鏡の声が落ちたあと、月影堂は一度だけ大きく息を吐いた。
壁の亀裂から流れ込んでいた匂いが薄れ、棚の震えが止まる。天井から落ちた埃だけが、携帯電話の弱い光の中で舞っている。黒い蝋燭の炎はいつの間にか消えていた。燭台には短くなった蝋ではなく、指で触れれば崩れそうな灰の柱だけが残っている。
テオはしばらく動けない。
契約は、受け取った。
その声はもう聞こえないのに、耳の奥でまだ濡れた紙がめくられている。彼は恐る恐る自分の手を見る。黒い煙が触れた手のひら。冷たい刃にかすめられた場所。そこには傷一つない。血も、火傷も、黒い印もない。ただ倉庫の作業で固くなった皮膚と、爪の間に残った黒い蝋の汚れだけがある。
「……何だよ」
テオはもう一度、手を裏返す。無傷だ。あれほど重く感じた印鑑のような感覚も、薄い記憶に変わっている。帳簿の最後の頁へ目を向けると、そこにあったはずの「ユ」の文字も、紙全体の黄ばみと黒ずみに紛れて見分けがつかない。
幻だ。
そう思おうとすると、胸の底がざらりと鳴る。だが別の言葉を選べば、今度は自分が立っていられなくなる。地下で古い帳簿を見て、黒い蝋燭に名前を刻み、疲労と怒りでおかしくなった。そう考える方がまだましだった。
テオは灰になった蝋燭から目をそらし、床に落ちた携帯電話を拾う。画面には細かなひびが増えていたが、時刻はまだ夜明け前を示している。バッテリーは一桁しか残っていない。電波は届いていない。
「帰らないと」
ボクスンの薬。朝の粥。学校。合意書。どれも急に現実の重さを取り戻す。テオは帳簿を閉じようとして手を伸ばし、途中で止める。触れたらまた何かが始まりそうだった。結局、開いたままの帳簿と灰の柱を残し、鞄だけを抱えて店を出る。
商店街はさっきまでの揺れが嘘のように静まり返っている。錆びたシャッターも、黒く塗りつぶされた看板も、いつもの廃墟の顔に戻っていた。ただ月影堂の看板だけが、来た時より少し傾いている。テオは振り返らずに通路を歩く。背中に鏡の視線が刺さる気がして、足は自然と速くなる。
地上へ出ると、空は濃い藍色に薄まり始めていた。小雨は止み、駅裏の路面には街灯の光が汚れた水たまりとなって残っている。始発前のバス停には、清掃員の女と酔いつぶれた男しかいない。テオは一番端のベンチに腰を下ろし、手のひらを膝の上で握る。
無傷だ。
その事実が、かえって怖い。傷があれば、夢ではなかったと決めつけられる。何もなければ、全部を疲れのせいにできる。だが灰になった蝋燭の感触だけが指に残っている。刻んだ四つの名前が、暗闇の中で燃え上がる光景だけが、まぶたの裏から消えない。
バスが低い音を立てて来る。テオは後ろの席に座る。運転手は彼を見もしない。車内の蛍光灯は白く、地下の黒い火とはまるで違う。窓に映った自分の顔は、ただ寝不足の高校生に見えた。目の下が黒く、頬がこけ、髪が額に張りついている。
『契約は、受け取った』
思い出した瞬間、窓の外の看板の文字が一拍だけにじむ。テオは目を閉じる。開けた時には、仁川駅裏の薄汚れた朝が普通に流れているだけだった。
丘の上のヴィラに戻るころ、空は白み始めていた。階段を上がる足音を殺し、三〇二号の鍵を開ける。部屋の中には、古い壁紙と薬の甘い匂いが溜まっている。ボクスンは布団の端で丸くなり、片方だけ袖のずれたカーディガンを着たまま眠っていた。
テオは冷蔵庫の紙を見る。朝の薬はまだだ。鍋に残った粥を確認し、水を足して弱火にかける。何度も繰り返した動きなのに、指先がうまく動かない。スプーンが鍋の縁に当たり、硬い音を立てる。
その音で、ボクスンが小さく身じろぎした。
「……テオ」
テオの手が止まる。
呼吸も止まった。
彼女の声は寝ぼけてかすれていた。けれど、それは間違いなく彼の名前だった。学生さんでも、知らない子でもない。ユン・テオのテオ。あまりにも普通に、あまりにも短く、布団の中からこぼれた。
「ばあちゃん」
テオは鍋を放り出すように火を止め、膝で床を滑る。ボクスンのそばにしゃがみ込むと、彼女は半分だけ目を開けていた。白い髪が頬にかかり、唇は乾いている。それでも目の奥に、ほんの一瞬、薄い光があった。
