検察調書の最後の一枚は、紙というより扉に見えた。
パク・ヒョヌは署名欄の上で一度だけペンを止めた。三十九歳。テガン・グループ会長家の随行秘書として、彼は生涯、誰かのために扉を開けてきた。会長が車に乗る扉。長男が記者を避けて抜ける裏口。ハン・ユリムが仁川空港で最後に振り返りもせず通り抜けた出国ゲート。
「パク・ヒョヌさん、内容に相違ありませんね」
向かいの検事が事務的に言った。机の上には横領、証拠隠滅、背任幇助という言葉が整然と並んでいた。実際に金を動かした手は別にあった。証拠を消した命令も、逃亡ルートを作らせた人間も、彼ではなかった。
だが彼は知っていた。テガンで下の者が生き残る方法は二つしかない。命令を聞くか、命令した者の罪まで背負うか。
『ユリム様は、必ず戻ってくる』
その考えだけが、最後まで彼の手を支えていた。仁川空港の貴賓通路で、ユリムは偽造パスポートを受け取ると、低く言った。
「少しだけ時間を稼いで。私が戻ったら、全部ひっくり返す」
その声を信じた。会長家の者を信じるなど、随行秘書として最もしてはならないことだと知りながら、それでも信じた。彼女が自分の名前を一度だけ呼んだから。パク室長、とではなく、ヒョヌ、と。
ペン先が紙を擦った。署名は驚くほど滑らかだった。三十九年の人生を閉じるには、あまりに細い線だった。
拘置所への移送は夜になった。護送車の小さな窓から見える高速道路は、雨に濡れて黒く光っていた。前後を走る車のヘッドライトが、規則正しく鉄格子の影を揺らした。隣の護送警官は無線でどこかと連絡を取り合っていたが、声はしだいに途切れ途切れになった。
「こちら三号車、まもなく料金所……」
ざ、と砂を噛むような雑音が混じった。車が速度を落とす。ヒョヌは顔を上げた。
「どうしました」
誰も答えなかった。護送車は高速道路の路肩へ寄り、雨の中で静かに停まった。運転席の警官が無線機を叩き、短く悪態をついた。
その瞬間、ヒョヌは理解した。これは手続きではない。司法でも、偶然でもない。テガンが扉を閉めるときの音だった。
窓の向こう、闇の奥から白い光が膨れ上がった。大型車のヘッドライトが車線を越え、まっすぐこちらへ向かってきていた。護送警官が叫ぶより早く、ヒョヌの体は座席に押しつけられた。
衝撃。
鉄が裂ける音。ガラスが砕ける音。誰かの骨が折れる鈍い音。世界が横倒しになり、雨と血とガソリンの匂いが混ざった。
死ぬ直前、彼の目の前をよぎったのは、会長ハン・ギソプの皺深い顔でも、ハン・ユリムの後ろ姿でもなかった。
開け続けてきた扉の破片だった。
黒いセダンの後部座席の扉。城北洞の別宅の裏門。ホテルの非常口。仁川空港の貴賓ゲート。そして最後に、護送車のひしゃげた扉に刻まれていたテガンの鷲の紋章。
『結局、俺は一度も自分の扉を開けなかった』
そう思った瞬間、白い光がすべてを塗りつぶした。
次に聞こえたのは、雨音ではなかった。
水道管の中を古い水が走る、細い震えだった。湿った布団の匂い。床に染みた練炭の匂い。どこか遠くで犬が吠え、近くの路地を新聞配達の自転車が通り過ぎていく音がした。
ヒョヌは目を開けた。
天井が低かった。ひび割れた白い壁紙に、カビの黒い点が散っている。蛍光灯の紐が揺れ、窓の半分は地面に埋まっていた。外を歩く人の靴底だけが、曇ったガラスの向こうを横切っていく。
半地下の部屋だった。
彼は体を起こそうとして、違和感に息を詰めた。腕が軽すぎる。手が小さい。骨ばった三十九歳の指ではなく、まだ節も固まりきっていない子どもの手だった。
「……何だ」
声も違った。高く、かすれていた。喉を押さえると、薄い胸板の下で心臓が忙しく跳ねていた。事故の痛みはない。代わりに、長く寝込んだ後のような重さが全身に残っていた。
ちゃぶ台の上に、古いカレンダーが置かれていた。赤い丸で囲まれた日付の上に、一九九四年と印刷されている。
ヒョヌは数秒、数字を見つめた。
一九九四年。
彼が秘書室に入るよりずっと前。テガンがまだ外からは輝く成長神話に見えていた時代。ハン・ユリムがまだ幼い娘で、ハン・ドギョムが後継者として名前を売り始める前。会長ハン・ギソプが、誰にも逆らえない城の主だった時代。
『戻った……のか?』
起き上がった足が床に届かなかった。彼は布団から転がるように下り、部屋の隅に立てかけられた鏡へ歩いた。途中で膝が笑い、柱に手をつく。体が思ったように動かない。大人の記憶だけが先に走り、小さな筋肉が追いつかなかった。
鏡の中にあったのは、見知らぬ小学生の顔だった。黒い髪は寝癖で跳ね、頬は少しこけている。目だけが異様に静かで、子どものものではなかった。
鏡の縁に、色あせた名札が挟まっていた。
パク・ジェユン。
