ゲートが開いた瞬間、熱い鉄粉の匂いが喉に刺さった。
F等級の廃工場なら、最初に流れるのは警告音と安全案内だ。だが足元に広がったのは油で黒ずんだ鉄板床で、天井には赤い回転灯が沈黙したまま回っている。奥から聞こえるコンベアの駆動音は、初心者実習の軽い効果音ではなかった。
「……おかしい」
テジュンが入場一秒で呟いた。遅くはない。だが、もう遅い。
四人の背後でゲートが閉じる。次の瞬間、床全体が低く震え、中央のコンベアベルトが逆方向に走り出した。
「うわっ!」
テミンの足が滑った。ソアも踏ん張ったが、床の鉄板が左右で別々に沈み、パーティーの立ち位置が強制的に割られる。ユチャンは伸ばしかけた手を引いた。今ここで自分が全員を引き戻せば、テジュンはただ助けられる側になる。
それでは駄目だった。
「右じゃない、左の手すりを掴め!」
ユチャンはわざと半拍遅れた声で叫んだ。テジュンが反射で反論する。
「左は戻されます! 右端の補助レール!」
テミンが兄の声に従って右のレールへ飛びつき、テジュンも続く。ユチャンとソアは反対側の通路へ押し流された。鉄板の隔壁が床からせり上がり、二組の間を完全に遮る。
分断。
C等級構造の初手だった。
「兄さん、そっち行けない!」
「動くな。足元を見るな、壁の振動を見ろ」
テジュンの声は震えていたが、指示は出ていた。ユチャンはそれを確認し、正面の暗い溶接ラインへ目を向ける。
重い足音が二つ、別々の方向から響いた。
鉄製ゴーレム。
F等級では出ない。初心者用の錆びた作業人形ではなく、腕が油圧プレスのように太いC等級の追跡型だった。一体はユチャンとソア側へ、もう一体はテジュンとテミン側へ向かっている。
ソアの右手が熱を帯びた。
「燃やしますか」
「まだだ。外へ広げるな」
「でも」
「止める相手を間違えるな。今は通路だ」
ユチャンは走りながら、わざと見える位置で足をもつれさせた。ゴーレムの腕が振り下ろされ、彼の肩先をかすめて壁を砕く。破片が飛ぶ中、彼は初心者らしい悲鳴を短く漏らす。
その裏で、右目の灰色の紋様が薄く回った。
『隠された欺瞞』を広げすぎない。強者の介入ではなく、偶然生き延びているF級生産補助。そう見える程度に、周囲のログへ膜を張る。
隔壁の向こうで、テジュンの声が速くなった。
「床の震動、二・四秒周期。三回目で右列が沈む。テミン、次に沈んだら前じゃなく後ろへ跳べ」
「後ろ!? ゴーレム来てるけど!」
「腕の角度が七十度を超えたら横薙ぎじゃない。掴みだ。後ろなら外れる!」
金属の腕が空を切る音がした。直後、テミンの叫びが遠ざかる。躱した。まだ生きている。
ユチャンは狭い通路の角で立ち止まり、あえて正面を指した。
「こっちだ」
ソアが眉をひそめる。
「そこ、行き止まりに見えます」
「見えるだけだ」
「だから嫌なんですけど」
それでも彼女はついてきた。壁際には古い鉄製パレットが積まれ、半分崩れて通路入口を塞いでいる。奥に非常用迂回通路がある。ユチャンは最初から知っていた。未来の事故記録で、テミンがここへ辿り着けず圧搾機に吸われたことも。
だが、それを自分の知識として見せるわけにはいかなかった。
彼はパレットの隣に転がる鉄棒を拾い、手元を滑らせる。初心者が焦って足場を崩したように、鉄棒がパレットの下へ入り込む。
「危なっ、何してるんですか!」
ソアが怒鳴った瞬間、ユチャンは肩で押した。『隠された欺瞞』が、力の入れ方とタイミングを曖昧にぼかす。ログ上では、逃げ惑う生産補助が偶然ぶつかり、古い固定具が外れたことになる。
鉄製パレットが横へ滑り、暗い隙間が開いた。
向こう側から、テジュンの声が飛び込んでくる。
「そこです! 西側じゃない、中央の振動が切れてる。迂回通路、たぶん安全区域につながる!」
「たぶんで走るのかよ!」
「死ぬ確率より低い!」
テミンの悲鳴まじりの文句を、テジュンが数字でねじ伏せた。ユチャンの口元がわずかに動いた。押し込んだ甲斐はある。
「ソア、先に入れ。熱は右手の中だけに置け」
「命令ばっかり」
「今は便利だろ」
