「了解です」
ソアの返事は短かった。怒りは声の底に沈んでいたが、右手の熱は漏れていない。ユチャンはそれだけを確認し、十二台目PCの横へ古い携帯を置いた。ナリの端末から拾った廊下映像が、途切れながら揺れている。
【オ・ナリ様。現在位置を確認しています。職員の指示に従い、その場で停止してください】
放送の女声がまた響いた。地下治療室の奥で白衣の男が怒鳴っている。ナリは固定具から抜いた手首をかばいながら、ドヒョンと、待合室にいた女性へ指先の光を細く流していた。治すためではない。立てるだけの痛みを抜くためだった。
「ナリさん、動けます。でも出口が全部ロックされています」
テジュンが画面から目を離さず言った。
「裏階段は」
「遮断。エレベーターも停止。残っているのは搬送用通路と、洗濯室の換気口だけです」
「洗濯室へ誘導しろ」
「換気口、狭いですよ。大人一人がやっと」
「ナリなら通れる。問題は残り二人だ」
映像の中で、ナリは床の携帯を足で押し、廊下の角度を変えた。ドヒョンは自分の手を見つめ、女性は名前を思い出せないまま唇だけを動かしている。二人を置いていけば、ブルーストームは証言ごと回収する。
ユチャンは奥歯を噛んだ。ここで自分が直接突入すれば、映像の投稿者、通信の受信先、レベルゼロの地下倉庫が一本の線になる。ナリは助かるかもしれない。だがソアもテジュンも、まだ外に出してはいけない名前までまとめて照合される。
『今は俺が行く場面じゃない』
十年前なら扉を壊していた。見える敵を殺し、怒りに任せて進み、最後は全員まとめて回収された。ラケイアはそういう抵抗を好んだ。分類しやすいからだ。
「テジュン。ナリの端末へ送れ。洗濯室、換気口、裏口。短く」
「はい」
数秒後、ナリの画面の隅に通知が浮いた。彼女はそれを見て、すぐにドヒョンの腕を取る。
「立てますか」
「ぼく……」
「名前は後で何度でも言えます。今は足だけ動かしてください」
女性が「どこへ」と聞くと、ナリは「外です」とだけ答えた。
廊下の奥で靴音が増えた。放送が切り替わる。
【サンプルO-NR、独自発光を確認。搬送班は二号廊下を封鎖。記憶固定対象二名も同時回収してください】
サンプル、という言葉にソアの肩が跳ねた。けれど彼女はもうバッグを掴み、非常階段へ向かっている。
「外の配電盤、場所は?」
「本館裏の路地。青い扉の右、鉄柵の中です」
「半径何メートル落とせばいいですか」
「二十。監視カメラの給電だけなら足ります」
「分かりました」
扉が閉まる。ユチャンはその音を聞きながら、右目に意識を沈めた。『隠された欺瞞』は消える力ではない。相手が見たいものを、納得できる形で置く力だ。
ブルーストームの監視画面へ触るには、ネオヘイル九老臨時サーバーを一枚挟む必要があった。深く入れば足が残る。浅く、画面だけをずらす。
「テジュン。隔離ラックの監視ポート、三秒だけ開けろ」
「三秒以上は?」
「開けるな。向こうに俺が見える」
「論外です。二・八秒で切ります」
十二台目PCの白い画面が黒い監視室へ変わった。廊下、治療室、搬送用通路、階段。そこにナリの白いカーディガンが三つ映っていた。
一人目は二号廊下の角で立ち止まる。
二人目はエレベーター前へ走る。
三人目は治療室へ戻ろうとする。
本物のナリは、ドヒョンと女性を連れて洗濯室へ向かう細い通路にいた。ユチャンは足音、発光反応、携帯の微弱な電波を三つに裂き、それぞれ別の監視画面へ置いた。
「監視員、分散しました。二号廊下へ二人。エレベーターへ一人。治療室の偽映像へ一人」
「本物の通路は」
「まだ見られていません。でもサーバー室のロック手順が走ってる。隔離ラックを閉じられたら干渉も切れます」
「止めろ」
「だから今やってるんです」
テジュンの声に焦りが滲んだ。彼は遠隔でロック手順へ割り込み、認証順だけを入れ替えた。扉が閉まる命令は残す。だが閉じた確認信号だけを先に返す。機械は、自分がもう閉じたと信じて停止する。
「通った。ロック無効化。十七秒稼げます」
十七秒。
ナリは洗濯室へ飛び込んだ。薬品臭のする狭い部屋で、壁の上部に換気口があった。彼女は女性を台車へ乗せ、肩を貸して押し上げる。女性は途中で力を失いかけたが、ナリの光が背中を一瞬なぞると、息を整えて格子の向こうへ滑り込んだ。
ドヒョンは自分の手を握った。
「また忘れたら」
「その時は、私が今の映像を見せます」
