ユチャンは画面を閉じなかった。
二日後という短さは、相手が礼儀を守って待つ時間ではない。確認する気なら、当日朝にでも踏み込めたはずだ。あえて申請の形を取ったのは、こちらに片づける時間を与え、その片づけ方を見るためだった。
「見学させたいものを用意する」
彼は返信に丁寧な承諾文を打ち込み、送信した。その直後、レベルゼロの掲示板を開く。古いゲーム塾の安い告知欄に、昨日までなかった予定表を三枚差し込む形でデータを作った。
名前は近所のアルバイト三人だった。コンビニ夜勤の大学生、チキン店の配達補助、同じビルのカフェで働く浪人生。全員、レベルゼロで雑用をして現金を受け取ったことがある。最初の照合では引っかからない。
受講履歴には、初心者向けシミュレーターでの短い失敗記録を並べた。無意味な被弾、遅すぎる回避、装備選択ミス。そこへ『隠された欺瞞』を薄くかける。
数字は少しだけ伸ばした。
ダンジョン適応率三十七パーセント、四十二パーセント、三十九パーセント。新人にしては目につくが、天才とは呼べない。スカウターが「未発掘の安い石」と判断してメモを取る程度の数字だ。
本物の熱源は、泥の下に沈める。
ソアの出勤簿は、清掃補助として残した。ただし地下倉庫の入室時間を短くし、廊下清掃、一階待合室整理、備品確認の記録を増やす。成功した基板訓練のログは残さない。失敗映像だけを、古いフォルダへ残す。
夕方、ソアが地下へ下りてくると、ユチャンは人型ダミーを布で覆ったまま横へどかした。
「今日は倉庫を使わない」
「え? 十回やるって言いましたよね」
「中断だ。二日間、一階でボタン連打だけをやれ」
ソアの顔が険しくなった。
「……また弱く見せるためですか」
「そうだ」
「せっかくできたのに」
右手が鞄の紐を握った。昨日までなら、そこで熱が漏れていた。今は袖口の布が少し乾いただけで止まる。止められることを知ったからこそ、彼女は余計に悔しそうだった。
ユチャンは待合室の古い端末を指した。画面には低難度の反射神経ゲームが開いている。赤い丸が出たら左、青い四角が出たら右。それだけの退屈な画面だった。
「パク・ユンジェは、火を見に来る。だから火を見せない。未成年スタッフが暇な時に初心者用ミニゲームで遊んでいる。そう見えればいい」
「バカにされるの、嫌なんですけど」
「バカにさせるんだ」
ソアは唇を噛んだ。反発はあった。だが彼女は端末の前に座った。乱暴にではなく、自分で選ぶように椅子を引いた。
「二日だけですから」
「ああ」
「終わったら、ダミー十回です。煙なしで」
「できればな」
「できます」
短く言い返して、ソアはボタンを押し始めた。画面の中の赤と青が、安っぽい効果音と一緒に光る。彼女の右手は、苛立ちを抱えたまま、それでも熱を外へ出さなかった。
見学当日、レベルゼロはいつもより少しだけ汚れて見えるよう整えられていた。汚いのではない。金のない塾が努力している程度の古さだ。壁のヒビは隠さず、延長コードは新品に替え、焦げ跡のある段ボールだけを奥へ下げる。地下への階段には、清掃中の札を掛けた。
午前十時、ガラス戸が鳴った。
パク・ユンジェは灰色のスーツに黒い薄型タブレットを持って入ってきた。笑顔は礼儀正しいのに、目だけが受付、端末、天井のカメラ位置を順に測っていた。
「チョン・ユチャン代表でよろしいですね。ネオヘイル九老担当、パク・ユンジェです」
「代表というほどのものじゃありません。古い塾を引き継いだだけです」
ユチャンは少し疲れた声を作った。徹夜で書類を整えた若い経営者。『隠された欺瞞』で印象を一段だけずらす。警戒すべき狩人ではなく、何かを掴みかけている小さな塾の経営者へ。
パク・ユンジェは名刺を置き、待合室の端末を見た。ソアはそこにいた。制服の上に薄いパーカー、腕には清掃用の腕章。画面に出る赤い丸を、無表情に押している。平凡な初心者が集中しきれずに反射ゲームを続けているように見えた。
「こちらが、清掃補助の方ですか」
「ミン・ソアです。保護者同意書は準備中です。勤務は短時間、担当は待合室と廊下だけ。地下設備には触らせていません」
嘘は混ぜすぎない。地下に触らせていない、とは言わない。地下設備には触らせていない。それは事実だった。触っているのは、自分の熱だ。
パク・ユンジェはソアへ軽く会釈した。
「こんにちは。仕事は大変ですか」
ソアの指が一拍だけ止まった。ユチャンは視線を向けない。助けを入れれば、そこが線になる。
「……別に。掃除と、これだけです」
「ゲームは?」
「下手です」
乾いた返事だった。パク・ユンジェは小さく笑い、タブレットに何かを書き込んだ。
