翌日の午後、テオはマ・サンチョルのメッセージを消さないまま、ソンジン下請けの事務所へ向かう。
仁川旧市街の外れにある二階建ての古い建物は、表だけ新しい看板で塗り直されている。階段には油と煙草の匂いが染みつき、踊り場の灰皿には吸い殻が山になっていた。扉を押すと、中から怒鳴り声が飛び出してくる。
「だから言ってるだろ! 俺だけじゃないって!」
イ・ミンギュの声だった。
中にはマ・サンチョル、チャン・ムンホ、オ・ミョンシクがいる。壁際の椅子にはミンギュが座らされ、膝の間で両手を握りしめていた。いつも携帯を構えて笑っていた顔は汗で光り、唇だけが白い。机の上には監視映像の印刷、聞き取り記録、損害額の概算表が並ぶ。
サンチョルはテオをちらりと見ただけで、すぐミンギュへ顔を戻した。
「学生が廃棄品を勝手に売った。作業員は未使用品だと思って取り付けた。事故が起きた。分かりやすい話だな」
「違います。俺、そんなつもりじゃ……」
「つもりで人の手が焼けるかよ」
サンチョルが机を叩く。紙束が跳ね、ミンギュの肩も跳ねる。
「お前一人の窃盗、隠蔽、無断売却。学校にはそう報告する。会社の損害は保護者に請求する。警察に出すかどうかは、こっちの判断だ」
その言い方で、テオは理解する。彼らはもう真実を探していない。切り落としやすい指を一本選び、そこから先をなかったことにしようとしているだけだ。ミンギュが悪くないわけではない。だが彼一人で、旧棟の実習室の手袋も、不良リレーも、祖母の写真を笑った夜も、全部が説明できるはずがない。
ミンギュもそれに気づいている。
「カン・ジヒョクです」
部屋の空気が、音もなく沈む。
オ・ミョンシクの目が細くなる。ムンホは書類へ落としていた視線を上げる。サンチョルは、口元だけで笑った。
「何だと」
「ジヒョクに言われたんです。前の実習室の時も、あいつが部品を持ってきて、俺に見張れって。今回はソンジンの倉庫に置いとけって。余った部品を売れば金になるって言ったのも、あいつです。俺、全部一人でやったんじゃない」
ミンギュの言葉は後半になるほど早くなり、泣き声に近づいていく。昨日まで誰かを撮って笑っていた喉が、今は自分を救うために必死に動いている。
「証拠は」
ムンホの声は冷たい。
「通話があります。メッセージも……」
ミンギュはポケットをまさぐり、すぐ顔を歪める。携帯はすでに取り上げられていた。机の端に置かれている。
その時、事務所の扉がもう一度開いた。
カン・ジヒョクが入ってくる。
目の下の影は濃く、唇の端の傷はかさぶたになっている。だが歩き方だけはいつもと同じ軽さを装っていた。彼はテオを見ると一瞬だけ目を止め、すぐミンギュへ向けて眉をひそめる。
「何の話だよ」
「お前がやれって言ったんだろ!」
ミンギュが椅子から立ち上がりかける。ムンホが肩を押さえ、座らせる。
「ジヒョク、お前の携帯を出せ」
オ・ミョンシクが言う。教師の声というより、問題が大きくならない形を探す管理者の声だった。
ジヒョクは不快そうに舌打ちしながら携帯を出した。画面を開き、通話履歴を見せる。ミンギュの名前はない。メッセージ欄にも、部品や倉庫という言葉は見当たらない。
「知らないっすよ。こいつ、最近金に困ってたんじゃないですか。俺の名前出せば逃げられると思ってるだけでしょ」
「消したんだろ!」
ミンギュの声が裏返る。
「今朝まで残ってた! お前、俺に電話しただろ。昨日も、事故のあと、何も言うなって……!」
「だったら復元でも何でもしてもらえよ」
ジヒョクは携帯を机に置く。音は軽いのに、部屋の中で妙に大きく響いた。
「俺は知らない。ミンギュが勝手にやった。ドンスのことも、こいつのことも、最近おかしいやつが多すぎるだけだ」
最後の言葉で、ジヒョクの視線がテオへ刺さる。怒りよりも、まだ説明のつかない恐怖が奥に沈んでいる。テオは何も言わない。言葉を返せば、その恐怖が自分にも移りそうだった。
ミンギュは机へ手を伸ばし、自分の携帯を取り戻そうとする。