「……僕の名前」
「キム・ドヒョンさん。行ってください」
廊下の扉が叩かれる。相談員の声が冷たく響いた。
「オ・ナリさん。外へ出ても保護は受けられません」
「保護って、便利な言葉ですね」
ナリは最後に携帯を棚の上へ置いた。画面には汗で髪を頬に張りつかせた彼女の顔が映る。
「私はオ・ナリです。ここで見た人たちの名前を、消さないでください」
そう言って、録画を止めずに換気口へ身を押し込んだ。
同じ頃、本館裏の路地で、ソアは青い扉の横にしゃがんでいた。鉄柵の向こうに配電盤がある。彼女は息を吸い、右手の熱を掌に広げず、人差し指の爪先へだけ集めた。
「燃やさない。落とすだけ」
火花が一つ、鉄柵の隙間を抜けた。次の瞬間、配電盤の中で青白い光が弾け、低い破裂音が路地を震わせる。
テジュンの画面で、半径二十メートル内のCCTVが一斉に黒く落ちた。裏口、搬入口、非常階段下、路地の角。四つの目が同時に死ぬ。
「落ちました」
「ナリは」
「換気口内。あと八メートル。裏口の天井裏へ出ます」
ユチャンは止めていた息を吐いた。だが安堵は早い。映像はもう拡散している。ナリの名前と顔は、彼女自身の声で世に出た。隠して守る段階は終わった。これからは、見られたまま生かすしかない。
換気口の薄い金属が軋んだ。ナリの肘が滑り、下へ落ちかける。先に進んだ女性が振り返り、震える手を伸ばした。ドヒョンも彼女の腕を掴む。弱い力だったが、止まった。
「大丈夫です。今のは、ちょっと痛かっただけです」
軽い冗談にするには声が掠れていた。それでも二人は動いた。三人は狭い天井裏を這い、裏口横のリネン搬出口へ出る。外では非常灯だけが赤く瞬いていた。
ソアが路地の角から走り寄った。
「ナリさん」
「助かりました。派手でしたね」
「派手じゃないです。必要最小限です」
強がる声に、ナリが少しだけ笑った。だが建物内から職員の怒号が近づく。ソアはドヒョンの腕を肩へ回し、ナリは女性を支えた。
「表通りは駄目です」テジュンの声が通信に入る。「南側に記者と配信者が集まり始めてる。路地を二つ抜けて、廃業した薬局の前へ」
「車は」
「使いません。車両ログが残ります。徒歩で散って、地下鉄入口前の防犯死角に誘導します」
ユチャンは地図を見た。赤い点が増えている。職員、警察、動画を見た保護者、ハンター志望者。周辺が一気に騒がしくなっていた。
「ソア、ナリを映すな。顔を隠せ」
「もう出てます」
「それでもだ。次の映像を減らせ」
「はい」
ソアは自分のパーカーを脱ぎ、ナリの頭からかぶせた。
ユチャンは監視画面へ戻った。三人のナリは、それぞれ別の場所で捕まる直前にノイズへ変わっていた。欺瞞は役目を終えた。だがノイズの奥でネオヘイルの臨時サーバーが再照合を始めている。
「テジュン、閉じろ」
「ログを焼きます」
「焼くな。古い障害に見せろ」
「……はい。九老臨時サーバーの冷却ファン異常。ブルーストーム隔離ラックへの一時接続失敗として残します」
数分後、ソアから連絡が入った。
「抜けました。ナリさん、歩けます。二人も生きてます」
「追跡は」
「今のところありません。でも通りに出たら気づかれます」
遠くでナリの声がした。
「ユチャンさん」
「話は後だ」
「はい。後で怒られます」
「怒る時間があればな」
「ドヒョンさんと、もう一人の方を先に隠します。私は逃げません。証言します」
「逃げろ。証言は生きてからだ」
「それもそうですね」
その軽い返事の奥で、サイレンが近づいていた。三人はまだ安全ではない。だが白いカプセルのある地下二階からは出た。
ユチャンは携帯を持ち上げた。画面には匿名動画の拡散通知が滝のように流れている。オ・ナリ。治癒系候補。ブルーストーム地下。キム・ドヒョンの証言。世論は燃え始めていた。消せない火だった。
その時、別の通知が一つ、静かに上へ重なった。
差出人は、パク・ユンジェ。
【ブルーストームの件、状況確認が必要になりました。以前の見学時に確認した未成年清掃補助の安全管理を含め、レベルゼロも直接確認します】
ユチャンの右目の灰色の紋様が、冷たく一周した。
閉じたはずの扉が、今度は反対側から開き始めていた。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
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