午前五時四十分、ソウル・ヘミン大学病院の感染症内科病棟では、夜勤明けの蛍光灯だけが人より先に目を覚ましていた。ハン・テオは回診用の端末を片手に、廊下の端から端へ歩いた。靴底が床をこする音は一定で、疲れも焦りもそこには混じらなかった。
「三七一二号室、CRP低下。抗菌薬は維持。培養結果待ち」
研修医が早口で報告すると、テオはうなずき、画面に指を滑らせた。患者の顔を見る前に、白血球数、腎機能、抗菌薬の投与量が頭の中で並んだ。名前を呼ぶ必要がある場面でも、彼は先に病室番号を思い出した。
「先生、こっちの患者さん、昨日から先生に聞きたいことがあるって」
看護師が小声で言った。ベッドの上の老女が彼を見上げていた。目は寝不足の赤さが残り、口元だけが礼儀正しく笑おうとしていた。
「あとで伺います」
テオはそう答えた。嘘ではなかった。あとで時間があれば、という意味だった。
だが「あと」は来なかった。急な発熱、隔離病床の調整、論文の修正依頼、教授からのメール。端末の通知は、患者の呼吸より正確な間隔で鳴り続けた。彼は当直室に戻るたび、机の上のコーヒーを一口だけ飲み、冷めた苦味で自分がまだ眠っていないことを確かめた。
昇進審査まで、あと九日。論文の最終稿はまだ戻っていない。学会発表の抄録には、教授が赤字で「症例数の説得力が弱い」と書き込んでいた。感染症内科フェロー三年目。ここで常勤に残れるかどうかで、彼の次の十年はほとんど決まるはずだった。
『俺は、何をしたくて医者になったんだったか』
当直室の洗面台で顔を洗ったとき、ふとそんな言葉が浮かんだ。すぐに流した。答えを探すには、今日の予定は詰まりすぎていた。
午前六時二十分、夜明けの回診を終えて医局へ戻ると、私物の携帯電話が震えていた。画面には登録のない番号が表示されていた。テオは白衣のポケットからそれを取り出し、数秒だけ見つめてから通話を押した。
「ハン・テオ先生ですか」
知らない男の声だった。海風に似た雑音が、電話の奥で低く鳴っていた。
「そうですが」
「全羅南道ドレ島の面事務所です。ハン・ジョンウ保健所長のご親族で間違いありませんか」
テオの指が止まった。ハン・ジョンウ。母方の叔父。最後に会ったのは母の三回忌の席で、白髪の混じった短い髪と、潮に焼けた顔だけをぼんやり覚えていた。島の保健支所で医師をしていると聞いていたが、頻繁に連絡を取る関係ではなかった。
「叔父が、何か」
電話の向こうで、男は一度息を呑んだ。
「今朝、診察室で亡くなっているのが見つかりました。机に伏した状態で……発見時にはすでに」
言葉はそれ以上いらなかった。テオは医師として死後硬直の時間や発見状況を頭に浮かべ、甥として悲しむ手順をどこかに置き忘れている自分に気づいた。
「死因は」
「詳しいことは、郡の医師が確認中です。ただ、島には今、代わりの先生がいません。数週間前から、所長も体調が悪かったようで……診療もほとんど止まっていて」
電話口の後ろで、誰かが「薬をどうするんだ」と叫ぶ声がした。別の誰かが子どもの名前を呼んだ。男は受話器を手で押さえたらしく、声が一瞬遠ざかった。
「ご遺体の確認と、葬儀のことで一度来ていただけますか。ワンド港から最終便に乗れば、今日中に島へ入れます」
「分かりました。一日だけ年休を取ります」
テオの返事は、自分でも驚くほど平らだった。
「一日、ですか」
男の声がわずかに詰まった。だがテオはその含みを聞き流した。島に医師がいないことも、薬を待つ声も、電話越しの背景音として処理した。彼には明後日の症例検討会があり、週末には論文の再提出があった。叔父の葬儀に顔を出し、必要な書類に署名し、翌朝の船で戻ればいい。それが現実的な計画だった。
教授室の扉を叩くと、オ教授は眼鏡の奥で彼を見た。
「年休? この時期に?」
「母方の叔父が亡くなりました。全羅南道の島です。明日には戻ります」
「昇進審査の資料、忘れてないな」
「はい。移動中に修正します」
教授は短くうなずいた。弔意の言葉は、形式として一行だけ添えられた。テオもそれを自然に受け取った。病院では、死は毎日処理される事実だった。身内の死であっても、書類と勤務表の間に挟まると同じ厚さになった。
ロッカーで私服に着替えると、彼は白衣を畳んで黒いバッグに押し込んだ。持っていく必要はないと分かっていたが、癖のように入れてしまった。聴診器、印鑑、ノートパソコン、充電器。葬儀に向かう荷物というより、学会出張の準備に近かった。
