赤い文字が十二台目PCに刻まれた瞬間、ユチャンは椅子を蹴るように立った。
【未登録治癒サンプル:オ・ナリ】
【回収優先度、最高】
警告ではない。もう命令処理に入っている表示だった。ブルーストームの地下にいる職員たちは、ナリを候補者としてではなく、装置へ入れる検体として扱い始めている。
「テジュン。地下サーバー座標を逆に追え。ブルーストーム本館じゃない。重なっているネオヘイル九老臨時サーバー室の出口を出せ」
「今やってます。でも向こう、三重に中継を噛ませてる」
「なら二つは捨てろ。座標が変わらない層だけ残せ」
テジュンの指がキーボードを叩く音が、地下倉庫の湿った空気を裂いた。眼鏡の奥の目は眠そうではない。怒りを全部、計算へ押し込んだ顔だった。
ユチャンは次にソアを見た。
「ソア。レベルゼロの出入り記録を消せ。今日の午後から今まで、ナリがここへ連絡した痕跡もだ」
「ナリさんを切るんですか」
「違う。向こうがレベルゼロごと回収対象にする線を切る」
ソアの唇が噛み締められた。右手から一瞬だけ熱が漏れ、机の上の紙端が丸まる。彼女は自分で息を吸い、熱を指の下へ畳んだ。
「……分かりました。消します」
その返事と同時に、テジュンの画面へ別の波形が走った。
「ナリさんの端末、まだ送信状態です。音声じゃない。映像待機に切り替わってる」
ユチャンの右目の灰色の紋様が細く回った。救助を待つなら、彼女は端末を隠して震えているはずだった。だがオ・ナリは、たぶん別の選択をした。
地下治療室で、ナリは空のカプセルの前に立ったまま、相談員の笑みを見ていた。
「自分から横になってください。怖がる必要はありません」
「怖がっている人に、だいたいそう言いますよね」
白衣の男が背後へ回り、手首用の固定具を開いた。カーテンの向こうでは、キム・ドヒョンが退去書類の上に視線を落としている。もう自分の名前を読めない顔だった。さらに奥の椅子には、待合室で見た女性と、別の若い男が座らされていた。二人とも手の甲に格子状の処置痕がある。
相談員の声が少し低くなった。
「オ・ナリさん。協力的でない場合、安全措置が必要になります」
「安全って、誰の安全ですか」
「あなた自身のです」
「嘘が薄いですね」
白衣の男の手が、ナリの肘を掴んだ。強引にカプセルへ押し込む力だった。ナリは抵抗したが、相手は慣れている。肩が白い縁へぶつかり、冷たい端子が背中に触れた。
その瞬間、カーテンの向こうで女性が小さく呻いた。
「痛い……頭、いたい……」
ナリの指先が震えた。逃げるだけなら、今なら膝を蹴って隙間へ走れる。だがその呻きは、さっき胸の奥に流れ込んだ痛みと同じだった。思い出そうとする人間の中で、記憶の扉を無理に閉じる痛み。
『私は、見て帰るだけの人じゃない』
ナリは掴まれた腕をねじり、鞄の中の携帯を床へ滑らせた。画面は録画待機のまま、白いカプセルと書類ワゴンを斜めに映している。
「手に力が入っただけですって、言いましたよね」
彼女は笑った。今度は目が笑っていなかった。
「今からは、違います」
淡い白い光が、指先からこぼれた。月明かりではない。細く、しかし確かな筋となって床を這い、ドヒョンの靴先へ、女性の指へ、若い男の膝へ触れていく。治療ではなかった。壊されたものを完全に戻すほどの力はまだない。けれど痛みの棘だけを、一瞬だけ抜くことはできた。
ドヒョンの肩がびくりと跳ねた。濁っていた目に、わずかな焦点が戻る。
「……キム」
白衣の男が振り返る。
「止めろ!」
「キム・ドヒョン。僕の名前……キム・ドヒョンです。地下、白いカプセル、首に冷たいものを……僕、同意なんて……」
言葉は乱れていた。それでも名前ははっきり映像に残った。女性も喉を押さえながら、自分の番号ではなく名前を口にしようとしていた。若い男は泣きそうな顔で「家に電話」とだけ繰り返した。
