床板の音は、一度きりで止まった。
テオは反射的に折れたカードを伏せ、診察室の扉を開けた。廊下には誰もいなかった。待合室の長椅子、受付台、薬棚へ続く薄暗い通路。窓の外で風が戸を押し、古い建物全体が低くきしんでいた。
だが、いま鳴ったのは風ではなかった。
「……誰かいますか」
返事はなかった。テオは廊下の突き当たりまで歩き、裏口の鍵を確かめた。閉まっていた。床には湿った砂も、靴跡もなかった。けれど、診察室へ戻ると、机の上のカードだけが、見られていたもののように冷えて見えた。
彼は椅子に座り直した。怖いから手を止めるには、もう見つけたものが多すぎた。
折れたカードの横に、今日の発疹一覧を並べた。ヤン・ボクナム、手の震え、発疹、高熱。今日の子どもたち、発疹、高熱。老人たちの物忘れ。別々の症状として処理されてきたものが、同じ月の周辺で何度も顔を出していた。
テオは夜を徹して該当するカードを拾い出した。七年前、チェ家の子ども。六年前、港の裏の世帯。十一年前、北の畑を持つ家。老人はまた別の家の者だったが、診療欄には手指振戦、短期記憶低下、不眠が並んでいた。発疹と高熱は子どもに多く、震えと記憶の途切れは高齢者に多かった。世帯は離れているように見えて、地図に落とすと北側へ偏っていた。
偶然ではない。
そう書きかけて、テオはペンを止めた。医師の勘を紙に書いても証拠にはならない。彼は「要確認」とだけ記した。感情を抑えるための字だった。
明け方、窓の外が白み始めたころ、ソジンが鍵を開けて入ってきた。眠っていない目が、机の上の模造紙を見て細くなった。
「先生、夜通しですか」
「古い記録を見ました。発疹と高熱、手の震え、記憶の低下が同じ時期に集中しています。家も少し偏っています」
ソジンは受付台に置こうとした紙袋を持ったまま動かなかった。中には湯気の消えかけた粥と缶コーヒーが入っていた。
「どのへんに」
「北側の集落と、そこから水を引いている家が多いように見えます。確認したい。村の飲料水は、どこからどこへ流れていますか。貯水槽、井戸、各世帯への供給経路。それから、海女や漁の操業区域も」
ソジンの指が紙袋の口を握り潰した。音は小さかったが、テオにははっきり聞こえた。
「水ですか」
「まだ仮説です。食べ物、虫、土壌、薬、何でも考える必要があります。ただ、季節だけでは説明できない。世帯の偏りもあります」
「先生」
ソジンはそこで言葉を切った。いつもの簡潔な報告ではない。何かを知っている人間が、知っていることの前で足を止める沈黙だった。
「ドレ島で、それを聞いて回るのはやめたほうがいいです」
「理由は」
「しつこく詮索する人間は嫌われます。特に、水と北のほうは」
「嫌われるだけですか」
ソジンは答えなかった。窓の外では、港へ向かう軽トラックの音が坂を下っていった。テオはその沈黙を、否定ではなく警告として受け取った。
「それでも、子どもが発疹を出して熱を出している。老人は震えと記憶障害を繰り返している。調べます」
「先生が調べると、親たちは怖がります」
「怖がる理由があるなら、知らないままにはできません」
ソジンは長く息を吐いた。反論するためではなく、これ以上言葉を選べないという息だった。
その日の午前、保健支所にはまた人が集まった。昨日より列は短かったが、子どもを抱く腕はどれもこわばっていた。噂はもう広がっていた。発疹を見せるために来た親もいれば、逆に袖を下ろしたまま薬だけを求める親もいた。
テオは順番を変えなかった。熱がある子、ぐったりしている子、嘔吐のある子を先に診た。状態が安定している子には、発疹の写真を撮り、日付と部位を紙に残した。
「本土で血液検査と皮膚科、できれば小児科も受けてください。紹介状を書きます」
「先生、ワンドまで行くんですか」
