ユチャンはパク・ユンジェの通知を消さず、画面の光だけを見ていた。
【ブルーストームの件、状況確認が必要になりました。以前の見学時に確認した未成年清掃補助の安全管理を含め、レベルゼロも直接確認します】
文面は丁寧だった。だが意味は簡単だった。ブルーストームを切り捨てる前に、周辺に残った異常な匂いを拾いに来る。未成年清掃補助と書いたのは、ソアの顔をまだ覚えているという合図でもあった。
「先生」
テジュンが低く呼んだ。地下倉庫のモニターには塾街の映像が並んでいる。ブルーストーム本館の前には記者の車、保護者の集団、制服警官、スマートフォンを掲げた配信者が入り乱れていた。誰かが泣き、誰かが怒鳴り、白い看板へ紙コップが投げつけられる。
「政府発表です。違法覚醒実験と未成年対象の記憶処置について、特別点検を即時開始。対象は民間アカデミー全般」
「ネオヘイルは」
「出ました。ブルーストーム九老支部は独断運営の提携教育機関で、ネオヘイル本体の標準運用とは無関係。内部調査に協力する、だそうです」
ソアが鼻で笑った。
「切るの、早いですね」
「尾を切っただけだ。胴体はまだ動く」
ユチャンは通知を閉じ、ホワイトボードの予定表を見た。三日後に匿名資料を整理し、四日後に保護者団体へ投下、五日後に九老臨時サーバーの接続を辿る。すべて、もう古かった。
ナリが生きて外へ出た。名前を出した。証言者になった。なら、守り方も変えなければならない。
「テジュン。ナリの登録を消せ」
「受講履歴ですか」
「違う。正式受講生としては最初からいないことにする。臨時のボランティア相談員。保護者対応の手伝いに来ただけだ」
「証拠映像で顔が出ています」
「だから隠すんじゃない。誰もが納得しやすい肩書きを置く」
テジュンは一瞬だけ黙り、うなずいた。キーボードを叩く音が細かく走る。ナリの名前は受講希望者リストから外れ、地域掲示板のボランティア募集履歴と結びつけられていく。治癒系志望者の悩みを聞く臨時協力者。薄いが、現実にありそうな嘘だった。
「ソア。地下訓練の記録を全部、平凡なゲームのリプレイに替えろ」
「私のだけですか」
「おまえとテジュンの両方だ。炎の制御動画も、A-03の分析ログも、古い対戦ゲームの練習ファイルへ埋めろ」
「私、ゲーム下手ですけど」
「下手な方がいい」
ソアは不満そうに唇を曲げたが、すぐ端末へ向かった。彼女の手は震えていない。さっき配電盤を落とした少女が、今は一つずつファイル名を変えている。熱を出さず、証拠だけを焼くように。
外の騒ぎは時間とともに大きくなった。保護者チャットには、うちの子も面接後に二時間の記憶がない、手の甲に痕が残った、相談員の名前を覚えていない、という投稿が積み重なっていく。警察は本館を封鎖し、職員は書類箱を抱えて裏口へ走り、記者はその背中へマイクを突きつけた。
ネオヘイルの公式会見は、ひどく整っていた。提携先教育機関の一部支部が許可範囲を逸脱した疑いがある。ネオヘイルは被害者保護と真相究明に全面協力する。現時点で本社システムへの不正接続は確認されていない。
「嘘ですね」
テジュンが呟いた。
「九老臨時サーバー室の隔離ラック、今も生きています。通信量を半分以下に落として、バックアップへ逃がしてる」
「追うな」
「分かってます。見てるだけです」
言葉とは逆に、彼の指は怒りを隠していた。追えば証拠へ届くかもしれない。だが今は、向こうにレベルゼロの指紋を残す方が危険だった。
午後になる頃、塾のシャッターは半分だけ下ろされた。営業中でも休業中でもない曖昧な姿だ。ユチャンは一階の机に、初心者向け相談票、保護者説明用の印刷物、ありふれたゲーム講座の教材を並べた。パク・ユンジェが来れば、貧しい塾が騒動に巻き込まれ、慌てて帳尻を合わせているように見せる必要がある。
夕方前、裏口のチャイムが小さく鳴った。
ソアが身構える。テジュンが画面を切り替える。ユチャンは右目の紋様を沈め、扉を開けた。
そこに立っていたのは、ナリだった。淡いカーディガンは別の上着に替わっていたが、顔色は悪い。髪は乱れ、手首には固定具の跡が赤く残っている。それでも彼女は、いつもの柔らかい笑みを無理に作った。
「すみません。正面、記者さんが多くて」
