ユチャンはガラス戸の向こうへ向きを変えた十二台目の画面を、三秒だけ見た。
【熱源追尾先:ミン・ソア】
その一行は、もう警告ではなかった。標識が獲物の匂いを覚え、追跡処理へ移ったという報告だった。ユチャンは画面を消さず、清掃用具入れの扉も閉めないまま受付へ戻った。反応を消すより、反応の意味を変える方が速い。
受講希望者名簿を開く。十二番目にあるミン・ソアの名前を、そのまま削除すれば不自然だった。彼はまず前後の冷やかし申込を三件残し、業者メールを一つ受講相談へ昇格させ、古い問い合わせ二件の日付をずらした。それからソアの項目だけを、画面の表から外す。
消したのではない。別の棚へ移した。
【清掃補助アルバイト】
【週二回、夕方】
【保護者同意書:後日提出】
【担当区域:地下倉庫・廊下】
レベルゼロの塾管理ソフトでは、受講生とアルバイトのログは別の形式で保存される。ネオヘイルの推薦アルゴリズムが追うのは受講履歴、戦績、動画視聴時間、相談内容だ。清掃アルバイトの出入り時刻や雑務記録など、正式リリース直後の派手な才能狩りから見れば、ほとんど泥のようなノイズだった。
ユチャンはさらに授業動画フォルダを開いた。
昨日の面接室カメラには、マッチの炎が小さくなって消える瞬間が映っている。彼女が自分で止めた、最初の成功記録。残せばラケイアの素材分類にも、ネオヘイルの人間側スカウトにも、同じ餌になる。
彼は成功部分だけを、古い受講生のリプレイ失敗映像で上書きした。
残すのは失敗だけだ。ソアが椅子を荒く鳴らし、マウスを歪ませ、怒りで炎を大きくした場面。ランキング五万七千台の不安定な少女が、火力職に憧れて小さな相談に来た。ただそれだけに見えるように。
右目の奥が淡く疼いた。
【火炎適性予備判定:検出】
昨日の一行が、まだ瞼の裏に貼りついている。ネオヘイル正式項目外。地球側の才能診断ではなく、ラケイアが先に嗅ぎ分けた素材分類。だからこそ、彼女は受講生ではいけなかった。
翌日、ソアは時間通りに来た。
「清掃アルバイトって何ですか」
受付の画面を覗いた瞬間、彼女の眉が跳ねた。制服の上には昨日と同じ薄いパーカー。右手は鞄の紐を握っているが、昨日より強くない。
「登録上の話だ」
「私、掃除しに来たんじゃないんですけど」
「表ではな」
「詐欺じゃないですか、それ」
「おまえを受講生として置く方が危ない」
ソアの口が止まった。強く言い返したかったのだろう。だが危ないという言葉だけは、彼女の右手を一瞬で固くした。
ユチャンは説明を短く切った。
「上は動画と名簿を見ている。下は見えにくい。だから地下でやる」
「またマッチですか」
「今日は火を出すな」
地下倉庫には、昨夜のうちに新しい白線が床へ引かれていた。壁際のホワイトボードには、火力、射程、爆発半径という文字が一つもない。代わりに、親指、人差し指、中指、薬指、小指、手首、肘、肩と、身体の区切りだけが並んでいる。
ソアはそれを見て、露骨に顔をしかめた。
「これ、強くなる訓練じゃないですよね」
「そうだ」
「弱くする訓練じゃないですか」
「違う。漏らさない訓練だ」
「同じです」
彼女は一度目の訓練で、五分も持たなかった。
ユチャンは怒りを思い出せとは言わなかった。ただ昨日の面接を思い出し、息を吐きながら右手の親指だけを温めろと指示した。指の腹が赤くなる。そこまではいい。次の瞬間、熱は手首へ逃げ、袖口が乾いた匂いを立てた。
「止めろ。手首へ上げるな」
「上げてません」
「上がっている」
「見れば分かるみたいに言わないでください」
「分かる」
その一言で、熱が肘まで走った。倉庫の隅の古い段ボールが、じわりと焦げた。ユチャンが水をかける前に、ソアは扉を蹴って出ていった。
二度目は、翌日の夕方だった。
ソアは何も言わずに地下へ下り、昨日焦げた段ボールを自分で片づけた。清掃アルバイトの登録が役に立った形だと気づいたのか、ひどく嫌そうな顔をした。
訓練は同じだった。火を外に出さず、皮膚の下で折る。怒りがこみ上げたら、親指の第一関節だけを温める。広がる前に呼吸で捕まえる。熱を叩き潰さず、薄く畳んで置く。
「意味あるんですか、これ」
「ある」
「私は火力職になりたいんです。敵を燃やす方を教えてください」
「敵より先に自分を燃やす」
「またそれですか」
「昨日より二秒長く持った」
「褒めてるつもりですか」
「事実だ」
ソアは唇を噛み、もう一度試した。人差し指の第一関節だけが赤くなる。熱はそこで止まった。三秒。四秒。五秒目で、彼女の目に安堵が出た。その安堵が緩みになり、熱が一気に手首へ流れた。
壁に掛けていた古い延長コードの被覆が溶ける。
