「答える義務はない」
ユチャンは、テジュンの手を振り払わずに言った。体験場の白い床にはまだ仮想油の匂いが残っている気がした。受付係が異常ログ確認の端末を抱えて走ってくる。周囲では初心者たちが、さっきまでF等級だった表示がC等級に変わっていたと騒いでいた。
テジュンは袖を離さなかった。
「なら、逃げる理由はありますね」
「今ここで揉めれば、お前の弟のログも調査対象になる」
「……脅しですか」
「事実だ」
テジュンの目が細くなった。丸眼鏡の奥の眠そうな光は消えていた。ユチャンは受付係へ歩きながら、短く続ける。
「今日の事故は古い実習データの上書きミスだ。そう処理される。お前が余計なことを言わなければな」
「余計かどうかは、僕が決めます」
テミンが床から立ち上がり、兄の袖を引いた。
「兄さん、もういいって。俺、本当に足が震えてる」
「帰れ。タクシーを呼ぶ」
「兄さんは?」
「用事ができた」
テミンは不安そうにユチャンを見たが、テジュンの顔を見て口を閉じた。ソアは何か言いたげだったが、ユチャンが一瞥すると右手を袖の中へ収めた。彼女の熱は漏れていない。そこだけは、今日の成果だった。
受付では、ユチャンは疲れ切った参加者の顔で淡々と答えた。C等級表示に気づいたのは退出後であり、内部ではただ逃げただけ、圧搾ラインの停止はソアが非常停止盤を叩いたら偶然止まったのだと説明した。『隠された欺瞞』を薄くかけると、端末上のログは焦げた接続部ではなく、古い電源回路の断線として記録された。
完全ではない。だが今は十分だった。
体験場を出る時、テジュンは何も言わなかった。テミンをタクシーへ押し込み、運転手に住所を告げ、弟が何度も振り返るのを見送った。それから古いノートパソコンの鞄を肩にかけ、ユチャンたちの後ろを歩き始めた。
ソアが小声で言う。
「ついて来てます」
「隠す気がない尾行だ」
「放っておくんですか」
「放っておけば、別の場所で調べる」
レベルゼロの路地へ入った時、夕方の光は半地下の看板を斜めに照らしていた。ユチャンがシャッターを上げると、テジュンは当然のように三歩後ろで止まった。
「ここが、あなたの塾ですか」
「古いゲーム塾だ」
「見た目は」
「中も大差ない」
ユチャンは鍵を開け、ソアを先に入れた。地下倉庫へ続く階段の前で一度だけ立ち止まり、テジュンを見る。
「見れば戻れない」
「弟が死にかけた理由を見ないまま戻る方が無理です」
乾いた返答だった。ユチャンは扉を開けた。
地下倉庫のホワイトボードには、灰色の塔の階層図を直接書いてはいない。代わりに初心者実習の事故率、ダンジョン難易度の改変タイミング、監視アルゴリズムが拾いやすい偽の失敗記録が並んでいた。テジュンは最初の一枚で足を止め、次に二枚目、三枚目へ視線を移した。
「これは……攻略講義の資料じゃない」
「だから表には出していない」
「ダンジョン移動ログはありますか。さっきのA-03の」
「受付から抜いたものはない」
「僕が撮りました」
テジュンは鞄からノートパソコンを出し、床に座った。指が震えているのに、キー入力は速い。撮影した入場前表示、ゲート内で仮登録バンドが拾った位置ログ、テミンのバンドから転送された簡易リプレイ。それらの断片を並べるだけで、彼は白い画面に線を引き始めた。
ソアが横から覗き込む。
「それで分かるんですか」
「全部は分かりません。分かるところから嘘を消します」
テジュンの声は小さい。だが、倉庫の空気を押す力があった。
十数分後、彼は画面をホワイトボードへ向けた。赤い線が四本、青い線が二本。四人の移動経路だった。ゴーレムの出現地点には黒い点が置かれている。
「ここです」
テジュンはユチャンの線を指した。
「ゴーレム出現の一分前から、あなたはすでに標準退避路を外れています。鉄製パレットのある迂回通路へ向かっていた。偶然ではありません」
「通路の振動が弱かった」
「弱くなる前です」
テジュンは即座に返した。
「さらに、ソアさんを先に隙間へ入れる指示も早すぎる。あの時点では、パレットの下に空間があると確定していない。普通なら確認してから動く」
「確認した」
「いつですか」
「中で」
「違います。あなたの足の向きは、最初からそこへ向かっていた」
ソアが息を呑んだ。ユチャンはテジュンを見た。未来で弟を失い、数字だけを信じる壊れた分析家になるはずだった青年。その目が、今はまだ生きている弟を守った熱で赤くなっている。
だからこそ、嘘は粗くできなかった。
「ネオヘイルの難易度調整バグを追っている」
「非公式に?」
「公式にやれば消される」
テジュンの指が止まった。
ユチャンはホワイトボードの一部を消し、A-03のFからCへの変化時刻を書いた。