ナリは光を強めなかった。強めれば、自分が先に倒れる。彼女は痛みを和らげる線だけを保ち、床の携帯へ足先で触れた。録画画面の隅に、ワゴンの書類が入る。
退去確認書。検査同意撤回。記録保持同意。外部紹介辞退。
そして端末のログ画面には、処置分類の文字が並んでいた。
【記憶固定阻害:安定】
【署名反応:保持】
【未登録治癒サンプル:拘束準備】
「撮っているのか」
相談員の顔から笑みが消えた。
ナリは答えず、携帯を蹴った。端末はカプセルの下へ滑り込み、画角は低くなったが、職員の足、書類、ドヒョンの声、白衣の男が首元の器具を握る姿を拾い続けた。
白衣の男が彼女の手首を押さえつけた。固定具が閉じる直前、ナリは鞄から抜けかけていた小型メモリを親指で弾いて作動させた。面接前、ユチャンに渡されたものではない。彼女が自分で買った安物のバックアップメモリだ。受付端末に番号札をかざした時、表示された同意書のキャッシュを抜いた。治療室前の壁端末では、医療カプセルの稼働ログを抜いた。証拠を集める時間は、少しずつあった。
「匿名チャンネル、予約投稿」
ナリは息を切らしながら呟いた。
「本文、添付一括。公開」
携帯の画面がカプセルの下で一瞬だけ光った。
レベルゼロの地下倉庫で、テジュンが椅子から半分立ち上がった。
「送信されました。匿名チャンネルに動画、カプセルログ、同意書キャッシュ。全部です」
「拡散速度は」
「初速が異常です。治癒系志望者の掲示板、受講生保護者のチャット、ハンター志望者コミュニティに同時投入されてる。ナリさん、投稿先を分けていた」
ユチャンは画面を見た。再生数が跳ね上がる。百、千、万。コメント欄には、ブルーストームの待合室で記憶が抜けたという証言が次々に流れ込んだ。誰もが薄く感じていた不安に、名前と映像が与えられていく。
十分後、ブルーストーム・アカデミー本館の公式ページが落ちた。代わりに、施設内放送の音声がナリの端末経由で拾われる。
【地下二階を封鎖します。全職員は候補者移送手順Bへ移行してください】
テジュンが低く言った。
「地下階、物理ロックに切り替わりました。外部から普通には開きません」
「逆追跡は」
「座標、出ます。ネオヘイル九老臨時サーバー室の奥に、ブルーストーム用の隔離ラックがある。ここを潰せば監視は揺らせる。でもナリさんの位置も同時に荒れる」
ユチャンは目を閉じなかった。彼が用意していた暴露の手順は、明日の夜に始まる予定だった。資料を揃え、退路を作り、匿名告発者を複数に分ける。人を動かす前に、盤面を固めるつもりだった。
だが今、映像の中でドヒョンが自分の名前を取り戻した。ナリが助けを待たず、痛みを見た側の責任を選んだ。
スケジュールが壊れたのではない。
人の選択が、一日早く世界を動かしたのだ。
十二台目PCがまた白く染まった。赤い文字は、さっきより深く、血のように沈んで見えた。
【未登録覚醒サンプル:オ・ナリ】
【施設内逃走防止手順、開始】
同時に、ナリの端末から廊下の放送が流れた。機械的な女声が、地下二階全体へ響く。
【オ・ナリ様。現在位置を確認しています。職員の指示に従い、その場で停止してください】
ソアが画面を見つめた。恐怖ではなく、怒りで右手が震えていた。だが熱は漏れていない。彼女は自分で握り込んでいる。
ユチャンは短く息を吐いた。ナリの顔はもう世に出た。ブルーストームは地下を閉じた。ネオヘイルの座標もつながった。ここから先は、隠して育てる段階ではない。
「ソア」
少女が振り向く。
「今すぐ動け」
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
22話 地下封鎖からの脱出劇
次の話