チェ・ミンジュの母親が青い顔で聞いた。ミンジュは母親の膝の上で、眠そうに目をこすっていた。
「はい。次の船で行ける日を決めてください。今すぐ救急搬送する状態ではありません。ただ、繰り返すなら精密検査が必要です」
「お金も時間も……夫が海に出ていて」
「分かります。けれど、分からないまま薬だけ出すより危険です」
隣にいた別の母親が、子どもの腕を抱え込んだ。
「うちもですか」
「発疹があり、高熱が出た子は全員です」
その一言で、待合室の空気が波のように動いた。小さなざわめきが受付台から入口へ広がった。誰かが「本土まで」とつぶやき、別の誰かが「そんな大ごとなのか」と返した。
テオは声を上げなかった。上げれば不安が増えるからだ。
「紹介状には急ぎと書きます。行ける世帯からでいい。行けない場合は、次に熱が出た時刻、食べたもの、水を飲んだ場所、遊んだ場所を全部書いて持ってきてください」
「水?」
母親の一人が顔を上げた。
その瞬間、診察室の戸が強く開いた。
グムレだった。白髪をきつく結び、薄い作業上着の肩には潮の匂いが残っていた。彼女は待合室を一瞥し、泣きそうな親たちの顔を見てから、まっすぐテオへ向かった。
「先生」
低くかすれた声だった。大声ではないのに、待合室が静まった。
「島の人間を怖がらせるなと言ったはずだ」
「怖がらせているのではありません。検査を勧めています」
「同じことだ。船に乗れ、本土へ行け、何かあるかもしれん。そんな言い方をすれば、親は眠れなくなる」
「眠れなくなるのと、見逃すのは別です」
グムレの目が細くなった。怒りだけなら、テオも言葉で押し返せた。だがそこには別のものがあった。十年前、娘の熱を抱いて船を待った夜から、今も抜け出せずにいる者のこわばりだった。
「先生は一か月で帰る人間だ。ここで残って暮らす親たちの顔を、最後まで見るわけじゃない」
「だから記録を残しています。僕が帰っても、次に見る人間が分かるように」
「この島では、知らないふりをして生き延びることもある」
「知らないふりで子どもの熱は下がりません」
グムレの口元が固く結ばれた。待合室では、誰も咳ひとつしなかった。ソジンが受付の横で立ち上がりかけたが、どちらへ言葉をかけることもできず動きを止めた。
二人は無言で向かい合った。
テオの机の上には、紹介状が三枚、未記入のまま置かれていた。グムレの背後では、子どもたちが親の膝にしがみつき、老人が薬袋を胸に抱いていた。保健支所の空気が細く張りつめ、もう少しで切れると思った。
その時だった。
待合室から、鋭い悲鳴が上がった。
「先生!」
椅子が倒れる音。床を蹴る小さな足音。テオは考えるより先に体が動いていた。診察室を飛び出すと、長椅子の前で男の子が床に倒れ、全身を硬く反らせていた。唇は紫に変わり、目は焦点を失い、母親が泣きながら抱き起こそうとしていた。
「触らない! 横を向かせて!」
テオは膝をつき、子どもの首元を緩めた。額に触れた瞬間、熱が手のひらへ刺さるように伝わった。高熱。けいれん。呼吸は浅いが、あった。
「ソジンさん、時計。ミラさんが来ていたら解熱剤と体を冷やすものを。舌を噛まないようにと、口に物を入れないでください。お母さん、名前を呼ぶだけ。揺すらない」
母親は震える声で子どもの名を呼んだ。周りの親たちが後ずさりし、廊下が詰まった。テオは肩越しに叫んだ。
「グムレさん、通路を空けてください!」
ほんの一瞬、グムレは動かなかった。だが次の瞬間、彼女は両腕を広げ、固まった住民たちを壁際へ押し分けた。
「下がれ。先生の通りにしろ!」
その声で道が開いた。テオは倒れた子どもの腕を支え、けいれんの波を数えながら袖口をめくった。
肘から肩へ、赤い線がはっきり走っていた。
その島では、雨が降る前に患者が増える
10話 鍵のかかった引き出し
次の話