「休めと言ったはずだ」
「逃げろとは言われました。休めとは、まだ聞いていません」
軽口はいつもより細かった。ユチャンは横へ退き、彼女を中へ入れた。ソアが何か言いかけて、結局黙って水を渡す。ナリは礼を言い、紙コップを両手で包んだ。
地下倉庫へ下りると、ナリはホワイトボードを見た。赤い線で消された予定、書き換えられた名簿、臨時相談員という新しい肩書き。彼女はそれらを一つずつ見て、静かに息を吐いた。
「私、盤面を壊しましたか」
ソアが顔を上げた。テジュンの指も止まる。
ナリは笑っていなかった。
「見て帰るだけの予定だったんですよね。証拠を持って、あなたのタイミングで出す。なのに私は、勝手に名前を出して、勝手に公開して、追われる側になりました」
「後悔しているのか」
「していません。ただ、聞いておかないといけない気がして」
ユチャンはすぐには答えなかった。予定通りなら、もっと静かに、多くの証拠を揃えられた。ナリの顔も、レベルゼロの輪郭も、ここまで早く外へ出なかった。
だが映像の中で、ドヒョンは自分の名前を言った。記憶を奪われた女性は換気口でナリの腕を掴んだ。ソアは燃やさずに配電盤を落とし、テジュンは閉じたはずの扉を十七秒だけ騙した。
それは盤面の失敗ではなかった。
「計画より、人が先だ」
沈黙のあと、ユチャンはそう言った。
ナリの指が紙コップの縁を押した。
「俺が遅かった。おまえが壊したんじゃない。生きている人間が、俺の予定表より先に動いただけだ」
「……それ、慰めですか」
「違う。修正方針だ」
ユチャンは赤いペンを取り、ホワイトボードの予定をすべて消した。匿名暴露の段階、接触者の選別、証言者の保護順。残っていた線が白い粉になって落ちる。
「今日から前提を変える。ナリは隠す対象じゃない。証言者として生かす。ソアは清掃補助のままではなく、危険時の外部支援者に見せる。テジュンは受講生じゃない。設備点検の協力者だ」
「僕の扱い、雑ですね」
「雑な方が疑われにくい」
「それはそうです」
短いやり取りに、ソアの肩から少し力が抜けた。
ナリはユチャンを見ていた。柔らかい目ではない。相手の空白まで拾う目だった。
「ユチャンさんは、人を駒にしないと言いながら、いつも先に配置を考えます」
「癖だ」
「でも今、先に人って言いました」
ユチャンは返事をしなかった。十年の戦場で、生き残るためには人の配置を覚えるしかなかった。誰が先に死ぬか。どの叫びで敵が振り向くか。どこへ倒れれば次の一人が三秒長く走れるか。
その計算を捨てることはできない。だが、計算の上に人を置く順番なら変えられる。
ナリは紙コップを机に置き、少しだけ笑った。
「分かりました。じゃあ私は、臨時のボランティア相談員として、証言者を生かす側にいます」
「無理はするな」
「それ、あなたに言われると説得力が薄いです」
ソアが小さく吹き出した。テジュンも画面へ目を戻しながら、口元だけ動かした。壊れた盤面の上で、奇妙に細い糸が結び直されていくのをユチャンは感じた。弱い。だが、前より切れにくい。
その時、地下倉庫に置かれた四台の携帯が、同時にけたたましく鳴った。
災害速報の音だった。
ユチャンは反射的に画面を開いた。政府速報、地下鉄公社、民間配信、ニュースアプリ。別々の通知が、同じ一文へ収束していく。
【仁川駅地下プラットフォームにて、未確認シミュレーターイベントゲート発生】
【周辺市民は直ちに退避してください】
テジュンが中継を開いた。揺れる映像の向こうで、仁川(インチョン)駅の電光掲示板が灰色に瞬いていた。線路の上に、ゲーム画面でしか見ないはずの半透明の門が開いている。見物人が歓声を上げ、配信者が限定イベントだと叫びながら改札へ走っていく。
ユチャンの喉の奥で、管理者コアの欠片が冷たく脈打った。
画面の中、ホームの霧が一瞬だけ形を変えた。そこに浮かんだ文字は、ネオヘイルのものではなかった。
【恐怖反応、収集開始】
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
24話 霧に沈む仁川駅地下二階
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