「正式リリース後、低等級実習の一部で内部構造だけが上書きされている。事故扱いにできる程度に危険で、死亡事故として表に出にくい。俺はそれを追っている研究班の一人だ」
「研究班」
「名前はない。あると見つかる」
「生産補助アカウントが?」
「表の身分は役に立つ」
テジュンは笑わなかった。怒りもしなかった。ただ、今の説明を頭の中で分解している。
「ソアさんは?」
「危険な適性がある。表の受講生にすると拾われる」
「だから清掃補助」
「そうだ」
「僕の弟は?」
「今日死ぬ予定だったわけじゃない。ただ、事故条件に近かった」
半分だけ本当だった。未来の圧搾機、テミンの死、壊れたテジュン。その核心だけを外し、外側の構造だけを差し出す。
テジュンは長く黙った。倉庫の古い蛍光灯が一度ちらついた。ソアの右手が少し熱を持ったが、彼女は自分で握り込んで止めた。
「信じたわけではありません」
「それでいい」
「でも、弟は助かりました」
テジュンは画面を閉じずに言った。
「借りはあります。それに、今日のログは異常です。見ないふりをする方が、僕には無理です」
「条件を言え」
「レベルゼロの訓練データは、全部僕が直接検証します。編集済みの動画じゃなく、生ログで。動線、失敗、成功、外部接続、全部」
「個人情報は匿名化する」
「神経ログを勝手に取っているなら、そこも見ます」
「ここでは取らない。本人の同意なしに、記憶や神経には触れない」
テジュンの目が初めてわずかに揺れた。
「……それを聞きたかった」
彼はノートパソコンを抱え直し、ホワイトボードの端に自分の字で一行書いた。
【A-03:難易度改変、出現一分前に誘導線発生】
「合流します。ただし、僕はあなたの説明を検証する側です」
「好きにしろ」
「好きにします」
テジュンの声は小さかったが、そこには奇妙な安定があった。ソアは少しだけ眉をひそめたが、反対はしなかった。彼が弟を救うために叫んでいた声を、彼女も聞いていたからだ。
その日の夕方、ユチャンは一人で九老の塾街へ出た。ソアは地下で熱制御の反復、テジュンは倉庫でA-03のログ分解を続けている。新しい目が増えた以上、次の駒は早く置く必要があった。
待ち合わせ場所は、ブルーストーム・アカデミーの看板が見える小さなカフェの前だった。
オ・ナリは、時間ちょうどに現れた。淡い色のカーディガンに小さな鞄。表情は柔らかいが、歩きながら周囲のガラス、監視カメラ、ユチャンの立ち位置を自然に拾っている。人を安心させる顔をしながら、人を見る目は鋭かった。
「レベルゼロの代表さんが、競合塾の前に呼び出しですか。営業妨害なら面白いですけど」
「奨学生面接の情報だ」
ユチャンは封筒を差し出した。中にはブルーストームの面接日程、担当者名、治癒系補助職を優先しているという内部募集文、面接会場の動線が入っている。
ナリは封筒を受け取り、軽く振った。
「私、まだあなたの塾に入るとも言ってませんよ」
「入らなくていい」
「それで競合の面接を勧めるんですか。何が狙いです?」
「ブルーストームは、治癒系候補を急いで集めている。奨学生なら費用は向こう持ちだ」
「親切ですね」
「違う」
ナリはそこで笑った。柔らかく、聞き流すような笑いだった。
「正直で結構です。でも、私が治癒系かどうかも確認してないのに」
「確認する必要はない」
「それ、かなり失礼ですよ」
声は穏やかだった。だが目はまったく笑っていない。ユチャンは余計な説明を足さなかった。彼女は言葉で押せば逃げるタイプではない。逆に、理由のない空白を見るために踏み込むタイプだった。
「面接で、地下へ呼ばれたら断れ」
「地下?」
「それだけ覚えておけ」
「覚えておくかどうかは、私が決めます」
ナリは封筒を鞄へ入れた。最後まで軽い調子を崩さないまま、彼の顔を観察していた。頬のこけ方、目の下の影、右目の端に滲む灰色の紋様までも、見逃していないような目だった。
「チョン・ユチャンさん」
「何だ」
「あなた、人に頼むのが下手ですね」
そう言って、ナリは背を向けた。角を曲がるまで、彼女の視線はガラスの反射越しにユチャンから離れなかった。
ユチャンの携帯が震えたのは、その直後だった。レベルゼロの地下に残した十二台目PCからの自動通知。画面には、ネオヘイル式ではない灰色の文字が一行だけ浮かんでいた。
【治癒適性候補、外部機関へ接続予測】
ナリはまだ、面接を受けるとも言っていない。だが向こう側の何かは、もう彼女が来る前提で席を用意していた。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
19話 地下二階の記憶安定化同意
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