ガラス戸の向こうで、パク・ユンジェの足音は途中で一度止まった。
ユチャンは廊下の奥に立つソアを見ず、溶けた壁時計の縁を外した。焦げた端子の匂いはまだ残っている。漏電事故という形は作った。だが、相手が見たのは事故ではなかった。
『二拍、長かった』
視線がソアに止まった時間を、ユチャンは正確に数えていた。パク・ユンジェは熱の証拠を持ち帰ったわけではない。ただし、顔を覚えた。次は資料と顔を照合してくる。
「教官……私」
「黙っていろ。今は反省より移動だ」
ソアの肩が跳ねた。叱責ではなく命令だと分かったのか、彼女は唇を噛んでうなずいた。ユチャンは時計の残骸を袋へ入れ、ブレーカー箱の端子をもう一度焼けたように折り曲げた。事故記録は残す。だがこの場所へ視線が戻る前に、次の駒を取らなければならなかった。
「今日は地下訓練なしだ。外へ出る」
「外って、どこへですか」
「弘大(ホンデ)の体験場」
「今ですか? さっきの人、まだ近くにいるかもしれないのに」
「だから今行く」
パク・ユンジェがレベルゼロ周辺を探っている間、ユチャンたちが別の狩り場へ動く。追跡者の視線は、いつも直前の異常へ張りつく。そこから半歩ずれるだけで、時間は作れた。
地下鉄の車内で、ソアは何度も右手を袖の中で握り直した。窓に映る顔は強がっているが、目元は白い。ユチャンは注意しなかった。熱が漏れていないなら、それは失敗ではなく制御だった。
「さっき、止められませんでした」
「最後は止めた」
「でも漏れました」
「完全に漏れない人間はいない。問題は、漏れたあとに形を変えられるかだ」
ソアは返事をしなかった。叱られたいのか、許されたいのか、自分でも分かっていない顔だった。ユチャンはそれ以上踏み込まない。今の彼女に必要なのは慰めではなく、次の成功体験だ。
弘大のオフラインシミュレーター体験場は、平日にもかかわらず混んでいた。ネオヘイル正式リリースから日が浅く、看板には初心者歓迎、実習ダンジョン無料体験、配信者同伴割引という安い文句が並ぶ。中では若い客たちが、職業適性や仮想等級を大声で比べていた。
ここは派手な才能を拾う場所ではない。失敗寸前の人間、記録に残りにくい補助者、誰にも正式評価されない観察者が溜まる場所だった。
ユチャンは受付端末の横にあるパーティー募集掲示板へ向かった。初級廃工場実習、F等級、四人パーティー、解説者付き。紙の端に、細い字で名前が書かれている。
コ・テジュン。
ユチャンの指が、紙の上で止まった。
未来のコ・テジュンは、壊れた分析家だった。弟をダンジョン内の圧搾機で失い、その瞬間から数字だけを信じる男になった。誰かを救うための計算ではなく、死者が出た理由を永遠に検算し続ける、空っぽの目をした男。
だが今、掲示板の下に座っている青年は、古いノートパソコンを膝に載せ、初心者パーティーに無料で説明をしていた。丸眼鏡の奥の目は眠そうで、声も小さい。
その隣で、少し年下の少年がエナジードリンクを振っていた。
「兄さん、また無料? せめて飲み物代くらい取ればいいのに」
「失敗されるとログが汚れる」
「それ、優しさを言い換えてるだけだよ」
コ・テミン。未来で死ぬ弟は、まだ呑気に笑っていた。
ソアが小声で聞く。
「知り合いですか」
「これからだ」
ユチャンは募集紙をはがし、テジュンの前に置いた。
「二人、入れるか」
テジュンは顔を上げ、ユチャンとソアを順に見た。視線は弱いが、見る場所は鋭い。靴底の汚れ、袖口、受付端末の仮登録画面、ソアの右手の隠し方。三秒でそこまで拾った。
「初心者向けです。攻略経験は?」
「少し」
「少し、の内容によります」
「失敗ログを見るのは得意だ」
テジュンの眉がわずかに動いた。隣のテミンが明るく割り込む。
「兄さん、いいじゃん。人数足りてなかったし。俺、前衛やるから」
「お前は前衛じゃなくて移動速度だけが取り柄の囮だ」
「ひどい」
ソアはテミンの軽さに少しだけ目を丸くした。レベルゼロの空気とは違う。死の予定表に名前がある人間が、何も知らず笑っている。その事実が、彼女の右手をまた固くした。
ユチャンはテジュンのノート画面を覗く。廃工場実習ダンジョンの古いマップ、モンスター出現点、初心者の平均被弾位置、撤退判断の時刻。公式攻略サイトのまとめではない。体験場に通って、自分で集めたデータだった。
「ルートは?」
「標準は西側搬入口から入り、コンベア室を迂回して制御盤へ。初心者なら十四分以内に到達すれば合格です」