病院の正面玄関を出ると、朝のソウルはすでに動き出していた。救急車が一台、サイレンを鳴らさずに滑り込む。自動ドアの向こうでは、眠れない家族が受付番号を握りしめていた。テオはタクシーに乗り、ソウル駅へ向かった。
高速鉄道の窓に映る自分の顔は、思っていたより痩せて見えた。頬はこけ、目の下には薄い影があった。彼はノートパソコンを開き、論文の表を修正し始めた。抗菌薬使用量、死亡率、入院日数。数字は裏切らなかった。患者の声よりも扱いやすく、感情を要求しなかった。
途中、面事務所の番号から何度か着信があった。テオは二度目まで出ず、三度目でようやく応答した。
「今、移動中です」
「すみません。保健支所の鍵のことと、所長の机の整理を……あと、薬を受け取れない方が何人か」
「葬儀のあとで確認します」
「先生、島には本当に医師がいなくて」
「私は明日戻ります。後任の手続きは郡庁に確認してください」
電話の向こうが黙った。テオはその沈黙を、事務的な了承として切った。胸のどこかに小さな引っかかりはあったが、画面上の表を一つ整えると、それも薄くなった。
ワンド港に着いたのは、夕方の光が海の表面を鈍く染め始めた頃だった。ソウルの乾いた空気とは違い、港には塩と油と古い網の匂いが重なっていた。船着き場の待合室では、魚箱を抱えた男、買い物袋を両手に下げた老女、制服姿の高校生が、最終便の案内を待っていた。
ドレ島行きの小さな旅客船は、岸壁に体を寄せるように停まっていた。船体の白い塗装はところどころ剥がれ、ロープは濡れた蛇のように岸へ伸びていた。テオは乗船券を買い、バッグを肩にかけ直した。
「ドレ島へ?」
改札口のそばで、船員が彼を見た。日に焼けた顔に深いしわが刻まれ、声は低くかすれていた。
「はい」
「弔問ですか」
テオは一瞬迷った。叔父の名前を出すべきか、医師であることを伏せるべきか。その迷いのあいだに、バッグの口が少し開き、中の白衣が見えた。船員の視線がそこへ落ちた。
空気が変わった。
「先生ですか」
周囲の何人かが振り向いた。テオは否定できなかった。
「ハン・ジョンウの甥です。ソウルの病院で医師をしています」
船員の眉がわずかに動いた。驚きではなかった。怒りを押し殺すときの顔だった。
「所長が倒れるまで、島の人たちは何度も本土へ電話しました。薬が切れた年寄りも、熱を出した子どももいました」
「私は、その事情を詳しく知りません」
「でしょうね」
船員はロープを握った手に力を入れた。濡れた繊維がきしんだ。
「先生が今さら来たところで、それまで持ちこたえてきた人たちは誰が責任を取るんですか」
言葉は大声ではなかった。だからこそ、港のざわめきの中でまっすぐに刺さった。テオは返答を探した。医師不足は行政の問題だと言うこともできた。自分は一日だけ葬儀に来ただけだと言うこともできた。責任という言葉は、法律や職務範囲で区切ればいくらでも薄められる。
だが、どの答えも口に出す前に乾いた。
背後で乗船を急かすベルが鳴った。船員はそれ以上何も言わず、視線だけで甲板を示した。テオはバッグの口を閉じ、船へ渡る狭い板を踏んだ。足元で海水が黒く揺れ、陸と船の間に小さな隙間が開いては閉じた。
甲板に上がると、風が白衣の入ったバッグを叩いた。ワンド港の灯りはまだ近く、戻ろうと思えば戻れる距離に見えた。けれどロープが外され、船体がゆっくり岸を離れると、その距離は一呼吸ごとに広がっていった。
テオは船尾の手すりを握った。電話の向こうで聞こえた「薬をどうするんだ」という声が、今になって耳の奥で大きくなった。叔父が伏していたという診察室の机、数週間止まった保健支所、そして船員の問い。どれもまだ彼のものではないはずなのに、海風は容赦なくそれらを彼の前へ押し出してきた。
船は日が傾いていく水平線へ向けて進んだ。暮れかけた海の先に、低い黒い影のような島が見え始めた瞬間、甲板の古いスピーカーから割れた声が流れた。
「ドレ島行き最終便です。今夜、この船が最後です」
テオはその言葉を聞いて、初めて振り返った。港はもう、戻れる場所の明るさを失いかけていた。
その島では、雨が降る前に患者が増える
2話 歓迎されない医師の弔問
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