンに向き直った。
「今すぐ、塾の扉を閉めろ。誰も外に出すな、そして誰も中に入れるな」
「扉を閉めろと?」ミンジェが問い返した。「生徒たちに被害が及んでいるんです。彼らをここに閉じ込める気ですか。これ以上、音の連鎖をこの空間に留めれば、彼らから何が奪われるか分からない」
「外に出せば、連鎖が止まるとでも?」
ドヒョンは吐き捨てるように言った。
「外へ逃がせば、彼らはその『抜かれた感覚』を抱えたまま、親の元へ帰る。そして親たちが騒ぎ始める。そうなれば、あの機械はさらに多くの者を巻き込む口実を得る。被害を広げたくなければ、ここですべてを遮断しろと言っているんです。外部へ漏らせば、塾の存続そのものが危うくなることを忘れるな」
ドヒョンは懐中電灯を握り締め、試験室の扉に手をかけた。
「今すぐ閉めるんだ。これは管理組合長としての命令です」
ドヒョンの言葉に、ジョンフンは反論することもできず、ただ唇を震わせた。彼にとって塾は単なる職場ではなく、人生そのものだった。その急所を突かれた恐怖が、教師としての責任感に冷水を浴びせた。
ミンジェはドヒョンの目を見据えた。彼の主張は生徒を心配してのものではない。装置の存在を隠蔽し、事態が建物の外、公的な領域へ漏れるのを防ごうとする必死の足掻きだった。
ドヒョンが扉を半ばまで閉めかけたその時、教室が不気味に静まり返った。
廊下側の黒板で、チョークが動いた。
誰も触れていない。空き教室の方だ。ミンジェは試験室を出ずに、開いた扉の隙間から黒板の端だけを見た。前の文字の下に、細い線が引かれていく。残り時間の表示ではなかった。数字ではなく、目録の欄のような枠が作られている。
同時に、試験室の蛍光灯が一度だけ暗くなった。二十一枚の答案用紙が、風もないのに同じ角度でめくれた。生徒たちの視線が、最前列中央の席へ集まる。
そこに座っていた少年は、先ほどまで他の生徒と同じようにぼんやりしていた。名前欄にはイム・ソンウとある。彼はゆっくり鉛筆を持ち上げた。ミンジェはすぐに近づこうとしたが、足が止まった。少年の手の動きが、本人の緊張や迷いをまったく持っていなかったからだ。
「鉛筆を置いてください」
ミンジェは低く言った。
少年は聞いていない。白紙答案の真ん中へ、鉛筆の先を置いた。
ジョンフンが震える声で呼びかけようとした。ミンジェはその腕をつかんだ。名前を呼ばせてはいけない。今、この教室で最も危険なのは、解答ではなく、呼びかけだった。
鉛筆が紙を削った。
一画目はゆっくり、二画目はまっすぐ。少年の目は開いていたが、何も見ていない。二十一人の呼吸が止まり、ドヒョンでさえ扉に手をかけたまま息を呑んだ。教室の外では硬貨の音も、看板の鎖も、すべて遠のいた。
答案の白の中央に、黒い文字が一字ずつはっきりと刻まれていく。
次。
は。
名。
前。
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
24話 名前を返せという請求
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