――次は、誰が払う。
その一行は、電源を切ってもテオの目の奥に残り続ける。夜明けまで何度も携帯電話を確認したが、画面はただの黒いガラスに戻っていた。けれど黒さの底に、濡れた紙の匂いが沈んでいるような気がする。
翌日の夕方、ハンビット工業高校の廊下はいつもよりざわついている。誰も大声では話さない。だが誰の携帯にも、コンビニのレジ下で血を流すパク・ドンスの動画が入っている。教室の前まで来たテオは、ドアの向こうで途切れ途切れの笑い声と、押し殺した不安の息を聞く。
カン・ジヒョクは先に来ていた。斜め前の席で腕を組み、机の上の携帯を裏返している。目の下に薄い影があり、唇の端には昨日より濃い赤い傷が残っている。彼はテオを見ると、一瞬だけ眉を動かした。
その時、廊下の奥から重い足音が近づく。
「おい、来たぞ」
誰かが小さく言う。教室の空気が、糸で引かれたように入口へ集まる。
パク・ドンスが立っていた。
大柄な体は変わらない。けれど両手は手首近くまで分厚い包帯で巻かれ、指先だけが不自然に膨らんでいる。包帯の白さは新品ではなく、ところどころ黄色く湿り、爪のあたりに赤黒い染みが浮いていた。ドンスは教室へ入る前に周囲を見回し、笑おうとしたが、口の端が引きつっただけだった。
「見んなよ」
いつもの粗い声に戻そうとしている。だがその声は紙の端のように薄い。
ドンスの左手が、教室のドアノブを握る。
その瞬間だった。
彼の肩がびくりと跳ねた。目が見開かれ、包帯の巻かれた手がノブへ貼りついたように固まる。鉄のドアノブは夕方の冷たさを帯びているだけのはずなのに、ドンスは焼けた炭をつかんだような声を上げた。
「う、あ……」
「ドンス?」
ジヒョクが立ち上がるより早く、ドンスはドアノブから手を引きはがし、後ろへよろめく。包帯の隙間から薄い血がにじむ。彼の視線は自分の手ではなく、教室の中へ向いている。黒く濁った瞳が、机、床、窓、黒板を順に追う。
「やめろ」
誰も何もしていない。
「やめろって言ってんだろ……」
担任のオ・ミョンシクが出席簿を抱えて廊下に現れる。くたびれた灰色のジャケットの袖から、赤いペンがのぞいている。彼は騒ぎを見るなり顔をしかめた。
「何をしている。早く席につけ」
その声に、ドンスがゆっくり振り向く。オ・ミョンシクの手の中にある出席簿を見た瞬間、彼の顔が崩れた。
「違う」
「パク、またふざけるな」
「違う、先生、それ……出席簿じゃねえ」
ドンスは後ずさる。背中が廊下の掲示板に当たり、進路指導の紙が揺れる。彼は包帯の巻かれた両手を胸の前で振り、近づいてくる見えない何かを追い払おうとする。
「そこに、赤い指がある。全部、押してある。俺の名前じゃねえのに、俺に払えって……!」
オ・ミョンシクの顔色が変わる。教室の中で椅子が何脚も鳴る。生徒たちが一斉に立ち上がり、誰かが携帯を構えようとして、隣の者に肘で止められる。
「撮るな。先生に見られる」
ドンスの目はもう出席簿から離れない。オ・ミョンシクが出席確認のために開いた頁を、彼は古い借用書の束として見ているらしい。頁をめくるたび、ドンスは息を詰まらせる。
「俺じゃねえって……俺が判押したんじゃねえ……!」
「保健室へ行くぞ」
ジヒョクが低く言い、ドンスの腕をつかむ。だがドンスはその手も振り払う。
「触んな!」
振り払った勢いで、前列の机に置かれていた給食カードの束が床へ落ちる。夜間クラスでも補食の申請に使う薄いカードだ。見かねた生徒の一人が近づき、ポケットから千ウォン札を取り出して見せた。「おいドンス、落ち着けよ。ほら、ただの金だろ」
だがその紙幣と、乾いた音を立てて散った給食カードを目にした途端、ドンスは喉を裂くような悲鳴を上げた。
「増えた、増えた! また紙が増えた!」
彼は床に散ったカードを踏まないように足を上げ、しかし逃げ場を失って壁際へ追い詰められる。給食カードの白い面や、友人が握る紙幣を指さしながら、子どものように泣き出した。
「赤い指、赤い指だらけだ。俺に払えって書いてある。俺じゃねえ。俺だけじゃねえ。ジヒョク、言えよ、お前もいただろ!」
教室の空気が凍る。
ジヒョクの目が鋭く細くなる。彼は一歩で距離を詰め、ドンスの口を塞ぐように肩を抱え込んだ。
「黙れ。お前、昨日からおかしいんだよ」
「紙が来るんだよ! お前の後ろからも来てる! ユン・テオの後ろから、ずっと……!」
テオの名前が出た瞬間、視線が一斉に最後列へ向く。
テオは動かない。息をするたび、胸の奥で冷たいものが広がる。自分は触れていない。ドンスを殴ってもいない。ドアノブも、出席簿も、給食カードも、紙幣も、自分とは何の関係もない。
それなのに、願った通りのことが起きている。
取り立てられろ。奪った分だけ返せ。泣け。怯えろ。