「俺のには残ってる。見れば分かる。ジヒョクから……」
ムンホが手元にあるミンギュの携帯画面を確認する。眉間の皺が深くなった。
「発信履歴がない」
「え?」
「昨日の夜から今朝まで、カンからの履歴はない。メッセージもない」
「そんなわけ……」
ミンギュの顔がゆっくり崩れる。彼は携帯を奪うように受け取り、画面を何度も指で叩く。消えた履歴を探す指は、だんだん乱暴になった。
「違う。あった。絶対あった。俺、消してない」
サンチョルが低く笑う。
「じゃあ、お前が嘘をついたか、証拠をなくしたか、どっちかだな」
「違うって言ってんだろ!」
ミンギュの叫びは、狭い事務所の壁に跳ね返るだけだった。
チャン・ムンホはもう結論を変えない顔で、懲戒委員会の招集書類に日付を書き込んでいる。対象者欄にはイ・ミンギュの名前。事案欄には、外部実習先での部品無断持ち出し、不良品売却、事故誘発の疑い。そこにカン・ジヒョクの名前はない。
オ・ミョンシクはテオへ歩み寄った。
「ユン。お前は参考人だ」
テオは顔を上げる。
「前の実習室の件で、イ・ミンギュが関わっていた可能性が出た。今回の件も含めて、学校へ静かに証言してくれればいい。騒がず、聞かれたことだけ答えろ」
その声は柔らかく作られている。だが中身は命令だ。
「そうすれば、前の設備破損の合意書は処理しない。お前の負担は消える。推薦書にも響かないようにする」
テオは一瞬、息を止める。
合意書が消える。修理費の鎖が消える。祖母の住所を読み上げられ、仕事と推薦を盾に押しつけられた紙が、なかったことになる。
喉の奥が乾く。あの紙一枚のせいで、どれだけ眠れなかったか。薬代を数え、家賃を数え、逃げ道のなさに吐き気を覚えた夜が、脳裏に戻る。
オ・ミョンシクはそれを分かっている。だから差し出している。
「悪い話じゃない。お前ももう、面倒なことに巻き込まれたくないだろう」
テオはミンギュを見る。彼は椅子に沈み、ジヒョクを睨んでいる。ジヒョクは壁にもたれ、何も知らないという顔で携帯をポケットに戻す。その指先だけが、少し強く震えていた。
真実は、すでに動き始めている。
ドンスの掌。ミンギュの監視映像。消えたはずの履歴。黒い画面に浮かんだ問い。自分が口を開かなくても、隠したものは勝手に明るい場所へ引きずり出される。そう知っているからこそ、テオはその提案が餌に見えた。
「いりません」
オ・ミョンシクの顔が止まる。
「何?」
「証言で取引しません。合意書を消すなら、俺が壊してないから消してください」
声は乾いていた。だが震えてはいない。
サンチョルが舌打ちする。ムンホのペンが止まる。ジヒョクが初めて、はっきりとテオを見た。
「ユン、意地を張るな。今なら学校として――」
「俺は何もしてません」
テオは同じ言葉を、もう一度だけ置く。
「だから、取引もしません」
その瞬間だった。
テオが背を向けて事務所の扉を開けると、背後で椅子が倒れる音がした。ミンギュがムンホの手を振りほどき、テオを追って廊下へ飛び出してきたのだ。
「お前か」
声は泣き声で、怒鳴り声だった。
テオが振り返ると、ミンギュは廊下の壁際に置かれていた工具箱から引き抜いたらしい古い工具を握っていた。赤錆びが浮いたモンキーレンチ。油で黒ずんだ先端が、蛍光灯の下で鈍く光る。
ミンギュの顔はぐしゃぐしゃに歪んでいる。恐怖も、恨みも、救われたい必死さも、全部が混ざっていた。
「お前がやったのか、ユン・テオ」
錆びた工具を握る手が持ち上がる。
廊下の奥で、誰かが息を呑んだ。ジヒョクの携帯電話が、ポケットの中で一度だけ震えた。だが誰もそちらを見ない。ミンギュの濡れた目は、まっすぐテオだけを刺していた。
「俺だけ払えってことかよ!」
叫びと同時に、錆びた工具が振り下ろされた。
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
15話 砕けても流れる罪の証拠
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