入ってくる人間が増えるほど、ボスの餌も増える。
ユチャンはその結論を飲み込み、すぐに右目の奥へ意識を沈めた。灰色の紋様が薄く回り、彼ら四人の頭上にだけ見えていた不自然なステータスの縁が、曇った標識へ変わっていく。
【消防補助人員】
【避難誘導支援】
【応急搬送補助】
安っぽい肩書きだった。だが血と霧で壊れたホームにいる人間が、説明なしに受け入れられる形でもあった。
「聞こえる人は俺を見るな。出口を見ろ。右の壁に手をついて、足を止めるな」
ユチャンは声を張り上げすぎなかった。怒鳴れば恐怖に混ざる。短く、平らに、指示だけを置いた。
倒れた男がユチャンの足首を掴んだ。
「な、何が起きて……電車が、三つに……」
「話すな。歩けるか」
「足が」
「足首は動く。痛いだけだ。壁側へ行け」
ナリがすぐに屈み、男の膝に手を添えた。淡い光が一瞬だけ指の間に滲む。傷を塞ぐほどではない。痛みの尖りを削り、呼吸を戻す程度だった。
「息を吸って。はい、吐いて。立てます。隣の方、肩を貸してください」
彼女の声は柔らかいのに、逃げ道を迷わせなかった。男は呻きながら立ち上がり、壁側へよろめいた。
ソアはねじれた列車扉の前で、拳を握ったまま立っていた。中にまだ人がいる。だが扉ごと吹き飛ばせば、熱も衝撃も恐怖も広がる。
「ソア。蝶番だけだ」
「分かってます」
彼女は唇を噛み、右手の人差し指を扉の横へ置いた。炎は見えない。ただ、金属の一点だけが赤く濡れたように光った。ジュッ、と短い音がして、上の蝶番が溶ける。続いて下。扉は爆ぜず、支えを失った重さだけで傾いた。
「押さないで! 順番に出てください!」
ソアが肩で扉を支えながら叫ぶ。中から制服姿の学生が二人、年配の女性を抱えて降りてきた。ソアの指先は白くなっていたが、炎はまだ外へ漏れていない。
テジュンは柱の影に膝をつき、ノートパソコンを開いていた。画面には仁川駅の構内図と、霧の中で実測した柱番号が重なっている。だが線は合わない。現実の階段はそこにない。あるはずのない階段が、十二メートル先に半透明で二つ重なっている。
「テジュン」
「現実の三番階段は死んでます。そこに見える階段は、見た目だけです。踏んだ人の位置ログが戻ってません」
「使える階段は」
「北側の非常階段。ただし今はホーム中央の柱列に重なってます。行くなら、線路側じゃなく売店跡を迂回。七番柱、四番ベンチ、広告板の順に触って進むと、現実側の座標に戻ります」
「臨時動線にしろ」
「もう作ってます」
テジュンは近くの広告板を引きはがし、裏面に太いマジックで矢印を書いた。手元は震えていない。だが声は低く、怒りを押し殺していた。
「壁側の人! この矢印の順に進んでください。柱番号を見ないで、床の黄色い線も信じないでください。僕の置く板だけ見て」
「床も駄目なのか」
「三枚重なってます。黄色い線のうち二本は嘘です」
ユチャンは頷き、近くの若者からスマートフォンを取り上げた。配信中の画面がまだ生きている。コメントは、やばい、本物、もっと奥へ、という文字で埋まっていた。
「撮るな」
「返せよ! 今これ、十万人見て——」
「その十万人が次に降りてくる」
若者の顔から血の気が引いた。ユチャンはスマートフォンを床へ叩きつけず、電源だけを落として胸元へ押し返した。
「生きて出たら好きに話せ。今は歩け」
若者は反論しかけたが、背後で列車内の誰かが悲鳴を上げた瞬間、口を閉じた。
その悲鳴は、おかしかった。
音は空気に広がらなかった。細い糸のように形を持ち、霧の中を上へ引き伸ばされていく。天井板の継ぎ目に触れた途端、赤黒く光って消えた。
ユチャンの背筋に、牧場の収穫槽で嗅いだ冷たい臭いがよみがえる。死ぬ直前の叫びが、管を通って容器へ集められていく音。ここに管は見えない。だが仕組みは同じだった。
『戦闘判定じゃない』
ユチャンはホーム全体を見渡した。モンスターは出ていない。影は襲ってこない。列車は閉じ込め、霧は道をずらし、電光掲示板は人を誘う。直接殺すためではない。恐怖を長く、濃く、互いに伝染させるための構造だった。
「ボスはどこですか」
ソアが低く聞く。扉を支える肩が震えていた。疲労ではない。何かを燃やして壊したい衝動を、無理やり一点に畳んでいる震えだった。
