その文字を見た瞬間、ユチャンは画面の音を消した。
配信者の声も、駅構内のざわめきも、限定イベントだと浮かれるコメント欄も要らなかった。灰色の霧の奥に浮いたラケイア式の文法だけで十分だった。
「ゲームじゃない」
ソアが横から画面を覗き込む。
「ネオヘイルのイベントじゃないんですか。みんな、そう言ってますけど」
「違う。ネオヘイルなら恐怖反応なんて言葉を表に出さない。これは収穫命令だ」
テジュンはすでに複数の中継を並べていた。駅の案内板、改札前の人だかり、地下へ向かう階段。映像はどれも揺れているが、線路上の半透明の門だけは同じ位置にあった。
「政府の状況室、まだサーバー障害扱いです。ネオヘイルのアクセス集中が鉄道公社の電光掲示板へ波及した事故、だそうです」
「事故なら改札を止める」
「止めてません。駅員が止めようとしてますけど、配信者と見物人の方が多いです」
画面の一つで、若い男が自撮り棒を掲げて笑っていた。
「仁川駅限定クエスト来た! 先着入場っぽい! 今入ったら称号もらえるかも!」
その後ろから、スマートフォンを持った人々が改札を押し流すように進む。警備員が叫んでいる。だが騒ぎを止めるには声が小さすぎた。ゲームの画面で育った期待は、現実の危険を簡単に塗り潰していた。
ユチャンは目を細めた。ラケイアは扉を開けただけではない。人間が自分から入ってくる理由を、最初から用意していた。
「出るぞ」
「今からですか」
ソアの声が硬くなる。恐怖ではなく、準備前に走り出すことへの反発だった。
「政府が誤認している。ネオヘイルは切り離す。駅員だけでは止められない」
「でも、レベルゼロの名前で行ったら終わりです」
「だから名前は持っていかない」
ユチャンは一階へ上がり、棚の奥から作業用ベストを引き出した。胸元には安っぽい刺繍でレベルゼロのロゴが入っている。彼は裁ちばさみで糸を切り、剥がした跡を汚れた反射テープで覆った。
「民間救助支援。災害現場の手伝い。誰に聞かれてもそれだけだ」
救急バッグには包帯、止血帯、携帯用ライト、薄い手袋、簡易マスクを詰める。正式な装備ではない。だが何も持たない野次馬と、手ぶらのハンター志望者よりはましだった。
テジュンがノートパソコンを薄いケースへ入れた。
「駅構内図、最新版を落全部しました。地下二階のプラットフォームと連絡通路、非常階段の位置を同期します。ただし、内部で構造が変わったら地図は信用できません」
「変わる前提で見ろ」
「はい」
ソアは自分のパーカーの袖口をぎゅっと握っていた。そこに熱はなかった。けれど視線はナリへ向いている。
「ナリさんは残ってください」
「どうしてですか」
「どうしてって、さっきブルーストームから出てきたばかりですよ。顔も名前も出てる。今、駅なんかで映ったら、もっと追われます」
「それは分かります」
ナリは紙コップを机に置いた。手首の赤い跡はまだ消えていない。顔色も悪い。だが声は、地下から出た直後より少しだけ芯を取り戻していた。
「でも、私の映像で人が動きました。政府も、保護者も、配信者も。良い方にも悪い方にも、波紋は広がっています」
「だからって責任取るみたいに行く必要、ないです」
「責任というより、結果です。私が名前を出したなら、そのあとに起きることも見ないふりはできません」
ソアの眉がきつく寄った。
「倒れたらどうするんですか」
「その時は、あなたが怒ってください」
「今も怒ってます」
「じゃあ、あとで追加でお願いします」
冗談めかした返しだったが、目は笑っていなかった。ユチャンは二人の間に入らない。止める理由はあった。連れていく理由もあった。
仁川駅のような公共空間で人間の恐怖を餌にするダンジョンなら、負傷より先にパニックが広がる。ナリの治癒の光は傷を塞ぐだけではない。痛みと呼吸を少し整える。それは、戦闘力より価値がある場面がある。
「ナリ」
「はい」
「中で無理に治そうとするな。痛みを抜く。呼吸を戻す。立てる人間だけ動かす」
「分かりました」
「倒れそうになったら、ソアが引きずってでも出す」
「そこは優しく言ってほしかったです」
「現場で優しさは遅い」
ソアは不満を飲み込み、救急バッグを一つ肩にかけた。
「分かりました。でもナリさんが倒れたら、私が止めますから」
