ナリは通知画面を閉じなかった。
【処置分類:記憶安定化同意】
断れば外へ出られるかもしれない。だが待合室から消えた制服の少年は、もう誰の記憶にも残っていない。ここで帰れば、自分の記憶だけが安全なまま、彼の名前ごと地下に沈む。
『頼まれたから来たわけじゃない』
ナリは鞄の紐を握り直し、職員用エレベーターの前へ進んだ。受付係が少し離れた場所からそれを見ていた。止める顔ではない。むしろ、予定どおり進んだと確認する目だった。
「地下二階でよろしいですね」
「はい。二十分で終わるなら」
冗談めかして答えると、受付係は薄く笑っただけだった。カードキーがかざされ、扉が開く。中は消毒液と冷えた金属の匂いが混じっていた。
地下二階の廊下は、本館の青いロゴを捨てていた。壁は白いが、天井の配線はむき出しで、床の端には細い排水溝が続いている。案内表示には治療室とだけ書かれ、その奥で低い機械音が途切れず鳴っていた。
面接室にいた女性相談員が、廊下の先で待っていた。
「来てくださって安心しました。追加確認だけですから」
「そう言われると、少し怖いですね」
「緊張される方は多いです。治癒系の方は、他人の不調に敏感なので」
相談員の声は柔らかかった。だがその視線は、ナリの両手へ落ちていた。ナリは何気ない仕草で胸の前に鞄を抱え、指先を隠した。
治療室の扉が開くと、内部はカーテンで細かく仕切られていた。白い医療カプセルが二台。点滴台のような支柱。壁際には書類を載せたワゴンがあり、端末には候補者番号が並んでいる。病院に似せているのに、どこか処理場に近かった。
左のカーテンの向こうから、掠れた声が聞こえた。
「ここに、名前を書けばいいんですか」
「はい。退去確認です。ご本人の意思で手続きを終了されます」
「僕の名前……」
「上に印字されています。なぞるだけで構いません」
ナリの足が止まった。相談員がすぐ隣に立つ。
「どうかしましたか」
「いえ。具合の悪い方がいるみたいで」
「適性に合わなかっただけです。すぐお帰りになります」
カーテンの隙間から見えた手の甲には、待合室の三人と同じ格子状の痕があった。少年ではない。二十歳前後の受講生らしき青年だった。目は開いているのに、紙の上の自分の名前を読めていない。退去確認書の下には、検査同意撤回、記録保持同意、外部紹介辞退の項目が並んでいた。
青年はペンを持ったまま、ゆっくり自分の名をなぞった。
「僕、何を受けに来たんでしたっけ」
「奨学生面接です。結果は残念でした」
「残念……」
「はい。ですから、今日のことは休息とお考えください」
白衣の男が青年の肩に手を置いた。その瞬間、ナリの胸の奥に鈍い痛みが走った。自分の痛みではない。頭蓋の内側を押し潰され、思い出そうとするたびに、記憶の入口を冷たい指で塞がれるような痛みだった。
ナリは反射的に手を握り締めた。
『だめ。今、光らせたら終わり』
爪が手のひらへ食い込む。治癒適性を悟られたくない。ここで自分が未登録覚醒候補だと確定されれば、次にカプセルへ入れられるのは自分だ。そう分かっているのに、青年の呼吸が一拍ごとに浅くなり、記憶を圧迫する痛みだけが彼女の神経へ流れ込んできた。
白衣の男が端末へ言う。
「記憶固定阻害、安定。署名反応、保持」
「退去ルートに回しますか」
「処理後に」
処理、という言葉が聞こえた時、ナリの指先から淡い光が漏れた。
大きな発光ではない。カーテンの下を一瞬だけ撫でる、月明かりほどの薄い白だった。だがその光が青年の靴先に触れた瞬間、ぼやけていた顔にほんのわずか、焦点が戻った。
青年が瞬きをした。
「……キム、ドヒョン」
白衣の男の手が止まる。
「何です?」
「僕の名前です。キム・ドヒョン。僕、地下に……カプセルに……」
言葉はそこで途切れた。端末が短く警告音を鳴らし、白衣の男が即座に青年の首元へ何かを押し当てる。青年の目から戻りかけた光が、また薄く濁った。
ナリは手をさらに強く握った。光は消えた。だが遅かった。
相談員の目が、彼女の指先から離れていなかった。
「オ・ナリさん」
「はい」
「今、何かしましたか」
柔らかい声だった。柔らかいからこそ、逃げ道がなかった。ナリは笑った。自分でも、いつもより口角が固いと分かった。