「俺、分かる?」
聞くべきではないと分かっていても、声が出てしまう。ボクスンはまばたきをする。皺の多い手が布団の上を探り、テオの袖を弱くつかむ。
「遅いねえ……寒かったろう、テオ」
胸の奥に何かが落ちた。痛みではない。喜びとも違う。あまりに欲しかったものを突然渡され、受け取る手が分からなくなるような感覚だった。テオはその手を両手で包む。細い指は冷えていた。
「大丈夫。寒くない」
声が震えた。
ボクスンは安心したように息を吐く。だが次の瞬間、目の光はすっと遠ざかる。彼女は不思議そうにテオの顔を見上げ、袖をつかんでいた指の力を緩める。
「……学生さん、薬の時間かい?」
テオは口を閉じる。
さっきの一瞬が、部屋のどこにも残っていない。ボクスンはまた彼を知らない人の目で見ていた。けれど呼んだ。はっきり、名前を。薬の副作用か、偶然か、寝ぼけた記憶の揺れか。そう片づけるには、タイミングが悪すぎる。
月影堂の黒い炎が、祖母の失われかけた記憶に触れたのではないか。
そう考えた途端、背筋が冷たくなる。同時に、胸の底で小さな熱が灯る。もし本当に何かに触れたのなら。もし、自分を消そうとしていた世界に、ほんの少しでも返す手段ができたのなら。
テオはすぐにその考えを押し潰す。怖い。期待してはいけない。あれは危険なものだ。自分の名前を食おうとした場所だ。そう分かっているのに、ボクスンが呼んだ「テオ」という二音だけが、耳の奥で何度も光る。
薬を飲ませ、粥を食べさせるころには、ボクスンはいつものぼんやりした笑顔に戻っていた。テオは布団を直し、制服の上着を脱ぐことも忘れて壁にもたれる。少しだけ眠れば、学校へ行ける。眠れば、地下のことも薄くなるはずだった。
だが目を閉じるたび、鏡の中の自分が笑う。
足りない。
声のない唇がそう動く。テオは何度も寝返りを打つ。窓の外で朝の車が増え、隣室の水道が鳴り、ボクスンの寝息が細く続く。眠りは来ない。空腹も眠気もあるのに、体の芯だけが固く起きている。
結局、彼は朝になっても同じ姿勢で座っていた。
学校へ向かう道で、携帯電話の電源を入れる。画面はすぐに通知で震える。夜間クラスのグループチャットに、未読が五十件以上溜まっていた。いつもなら開かない。ジヒョクたちの笑い声が詰まった場所だからだ。だが今朝は、通知の勢いが違った。
――これドンス?
――マジで何してんだよ。
――コンビニで暴れてるって。
――動画やばい。
テオの足が止まる。
添付された動画のサムネイルには、蛍光灯の白いコンビニのレジが映っていた。床には倒れた菓子棚。画面の端に、大柄な体を丸めたパク・ドンスがいる。テオは指先が冷えるのを感じながら、再生ボタンを押す。
映像は激しく揺れている。撮っている誰かが笑いながら後ずさり、レジ前の客が怒鳴る。ドンスは片手に紙幣を握っているはずだった。だが彼の顔は白く、目は裏返るほど見開かれている。
「違う、違う! これ金じゃねえ! やめろ、俺じゃねえって!」
太い声がひっくり返っていた。彼は握ったものを振り払おうとする。カメラが寄る。画面はぶれる。それでも、テオには見えた。
ドンスの手にあるのは紙幣ではない。
赤黒い指跡のついた、古い借用書だった。端には濡れたような血がにじみ、金額欄の上で文字が震えている。ドンスはそれを見て、喉を潰すような悲鳴を上げた。
テオの耳の奥で、濡れた紙をめくる音がした。
動画の最後、ドンスの目が宙を泳ぎ、やがてカメラのレンズを見据えた。白目の多いその目が、画面越しにまっすぐテオを探し当てる。
そして彼は、血のついた借用書を握りしめたまま叫んだ。
「ユン・テオ! お前、何をした!」
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
11話 血の借用書と黒い画面
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