それから一時間、見学は予定通り進んだ。パク・ユンジェは掲示板の特別訓練者名簿を写真に撮り、受講履歴の改善率を確認し、古い端末のスペック不足まで細かく尋ねた。ユチャンは用意した答えだけを出した。三人のアルバイトの失敗動画、改善グラフ、保護者向け案内文、事故対応マニュアル。どれも本物の薄さを持つ偽物だった。
「短期間で適応率が上がっていますね」
「母数が少ないだけです。うちは大手みたいな設備がないので、手動で癖を直すしかありません」
「手動で、ですか」
「講師が横で見て、ミスを止める。地味ですよ」
パク・ユンジェのペン先が止まった。
「地味な訓練ほど、本人の癖が出ます」
「ええ。派手な才能は、うちには来ません」
ユチャンは笑わなかった。相手に欲しい結論を持たせる。ここには未完成の安い才能が三人いる。清掃補助の少女は、その周辺のノイズにすぎない。
パク・ユンジェは最後に地下階段の札を見た。
「地下は清掃中ですか」
「古い配線が多いので、今日は閉めています。漏電点検も兼ねています」
「見ても?」
「構いませんが、埃っぽいだけです」
二人は階段口まで下りた。扉の向こうには、目につくものをすべて片づけた倉庫がある。白線は拭き取り、ダミーは解体し、基板は工具箱の底へ沈めた。パク・ユンジェは扉を半分開けただけで、すぐ閉めた。
「確かに、古いですね」
「安かった理由です」
「ですが、面白い」
「安さがですか」
「環境です」
その言葉だけ、少し温度が違った。ユチャンは聞き返さなかった。
昼前、パク・ユンジェは受付横の小さな机で書類をまとめ始めた。タブレットの画面には、特別訓練者三人の名前が並んでいる。ソアの名前は、端に小さく清掃補助として残っているだけだった。
計画通りだ。
そう判断した瞬間、待合室の奥で、ボタンの音が止まった。
ユチャンの首筋に、嫌な熱が触れた。
ソアは廊下に立っていた。端末に飽きて伸びをしたのか、清掃用具を取りに行こうとしたのか。右手は下がっている。だが袖口の内側で、押さえ込んでいた熱が細く膨らんでいた。緊張、怒り、我慢。そのどれかが、最後の一枚を押した。
壁時計の裏で、じゅっと小さな音がした。
白いプラスチックの縁が内側から歪み、時計が斜めに傾く。焦げ臭さより先に、熱で溶けた樹脂の甘い匂いが廊下へ流れた。
パク・ユンジェの目が、書類から上がった。
ユチャンは一歩で廊下へ出た。ソアの前に立たず、時計とパク・ユンジェの間に身体を入れる。
「触るな。配線だ」
声を荒げすぎない。事故に慣れた古いビルの人間の声にする。
彼は壁際のブレーカー箱を開き、あらかじめ緩めておいた古い端子を指で弾いた。火花が一つ散る。焦げ臭さが本物の電気の匂いに変わった。
「すみません。朝から点検していたんですが、時計裏の線まで見ていませんでした」
パク・ユンジェは近づこうとした。ユチャンは先に消火器を取り、封も切らずに構えた。
「未成年スタッフを離します。ソア、待合室に戻れ。床には触るな」
「……はい」
ソアの返事は小さかった。右手はすでに冷えている。だが顔色が悪い。彼女も分かっていた。今のは訓練の失敗ではない。見られてはいけない場所で漏れた。
パク・ユンジェは溶けた時計を見て、次にブレーカーを見た。最後にユチャンの顔を見る。
「古い配線、ですか」
「ええ。契約時から問題が多くて。今日、地下を閉めた理由もそれです」
「なるほど」
納得した声ではなかった。だが否定する材料もない。ブレーカーの火花、古い壁、焦げた端子。ユチャンが即座に作った事故の形は、少なくともその場の説明としては成立していた。
パク・ユンジェは書類を鞄へ収めた。
「本日の確認は以上です。特別訓練者の資料は、後ほど正式に照会させていただきます」
「必要なものは送ります」
「清掃補助の安全管理も、改善をお願いします」
「当然です」
ガラス戸まで送る間、ユチャンは右目の奥で欺瞞の膜を薄く維持した。相手の視線が自分へ残るように。若い経営者の不手際、古いビルの漏電、未熟な管理。その三つだけを見て帰らせる。
パク・ユンジェは外へ出る直前、取っ手に手をかけたまま一度だけ振り返った。
視線はユチャンではなかった。溶けた壁時計でも、ブレーカーでもない。廊下の先、待合室の端で右手を袖の中に隠して立つソアへ、静かに止まっていた。
一拍。
普通なら会釈で済む長さを越え、もう一拍。
その二拍の間に、ユチャンは理解した。漏電事故という嘘は通った。だがパク・ユンジェは、事故の原因ではなく、事故の直前に熱を押し殺した少女の顔を覚えたのだ。
ガラス戸が閉まる音は軽かった。けれどその向こうで、ネオヘイルのスカウターの足音は、まっすぐ遠ざかってはいかなかった。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
16話 三分前に変わった等級
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