「怖くなって、手に力が入っただけです」
「そうですか」
「治療室って、思ったより緊張しますね」
相談員は微笑んだまま、端末を二度叩いた。画面の候補者番号の横に、赤い点が一つ追加された。ナリの番号だった。
「検査前反応を確認しました。予定を少し変更します」
「二十分では終わらなさそうですね」
「詳しい確認が必要です」
カーテンの向こうで、青年はまた自分の署名を見下ろしていた。さっき名前を取り戻したことも、もう覚えていない。ナリは喉の奥に上がった怒りを押し殺し、鞄の中で携帯を探った。画面は圏外に近い。だが完全には死んでいない。
彼女は親指だけでレベルゼロに登録した連絡先を開き、音声メッセージの待機画面を伏せるように握った。
「こちらへ」
相談員が右奥のカーテンを開いた。中には空の医療カプセルがあった。白い縁に並んだ端子は、待合室の傷痕と同じ幅で配置されている。枕元の固定具は患者の安全のためというには、手首の位置を正確に縛りすぎていた。
ナリは一歩だけ進み、そこで立ち止まった。
「その前に、先ほどの方は帰れるんですか」
「もちろんです」
「名前も思い出せないまま?」
「一時的な混乱です」
「一時的なものなら、本人が署名したかどうかも怪しいですね」
相談員の笑みが、ほんの少し薄くなった。白衣の男がカーテンの向こうから顔を出す。
「候補者へ過度な共感反応。治癒系濃厚。拘束準備」
「まだです」
相談員が小さく止めた。
「本人の反応を見る必要があります。オ・ナリさん、自分から横になってください。あなたのためでもあります」
「私のために、記憶を安定化してくれるんですか」
「不安定な覚醒は危険です」
「不合格者を消す方が、よほど危険に見えますけど」
その言葉で、室内の機械音が急に大きく聞こえた。ナリは携帯を握る親指に力を込めた。送信待機の小さな振動が、手の中にある。
同じ頃、レベルゼロ地下倉庫では、テジュンがナリの位置信号を追っていた。
「変です」
彼の声に、ソアが基板から顔を上げた。ユチャンはブルーストーム本館の平面図を机に広げたまま、目だけを動かす。
「何が」
「ナリさんの端末位置、ブルーストームの地下二階に見えます。でも座標レイヤーが違う」
「具体的に言え」
「建物の地下じゃありません。通信上の中継座標が、ネオヘイル九老臨時サーバー室の登録座標と重なっています」
ソアの手から熱が漏れかけ、彼女は慌てて拳を握った。
「ブルーストームなのに、ネオヘイル?」
「外部端子の規格だけじゃない。位置偽装もネオヘイルの一時網を使っています。たぶん、地下の機器が直接つながってる」
テジュンは眼鏡を押し上げ、別の画面を開いた。ブルーストームの地下平面図と、ネオヘイルがイベント時だけ使う仮設サーバー室の座標ログが重なっていく。ずれているはずの二つの場所が、通信網の上では同じ点になった。
ユチャンはその一点を見た。喉の奥で、灰色の欠片が嫌な熱を持つ。
本来なら三日後だった。ブルーストームの地下実験がネオヘイルの正式網へ接続されるのは、彼の記憶ではもう少し後だ。その時、数人の治癒候補が消え、処理済みの記録だけが残る。だからナリには時間割だけを見せるつもりだった。
だが盤面は、少なくとも三日早く動いている。
「予定が前倒しになったんですか」
「違う」
ユチャンは短く言った。
「俺たちが動いたから、向こうも隠す順番を変えた」
ソアが息を飲む。
「ナリさんは?」
「まだ生きている。信号が切れていない」
テジュンの画面が不意に震えた。圏外ぎりぎりの細いパケットが、ノイズに潰されながらレベルゼロの回線へ滑り込む。添付は音声。長さは四秒にも満たない。
ユチャンは再生ボタンを押した。
雑音の奥で、ナリの声が聞こえた。いつもの柔らかさは欠け、息を抑える音が混じっていた。
「ここ、失敗者たちを消しています」
音声はそこで切れた。
直後、十二台目PCの画面が勝手に白く染まり、赤い文字で新しい処理名を吐き出した。
【未登録治癒サンプル:オ・ナリ】
【回収優先度、最高】
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
21話 ナリ、地下実験を暴く
次の話