彼はその名前を唇の中で転がした。パク・ヒョヌではない。テガン・グループ随行秘書でもない。検察調書に署名した被疑者でもない。
パク・ジェユン。
誰だ。どこの子だ。なぜ自分が、この体の中にいる。
答えを探す前に、台所のほうから女の声がした。
「ジェユン、起きたの? 熱は下がった?」
若い声だった。疲れてはいるが、まだ荒れていない。戸の隙間から顔をのぞかせた女は、手に弁当箱を持っていた。三十代前半ほどに見える。髪を後ろで雑に結び、エプロンの端で手を拭いている。
記憶が、遅れて流れ込んできた。イ・ジョンヒ。母。市場の惣菜屋で早朝から働く女。夜になると家計簿の数字の前で黙り込む人。
「大丈夫……です」
思わず敬語になった。ジョンヒは目を丸くし、それから苦笑した。
「熱で礼儀正しくなったの? 顔を洗って。お父さん、今日は会長車の呼び出しが早いって」
会長車。
その一語で、ジェユンの背筋が冷たくなった。
玄関のほうで男が慌ただしく動く音がした。衣擦れ、靴べらが床に当たる音、金属の鍵束が揺れる音。ジェユンは戸口へ向かった。
そこにいた男を見た瞬間、心臓が一拍遅れた。
若いパク・ソンロクだった。前世で何度か遠くから見た、テガン会長車の古い運転手。晩年には背を丸め、口数少なく地下待機室に座っていた男。その男が、今はまだ肩幅も広く、黒い外套の襟を立てている。
「ジョンヒ、弁当は?」
「ここ。あなた、朝も食べずに行くつもり?」
「会長が急に動くんだ。遅れられない」
ソンロクは弁当を受け取り、腕時計を見た。若い顔には緊張があった。会長専用車を任される運転手の誇りと、失敗すれば一瞬で落ちるという恐れが同時に刻まれていた。
ジェユンは戸の陰からその姿を見つめた。
『俺は、財閥家の息子に生まれ直したわけじゃない』
会長家の食卓でも、秘書室長の甥でも、後継争いの駒でもない。半地下の部屋。運転手の息子。テガンの城門を外から見るどころか、門の下で泥を払う側。
一瞬、虚脱感に膝の力が抜けた。
前世の知識がある。だが力はない。金もない。肩書もない。小学生の体で、会長家の怪物たちに何ができる。ハン・ユリムはまだ遠い屋敷の中にいる。ハン・ドギョムはすでに血筋の階段を上っている。チャン・ムンシクは若く鋭いまま、会長の影として動いているはずだった。
「ジェユン」
ソンロクが振り返った。父、と呼ぶにはまだ喉が慣れなかった。
「熱があるなら学校は休め。母さんの言うことを聞けよ」
「……はい」
ソンロクはその返事を不思議そうに見たが、すぐに時間へ追われた。外套を羽織り、玄関の段差に足をかける。その拍子に、内ポケットから鍵束が滑り落ちた。
金属音が、狭い部屋に鋭く響いた。
ジェユンは反射的に身をかがめた。小さな手が、床に転がった車のキーを拾い上げる。冷たい金具が掌に食い込んだ。
そこには鷲がいた。
翼を広げ、爪を立て、獲物を見下ろすテガン・グループの紋章。護送車の扉に刻まれ、死の直前に白い光の中で見た、あの鷲だった。
指先が震えた。鍵の冷たさだけではない。時間が戻っても、場所が変わっても、この紋章だけは彼の前に落ちてきた。まるで、お前の人生はまだこの扉の下にあると告げるように。
ソンロクがキーを受け取ろうと手を伸ばした。
「ジェユン、早く」
ジェユンは鍵を渡す寸前、金具の裏に小さく刻まれた車両番号を見た。前世の秘書室で何度も目にした番号だった。会長ハン・ギソプの専用車。その日の非公式日程が始まるとき、いつもこの番号が地下の配車板に先に現れた。
ソンロクはキーを握り、扉を開けた。外の冷たい朝が半地下へ流れ込む。
その背中を見ながら、ジェユンはようやく理解した。
この人生もまた、テガンの敷居の下から始まっていた。
だが今度は、扉を開ける側のさらに下にいる。秘書室が見なかったもの、会長家が消したもの、車の後部座席からは決して見えない低い場所の記録が、ここには落ちている。
ソンロクが路地へ出た直後、壁の古い電話が鳴った。
ジョンヒが受話器を取るより早く、ジェユンの体が動いた。短い呼び出しの間隔。早朝の直通。会長車の運転手にだけ回る、急な非公式日程の合図だった。
受話器の向こうから、聞き覚えのある低い声が漏れた。
「パク・ソンロク運転手に伝えろ。城北洞へ向かえ。記録には残すな」
ジェユンの小さな手が、まだ温もりの残る車のキーの跡を握りしめた。
城北洞。
前世で幾度も扉を開け、最後まで中を見られなかった場所。その名前が、一九九四年の朝、もう彼を呼んでいた。
財閥家の末息子ではなく、財閥家の運転手の息子に転生した
2話 運転席の秘密
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