「上だ」
「天井?」
「悲鳴を食ってる。まだ戦うな」
ソアの目が一瞬、天井へ向いた。灰色の板の奥で、何か大きなものが呼吸したように霧が沈んだ。
「じゃあ、どうするんですか」
「餌を減らす。まず人を出す」
答えた直後、ナリの声が途切れた。
ユチャンが振り返ると、階段近くで小さな男の子が座り込んでいた。五、六歳くらい。額に血はないが、目が開いたまま焦点を失っている。母親らしき女性が泣きながら揺さぶり、周囲の大人たちがその姿を見て足を止めていた。
足が止まる。視線が集まる。恐怖が一か所で膨らむ。
ナリは迷わず男の子を抱き上げた。
「お名前、言えますか」
「……」
「言えなくても大丈夫です。私の息に合わせて。吸って、吐いて。吸って、吐いて」
男の子の胸は早く上下していた。過呼吸になりかけている。ナリは自分の呼吸をわざと大きくし、子どもの背をゆっくり叩いた。治癒の光は使わない。今必要なのは痛みではなく、恐怖の速度を落とすことだった。
「お母さんも一緒に。お子さんを見ないで、私の肩を見てください」
「で、でも、この子が」
「見続けると怖さが移ります。今は肩です」
母親は泣きながらも、ナリの肩を見た。男の子の息が少しだけ伸びる。周囲の大人も、つられるように息を吐いた。
その瞬間、天井へ吸い上げられていた悲鳴の糸が、細くなった。
ユチャンはそれを見逃さなかった。恐怖値は個人だけでなく、周囲へ連鎖する。ナリが落としたのは一人の呼吸ではない。小さな渦そのものだった。
「ナリ、その調子で群れを割れ。泣いている人間を中心に固めるな」
「分かりました。怖がっている人を、怖がっていない人の隣に置きます」
「違う。怖がっているが、動ける人の隣だ」
「はい」
ナリはすぐに理解した。恐怖を消せないなら、止まる恐怖と動ける恐怖を分ける。動ける恐怖なら、まだ出口へ運べる。
テジュンが矢印板を三枚並べた。
「第一動線、開けます。人数は二十人まで。それ以上は階段上で詰まります」
「歩ける者からだ。重傷者を先に出すな」
「言い方」
「担げない重傷者を先に出せば全員止まる」
ユチャンは自分でも冷たいと思った。だがナリは反論しなかった。彼女は重傷者の手を握り、目線を合わせる。
「少し待ってください。置いていくんじゃありません。通れる道を先に作ります」
その一言で、泣き叫びかけていた男性が唇を噛んだ。恐怖は消えない。だが見捨てられたという絶望には変わらなかった。
第一グループが動き始めた。テジュンの板をたどり、ソアが開いた扉の横を抜け、ナリの呼吸に合わせて、壁沿いへ進む。ユチャンは列の先頭ではなく、少し外れた位置に立った。全員から見えるが、誰の邪魔にもならない場所。
その時、ホーム奥の電光掲示板が一斉に消えた。
蛍光灯も一拍遅れて落ちる。霧だけがぼんやり光る。次の瞬間、すべての掲示板が赤く点灯した。
【恐怖数値、公開】
【個体別反応を表示】
嫌な音が頭上を走った。ホームにいる生存者全員の頭上へ、赤い数字が浮かび上がる。
12。
37。
64。
88。
男の子の頭上には、94。
母親がそれを見た。周囲の人間も見た。誰かが息を呑み、誰かが一歩離れた。
「な、何だよあれ」
「あの子、やばいんじゃないの」
「近づくな、数字が高い人から何か起きるんだろ!」
数字を見た瞬間、恐怖は隠れ場所を失った。人間は互いの顔ではなく、頭上の赤い値を見るようになった。低い者は高い者を避け、高い者は自分が見られていることに気づいてさらに震える。
ユチャンの右目が焼けるように痛んだ。
天井の奥で、何かが笑った気配がした。恐怖を食うだけではない。今度は人間同士に、餌を増やさせるつもりだった。
赤い掲示板の中央に、さらに大きな文字が浮かぶ。
【最高恐怖個体を基準に、次段階へ移行】
男の子の数字が、95へ上がった。
その瞬間、最初に叫んだ男の頭上で数値が100へ跳ねた。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
26話 恐怖の囮になるユチャン
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