「東のスクラップ置き場を通る方が近い」
テジュンの指が止まった。
「近いだけです。床が不安定で、三分二十秒の時点で吊り荷トラップが落ちます。足音に反応するので、初心者二人を含むなら事故率が上がる」
「吊り荷を先に落とせばいい」
「落とした音で北側の警備ドローンが起動します。F等級設定ならドローンは一体ですが、連鎖すると二体になります。火力職がいないと処理が遅れます」
ソアがむっとした顔をしたが、ユチャンは手で制した。
「なら南の溶接ラインを切って短縮する」
「論外です」
即答だった。テジュンはノートパソコンを回し、赤い線が引かれた図を見せた。
「溶接ラインは見た目だけの障害物じゃありません。制御盤の予備電源と連動しています。切れば出口扉のロックが二十秒遅れる。初心者はそこで焦って戻り、コンベア室に吸われる。死亡事故は起きませんが、圧搾機の疑似ダメージで強制ログアウトになります」
早い。
ユチャンは内心だけで評価した。テジュンは攻略を暗記しているのではない。構造の理由を見ている。未来で壊れたあとも残っていた計算力は、この時点ですでにあった。
「無料解説にしては詳しいな」
「金を取るほどの資格がないだけです」
「資格があれば取るのか」
「データを信じる客なら」
テジュンは乾いた声で答えた。自信がないのではない。自分の価値を誰も買わないことに慣れているだけだった。
ユチャンは募集紙を受付へ差し出した。
「参加する。ルートは入ってから決める」
「入ってから揉める人は一番困ります」
「揉めない。反論を聞くだけだ」
テジュンは疑う目を向けたが、テミンがすでに受付へ手を振っていた。
「四人パーティーでお願いします! 廃工場、次の枠!」
受付係が人数を確認し、仮登録バンドを配った。ユチャンの腕に巻かれた白いバンドへ、偽装されたF級生産補助の表示が浮かぶ。ソアは臨時参加者として登録した。火炎適性は出ない。だがユチャンの右目の奥で、薄い警告が一度だけ疼いた。
入場ゲート前の待機区域には、廃工場実習のスロット一覧が大きく表示されていた。
【A-03 廃工場実習/等級F/残り五分】
テジュンはいつもの癖なのか、画面を撮影して時刻をメモした。ユチャンはそれを横目で見た。良い癖だ。生き残る人間は、入る前の数字を覚えている。
待機中、テミンはソアに笑いかけた。
「初めて? 大丈夫だよ。兄さん、うるさいけど当たるから」
「うるさいのは慣れてます」
「誰がうるさいって?」
ソアがちらりとユチャンを見る。ユチャンは反応しなかった。小さな会話でも、彼女の熱は漏れていない。右手は鞄の紐ではなく、仮登録バンドの縁を軽く押さえていた。
残り三分。
ゲート上の案内灯が黄色に変わった。受付係が「準備してください」と声をかける。テジュンが最後にもう一度、スロット一覧へ目を戻した。
その瞬間、ユチャンの視界だけが冷えた。
さっきまでF等級だった一行が、何の告知もなく書き換わっていた。
【A-03 廃工場実習/等級C/残り三分】
音はなかった。警報もない。受付係は気づいていない。待機している初心者たちも、入場前の緊張で足元ばかり見ている。テジュンでさえ、撮影済みの画面と今の表示の差をまだ照合していなかった。
ユチャンだけが知っていた。これは自然な更新ではない。F等級の皮を被せたまま、内部だけを三段階引き上げる処理。初心者を殺さず、しかし折るための難易度変更だ。
撤退すれば、テジュンとテミンは今日は生きる。だが誰がこの変更を仕込んだのか、どこまで監視が伸びているのかを逃す。入れば、未来で弟を失った男の運命が牙をむく。残された猶予は三分だった。
ユチャンはソアの右手を一瞥した。彼女は気づいていない。ただ、彼の沈黙にだけ気づき、背筋を固くしていた。
「教官?」
残り二分五十秒。
ゲートの内側で、廃工場の赤い警告灯が灯った。F等級の実習では存在しないはずの、重い金属音が一度だけ響く。
ユチャンは受付係へではなく、テジュンへ向けて短く言った。
「入ったら、俺のルートに反論しろ。全力でだ」
テジュンの顔色が変わるより早く、ゲートが開き始めた。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
17話 テジュンの計算と疑念
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