地下で言葉にしたものが、誰の手も借りず、学校の廊下で形を持っている。恐ろしいはずだった。実際、胃が縮み、指先が冷えている。だがその奥に、昨日と同じ細い甘さが走る。ドンスの泣き声が、これまで自分の中に押し込まれてきた声の代わりに聞こえてしまう。
テオはその感覚にぞっとする。
「全員、席に戻れ!」
オ・ミョンシクの怒鳴り声がようやく飛ぶ。だが声量ほど強くない。彼の目はドンスではなく、携帯を持つ生徒たちを追っている。
「今のことを外へ出すな。昨日の動画も、これ以上回すな。学校の問題になる。来月の就職率評価に響いたら、お前たち全員の推薦にも関わる。分かっているな」
誰も返事をしない。
「パクは体調不良だ。精神的なものだ。いいな。妙な噂を流した者は生活指導にかける」
生活指導。推薦。実習。いつもの鎖だ。テオはその言葉が生徒たちの首へ順に掛かっていくのを見る。昨日まで自分を黙らせていたものが、今日は教室ごと口を塞いでいる。
ジヒョクはドンスの腕を強く引く。ドンスは抵抗するが、足元の給食カードを見るたび悲鳴を上げ、まともに踏ん張れない。ジヒョクは舌打ちしながら、ほとんど引きずるように廊下へ連れ出した。
すれ違う瞬間、ジヒョクがテオを睨む。
怒りはある。殺す、とでも言いたげな硬い視線だ。だがその奥で、別のものが揺れている。昨日、動画を見ていた時よりはっきりしている。
恐怖だ。
テオはその目を初めて見る。カン・ジヒョクが誰かを脅すためではなく、自分の足元に穴が開いたことを知った人間の目をしている。
「ユン」
低い声が耳に刺さる。ジヒョクはドンスの肩を抱えたまま、歯の間から絞り出すように言った。
「あとで話す」
テオは答えない。答えたら、自分の声も震えると分かっている。
保健室へ向かう二人の背中を、オ・ミョンシクが追う。廊下の角を曲がる直前、ドンスがもう一度叫んだ。
「金じゃねえ! それ、借用書だ! 全部、赤い指で……!」
声は扉の向こうへ吸い込まれ、急に細くなる。
授業は始まらなかった。オ・ミョンシクは十分ほどして戻り、出席簿を机へ置いたまま、いつもより低い声で同じことを繰り返す。
「パクは保健室で休ませている。外へ言うな。SNSにも書くな。昨日の件も今日の件も、学校として確認中だ。無責任な拡散は処分対象になる」
生徒たちはうなずくふりをする。だが机の下では携帯が震え続けている。誰も信じていない。怖いから黙るだけだ。
テオは黒板を見ている。チョークの白い線が、さっきの文字に重なって見える。
次は、誰が払う。
その問いの答えを、自分は望んでいるのか。ジヒョクか。ミンギュか。マ・サンチョルか。頭の中に名前が浮かぶたび、指先の痺れが少し強くなる。テオは机の下で手を握りしめた。
授業が中断されたまま休み時間になると、廊下は妙に静かだった。テオが水を飲みに出ようと教室を出たその時、保健室の扉が開き、中から薬品と湿布の匂いとともにジヒョクが出てきた。扉が半開きのままになる中、彼はまっすぐ歩み寄り、廊下の角でテオの前に立ちはだかった。
一人だった。
「お前、何をした」
昨日までなら、それは脅しの形をしていたはずだ。だが今のジヒョクの声は違う。低いのに、奥が乾いている。自分でも信じたくないものを、相手の口から否定してほしい時の声だった。
テオは短く返す。
「何も」
「嘘つけ」
ジヒョクが近づく。拳は握られているが、振り上げない。距離を詰めても、いつものように肩でぶつかってこない。テオの顔ではなく、手元と携帯を交互に見ている。
「ドンスが、お前の名前ばかり言ってる。紙がどうとか、後ろから来るとか。昨日からずっとだ。お前、何を見せた」
「知らない」
「知らないで済むと思ってんのか」
その言葉にも、以前の重さがない。ジヒョクは怒っている。けれど怒りを盾にしなければ、足が震えるのを隠せないのだと、テオには分かってしまう。
保健室の中で椅子が倒れる音がした。
ジヒョクの顔が強張る。二人は同時にそちらを見る。半開きの扉の隙間から、ベッドの上で身を丸めるドンスが見えた。包帯だらけの手を胸に抱き、まだ何かをぶつぶつ言っている。
その手のひらが、こちらへ向く。
包帯の巻き目が少しずれていた。白い布の隙間から、腫れた掌の一部が露出している。そこに、赤い血でも青い痣でもない、煤のような黒い跡がくっきり浮かんでいた。
丸い中心から、細い線が四方へ垂れている。
テオは息を忘れる。その形を知っている。月影堂の燭台に残されていた、黒い蝋燭が溶け落ちた跡と同じだった。
ドンスの掌の黒い跡が、まだ消えていない火のように、ぬらりと光った。
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
13話 不良リレーが暴いた罠
次の話