「そこまで」
ユチャンが電源を落とした。ソアは自分の右手を見たまま震えていた。怒りではない。怖さだった。だが次の瞬間、怖さをごまかすための怒りが戻る。
「やっぱり無理です」
「無理ではない」
「何で分かるんですか。先生でもないくせに」
その言葉のあと、彼女は二度目に扉を蹴った。
三度目も、その翌日だった。
「これじゃ、ただ自分を弱くする訓練じゃないですか!」
ソアはそう叫び、三度目の扉を蹴って出ていった。
そして四度目。
今度のソアは遅刻した。階段を下りてくる足音が荒く、目元に寝不足の色がある。親に嘘をつき続ける負担か、指先の熱を一日中気にした疲れか。ユチャンは理由を聞かなかった。
倉庫の中央には、人型の訓練ダミーが立っていた。
古いマネキンの胴体に、廃棄予定の小型基板を何枚も仕込み、表面を薄い耐熱布で覆っただけのものだ。胸の中央には、黒い丸が一つ描かれている。
ソアの目が初めて少し光った。
「やっと攻撃訓練ですか」
「違う。精密照準だ」
「燃やせばいいんですよね」
「表面を燃やすな」
ユチャンはダミーの背面パネルを開け、内部の基板を見せた。細い銅線と安いチップが、浅い箱の中で並んでいる。
「中の回路だけを溶かせ。布は焦がすな。煙も出すな」
「そんなの、火力職の訓練じゃない」
「火力職ではなく、おまえの訓練だ」
ソアは黙った。
最初の一発は失敗だった。指先に集めた熱が焦りで太くなり、耐熱布の表面が茶色く変わった。ユチャンは即座に中止させる。
「外へ押すな。熱は前へ飛ばすものじゃない。細い線をそこへ置く」
「言い方が抽象的すぎます」
「なら数字でやる。親指で起こす。人差し指で絞る。中指で止める。薬指で下げる。小指で閉じる」
「指、多すぎ」
「炎はもっと多い」
二度目は内部に届いたが、広がりすぎた。基板全体が黒くなり、背面から白い煙が出た。ソアは悔しそうに歯を食いしばった。
「これ、弱くする訓練じゃないんですか」
「弱い火は広がらない」
「強い火の方が勝てる」
「強いだけの火は、相手を選べない」
彼女の顔が強ばった。未来の災害報告書を知らないはずなのに、その言葉だけはどこかに刺さったらしい。
三度目の前、ユチャンはダミーの胸ではなく、自分の右手を示した。
「怒るなとは言っていない。怖がるなとも言っていない。どちらも消す必要はない。熱が出る前に、どの指で持つかを決めろ」
ソアは長く息を吐いた。
倉庫の換気扇が低く回る音だけが残る。彼女の右手が上がり、指先に赤い点が灯った。昨日のような揺れはない。小さく、細く、見落としそうな火種だった。
「親指」
声は低い。
「人差し指」
赤い点が糸のように伸びた。熱はダミーへ向かったが、空気を焦がさない。
「中指。薬指。小指」
最後の音の後も、ダミーの胸の黒い丸はそのままだった。布も焦げていない。煙もない。
ユチャンは背面パネルを開けた。
内部の基板の中央、黒いチップの足だけが、銀色の小さな水滴になって溶けていた。周りの銅線は無事だ。基板そのものも割れていない。
完璧だった。
ソアは信じられないという顔で、ダミーの背中を覗いた。右手を握り、開き、また握る。昨日まで逃げるために見ていた手を、今は道具のように確かめている。
「……できた」
「できたな」
「今の、私が狙ったんですよね」
「そうだ」
ユチャンが短く答えると、ソアはしばらく黙った。反発の言葉を探しているようにも見えた。だが出てきた声は、昨日までと違っていた。
「教官」
ユチャンの指が、わずかに止まった。
「次は何をしますか」
先生ではなかった。講師でもない。だがその呼び方には、彼女が初めて自分から訓練の場に立った重さがあった。
ユチャンは表情を変えず、壊れた基板を外した。
「同じことを十回だ。成功しても雑になるな」
「はい、教官」
数日後の朝、レベルゼロの管理メールに新着が入った。
ユチャンはソアの失敗動画フォルダを確認し、清掃アルバイトの出勤簿を更新していた。そこへ、件名だけで右目の奥が冷えるメールが届く。
【地域スカウト見学申請:ネオヘイル九老担当】
差出人は、パク・ユンジェ。本文には丁寧な挨拶と、二日後にレベルゼロの基礎授業を見学したいという申し出が並んでいた。最後の一文だけが、妙に乾いている。
【特に、清掃補助として登録された未成年スタッフの安全管理状況も確認いたします。】
ユチャンは画面を閉じなかった。
隠したはずの棚を、向こうはもう覗き込もうとしていた。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
15話 スカウターの視線
次の話