階段の途中で止まった足を、ジェユンはゆっくり下ろした。
戻ってはいけない。だが戻らなければ、父の車がどこへ向かい、誰を降ろすのかをまた知らないままになる。彼は地下二番ゲートの暗い柱の陰に身を寄せ、空になった紙袋の紐を握り直した。熱はまだ残っていた。それでも無線の声だけは、頭の中ではっきり反復された。
二十三時四十分。城北洞別宅。記録欄は空白。
その夜、ジェユンは母に帰ったと見せかけるため、一度だけ半地下へ戻った。ジョンヒには「父さんに渡しました」と短く言い、薬を飲んだふりをして布団へ入った。彼女が台所へ下がると、古い上着を羽織り、窓の格子を押し上げた。小学生の体は軽く、狭い隙間を抜けるには都合がよかった。
本館地下に戻ったとき、時計は二十三時を少し過ぎていた。地下二番ゲートのそばで、洗いたての黒いセダンが低く光っていた。一号車だった。ソンロクは車体の横で手袋をはめ、何度も腕時計を見ていた。
「ジェユン」
見つかった瞬間、父の顔から血の気が引いた。
「お前、何をしてる。家に帰ったんじゃなかったのか」
「父さんが、夜も帰れないと思って」
子どもの言い訳としても苦しかった。ソンロクは叱ろうと口を開いたが、ちょうど車載電話が鳴った。彼は受話器を取り、短く返事を重ねた。
「はい。地下二番、待機済みです。……はい、城北洞へ直行します」
受話器を戻した父は、数秒だけ目を閉じた。すぐにジェユンの腕をつかみ、後部座席へ押し込むように乗せた。
「今さら外へ出したほうが目立つ。着くまで黙っていろ。顔を上げるな」
「……はい」
ジェユンは素直にうずくまった。前世なら運転手に命じる側の後部座席。今は父の失敗にならないよう息を殺す子どもだった。車は滑るように地下を出た。窓の外を、夜のソウルが後ろへ流れた。見慣れた道路だったが、視線の高さが違うだけで、街は別のものに見えた。
城北洞の坂を上がる頃、車内電話がもう一度鳴った。
「門前で停めろ。中へは一人で入る」
相手の声はかすかだったが、チャン・ムンシク特有の硬さがあった。ソンロクは「承知しました」とだけ答えた。
別宅の前に車が停まった。高い塀の内側から、冬枯れの枝が黒く伸びている。門灯は必要な部分だけを照らし、残りの闇をさらに濃くしていた。ソンロクは後部座席を一度振り返った。
「ここで待て。絶対に降りるな。窓も開けるな」
「はい」
父が外へ出ると、冷たい空気が一瞬だけ入り込んだ。彼は門番に何かを伝え、屋敷の中へ消えた。車内には革の匂いと、車載電話の微かな機械音だけが残った。
ジェユンはすぐには動かなかった。三十秒、六十秒。門番の足音が遠ざかるのを待ち、後部窓を指一本分だけ下ろした。夜気が頬に刺さる。屋敷の奥から低い声が漏れた。言葉までは聞き取れない。だが車寄せに入ってくる車の音は、やがて一台、また一台と増えた。
最初に降りた男を見て、ジェユンの喉が固まった。
ハン・ドギョムだった。前世より若い。だが顎の角度、相手を先に値踏みする目、コートの前を秘書に任せる仕草は変わらない。彼はまだ完全な後継者ではなかったが、自分がそうなると疑っていない顔をしていた。
次に現れたのはチャン・ムンシクだった。細身の体に黒い外套をまとい、書類かばんを体から離さず持っている。声を荒げる必要のない人間だけが持つ静けさがあった。前世でヒョヌに「署名すれば家族は守る」と言ったときと、ほとんど同じ表情だった。
最後に、少し腹の出た男が車から降りた。テガン建設社長チェ・ミンテ。東南アジアの工事現場を担保に外貨を引き込み、やがて為替の波に飲まれてグループ全体を揺らす男。ジェユンは彼の写真を、前世の危機対策資料で何度も見ていた。