「お願いします」
テジュンが画面を見たまま言った。
「仁川駅方面、地下鉄は一部停止。でも地上交通はまだ動いてます。タクシーなら二十分台。配信者の流入が増えています」
「二十分もあれば餌場になる」
ユチャンはベストを羽織った。胸のロゴを剥がした跡が、逆に粗い現場感を作っている。彼は右目の紋様を沈め、『隠された欺瞞』を薄くかけた。彼らの印象は、英雄でも不審者でもなく、焦って駆けつけた民間支援者へ一段ずれる。
仁川駅へ近づくほど、街の音は歪んでいった。サイレン、クラクション、怒号、笑い声。駅前の広場には警察車両が入り始めていたが、規制線はまだ完成していない。配信者たちはその隙間を探し、見物人は誰かが入れば自分も行けると思い込んで押し寄せる。
「下がってください! 地下へ入らないでください!」
駅員の声は、スマートフォンの通知音にかき消された。電光掲示板には本来の列車案内と、灰色の崩れた文字が交互に点滅している。ネオヘイルのロゴはない。だが人々は勝手に結びつけていた。
「これ、公式が隠しイベントにしてるやつだろ」
「入場制限来る前に行こう」
「動画撮れば伸びるぞ」
テジュンが小さく舌打ちした。
「全員、危険認識がゼロです」
「ゼロじゃない。期待で上書きされている」
ユチャンは改札横の駅員へ身分証を見せず、救急バッグを先に見せた。正規の証明を求める余裕は相手にもない。駅員は負傷者の有無を確認するように顔を歪め、地下へ向かう階段を指した。
「中で何人か倒れたって通報が……でも、構内カメラが白くなって見えません」
「救急隊が来るまで、上へ出せる人間を上げます」
「あなたたちは」
「民間支援です」
それ以上は聞かれなかった。聞く時間がなかった。
四人は地下へ下りた。階段の途中で空気が変わる。湿った鉄の匂いに、血の臭いが混じった。スマートフォンの電波表示が揺れ、照明は一段ごとに白から灰色へ沈んでいく。
地下二階のプラットフォームへ足を踏み入れた瞬間、駅全体が折れた。
壁が崩れたわけではない。同じホームが、薄い紙を重ねたように三枚ずれて見えた。こちら側の柱の向こうに、別の柱が半透明に立ち、そのさらに奥で、同じベンチが血で濡れていた。線路は一つのはずなのに、遠近が狂い、どの方向へ続いているのか分からない。
「……何これ」
ソアの声が低く落ちた。
灰色の霧が足元から湧き、くるぶしを舐める。電車の到着メロディが、音程を外して引き延ばされた。停車しているはずの列車の扉は、金属ごとねじれていた。窓の向こうに人影が詰まっている。
次の瞬間、扉が内側から破裂するように開いた。
血まみれの乗客たちがあふれ出した。肩を押さえる男、顔に切り傷を負った学生、靴を片方失くした女性。誰も状況を理解していない。悲鳴が霧に触れた途端、糸のように上へ吸われていく。
ナリが一歩前へ出た。
「座らないで! 歩ける人は壁側へ。倒れている人を踏まないでください」
その声に反応した数人が、ようやく足元を見た。ソアは手を伸ばしかけ、すぐに炎を出さずに拳を閉じる。テジュンは柱番号を見比べ、現実の構内図と霧の中の位置を重ねようとしていた。
ユチャンだけは、ホームの奥を見ていた。
改札からまた人が流れ込んでくる。さっきまで外で笑っていた若者たちだ。誰かが血の臭いに気づいて足を止めても、後ろの人間が押す。限定クエスト、先着、配信映え。薄っぺらい言葉が、現実の悲鳴より強く背中を押していた。
ユチャンは一度、目を閉じた。
ラケイアは剣を振らない。扉を開け、数字を光らせ、人間に自分から入らせる。そして中に入った数だけ、恐怖は増える。
彼が目を開けた時、霧の奥の電光掲示板が静かに切り替わった。列車遅延でも、避難案内でもない。灰色の文字が、流入する人々の頭上で冷たく瞬いた。
【入場個体数、増加】
【餌場拡張を開始】
ユチャンの喉の奥でコアの欠片が脈打つ。
入ってくる人間が増えるほど、ボスの餌も増えるだけだった。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
25話 恐怖数値公開の次段階
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