「……あとで文句言います」
ソアは身を低くして隙間を抜けた。ユチャンも続く。後ろでゴーレムの腕がパレットを叩き潰し、鉄片が雨のように飛ぶ。通路は狭く、天井が低い。だが床の震動は弱い。テジュンの読み通り、安全区域へ近づいていた。
隔壁の切れ目で、二組が合流した。
テミンは頬に油をつけ、笑おうとして失敗していた。テジュンは息を荒くしながらも、すぐに周囲を見回す。
「ここ、標準マップにありません。F等級の事故防止通路をC構造が上書きしてる。出口制御盤は……」
言い終える前に、天井の赤灯が点滅した。
警告音が今さら鳴った。
【圧搾ライン再起動】
床が傾き、合流地点の奥にある大きなプレス機が動き出す。鉄の口がゆっくり開き、コンベアが吸い込みを始めた。
「え、待って、こっち床動いてる!」
テミンの足元だけが先に引かれた。彼はレールを掴んだが、油で手が滑る。テジュンが飛びつく。
「テミン!」
二人ごと引きずられる。ユチャンは一歩前へ出ようとして、止まった。助けることはできる。だが、今必要なのは彼の力ではない。
「ソア」
「分かってます!」
ソアの声は怒っていた。だが右手から炎は噴き出さなかった。彼女は吸い込まれかけるテミンではなく、プレス機の横にある電源回路へ目を向ける。倉庫で基板のチップ足だけを溶かした時と同じ目だった。
「大きく燃やすな。接続部だけだ」
「言われなくても!」
彼女は親指を折り、人差し指、中指へ熱を細く移した。炎は見えないほど小さく、白い糸のように指先へ集まる。空気が歪み、金属製の端子だけが赤く染まった。
一秒。
二秒。
銅の接続部がぽたりと落ちた。
圧搾機の駆動音が、喉を詰まらせるように途切れた。コンベアが止まる。テジュンは最後の力でテミンの腕を引き、二人とも床へ転がった。
「兄さん……今の、死ぬかと思った」
「思ったじゃない。死ぬところだった」
テジュンの声は冷たかったが、手は弟の腕を離さなかった。指が白くなるほど握っている。
ソアは壁に片手をついた。額に汗が浮いているが、火は広がっていない。プレス機の表面も焦げていない。溶けたのは接続部だけだった。
「……止めた」
自分に言い聞かせるような声だった。
ユチャンは短くうなずく。
「見た」
その返事だけで、ソアは唇を結んだ。褒め言葉ではない。だが彼女には十分だった。
制御盤の奥で出口ランプが点いた。ダンジョンは圧搾ライン停止を安全条件達成と誤認したらしい。C等級構造が強引に上書きされていたせいで、古いF等級の終了判定が残っていたのだ。
「出口、開きます」
テジュンが立ち上がる。膝は震えていたが、目はもう眠そうではなかった。彼は一度だけプレス機を振り返り、次にユチャンを見た。
疑念が、はっきりそこにあった。
四人は出口ゲートを抜け、弘大の体験場の白い床へ戻った。受付係が異常ログの確認で慌てて駆け寄ってくる。周囲の初心者たちは、内部で何が起きたかも知らず、ただC等級表示へ変わった画面を見てざわめいていた。
テミンは床に座り込み、へらっと笑った。
「生きてる。兄さん、俺、生きてるよな」
「ああ」
テジュンはそれだけ答えた。安堵はある。濃すぎるほどある。だがその下で、計算が止まっていない。
ユチャンは受付へ向かおうとした。事故を古いシステムエラーに見せる処理を、今すぐ重ねる必要があった。
その前に、テジュンが彼の袖を掴んだ。
力は弱い。だが離す気のない掴み方だった。
「入場前に、あなたは僕に全力で反論しろと言いました」
ユチャンは振り返らない。
「結果的に役に立っただろ」
「結果じゃありません。順番です」
テジュンの声が、さっきより低くなった。弟を救えた安堵と、自分の計算外にいた男への疑念が、同じ場所でぶつかっている。
「一介の生産補助アカウントが、どうして入場前から等級操作に備えていたんですか」
その問いに、ユチャンの右目の奥で灰色の紋様が、警告のように静かに回った。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
18話 テジュン、検証側へ合流
次の話