三人は短く言葉を交わし、玄関へ向かった。扉が開くと、内側の明かりが石段まで流れた。その明るさの中に、壁に掛けられた家族写真が一瞬だけ見えた。
会長ハン・ギソプ。横に立つ夫人。若いドギョム。そして、椅子の前に座らされた幼い女の子。
ハン・ユリムだった。
幼い顔なのに、その目だけはすでに見知ったものだった。前世の仁川空港で、偽造パスポートを受け取った彼女の横顔と重なった。あのとき彼女は、ヒョヌの名前を呼んだ。戻れば全部ひっくり返すと言った。彼は信じた。検察調書に署名し、護送車の中で死ぬまで信じた。
その人間は、今この家の中で、何も知らない娘として育っていた。
腹の奥から熱いものが突き上げた。怒りか、悔しさか、あるいは自分への軽蔑か、区別がつかなかった。小さな手が膝の上で震える。窓の隙間から入り込む冷気より、胸の内側のほうが熱かった。
『飛び出せば終わる』
ジェユンはわざと息を吸った。四つ数えて吸い、六つ数えて吐く。前世で会長の叱責を受ける役員の横に立つとき、心拍を落とすために使った呼吸だった。
今生で感情を表に出せば、また利用される。怒りを見せれば弱点になる。憎しみを叫べば、子どもの癇癪として片づけられる。前世で失ったのは、怒りのせいではなかった。信頼を渡すのが早すぎたせいだった。
彼は目を閉じた。ユリムを許したわけではない。ドギョムを恐れたわけでもない。ただ、今は名前をつけないことにした。名前をつければ、感情は形を持ち、形を持てば誰かに握られる。
しばらくして玄関の扉が再び開いた。三人は来たときより低い声で話していた。チェ・ミンテの額には汗が浮かび、ドギョムはそれを見ても助け舟を出さなかった。チャン・ムンシクが書類かばんを少し持ち替える。そのわずかな動きだけで、今夜の話が単なる家族会議ではないと分かった。
「外貨の窓口は朝一番で押さえます」
風に乗って、チャン・ムンシクの声が切れ切れに届いた。
「銀行側の役員は、建設の車ではなく会長車で動かせ。目立たせるな」
チェ・ミンテが小さく頷いた。ドギョムは玄関の光の中で薄く笑った。
「父には、数字だけ見せればいい。怖がる者から先に黙らせろ」
それ以上は聞こえなかった。三人はそれぞれの車へ戻り、別宅の門前には再び静けさが落ちた。
ソンロクが戻ってきたのは、それから十分ほど後だった。彼の顔には緊張が張りついていた。ジェユンが何も言わず座っているのを見ると、少しだけ安堵したように息を吐いた。
「寝ていたのか」
「少しだけ」
嘘は短いほどいい。ソンロクは疑う余裕もなく、車を出した。
帰り道、城北洞の坂を下りきる前に車載電話が鳴った。ソンロクは片手で受話器を取った。
「はい、パク・ソンロクです」
無線ではなく直通だった。車内の空気が硬くなる。
「明朝六時十分、外国銀行ソウル支店裏口。外国銀行の役員一名を乗せ、本館ではなくテガン建設へ回せ。日程表には入れるな。会長車扱いだ」
受話器越しの声は短く、命令だけを置いて切れた。ソンロクは何度も「はい」と言った後、電話を戻した。
ジェユンは窓の外を見つめたまま、指先にゆっくり力を込めた。
思い出した。前世で資料庫の奥に封じられていた、IMF直前の外貨借り入れ工作。その最初の接点は、公式会議ではなかった。城北洞の夜と、翌朝の外国銀行裏口から始まっていた。
まだ三年あると思っていた危機が、もう目の前で動いている。
そしてその車を運転するのは、父だった。
財閥家の末息子ではなく、財閥家の運転手の息子に転生した
4話 最初の記録と給与封筒
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