【第一関門:恐怖反応測定を開始】
文字が浮かんだ瞬間、ユチャンは心拍を一つ遅らせた。恐怖を消すのではない。消しすぎれば不自然になる。灰色の塔が欲しがっているのは、強者の豪胆さでも、弱者の絶叫でもなかった。反応の形だ。
門の前の灰が盛り上がり、人型を作った。首から上は兜のように閉じ、腕には刃こぼれ一つない長剣が握られている。姿だけなら、どこにでもあるチュートリアルの門番だった。戦闘力を測り、一定時間耐えれば次へ進める。そう思わせるための、安い外皮。
だがユチャンの右目には、門番の背後に走る細い管が見えていた。灰色の目から壁へ、壁から床下へ、床下から門の奥へ。恐怖反応の波形を吸い上げ、次階層の設定へ送る収穫回路。
『牧場の戦術資料と同じだ』
ラケイア兵は、捕虜に剣を向ける前から恐怖の濃度を測る。誰が逃げ、誰が怒り、誰が命乞いをし、誰が仲間を売るか。反応に合わせて檻を変えれば、抵抗は効率よく折れる。あの資料を読まされた時、ユチャンは家畜の管理法を覚えさせられているのだと思った。
今は違う。家畜が柵の構造を覚えていた。
門番が一歩踏み出した。石床が鳴る。長剣が肩の高さで止まり、次の瞬間、銀色の線が横へ走った。
ユチャンは避けた。
速すぎず、遅すぎず。
膝を崩し、足をもつれさせ、背中から床へ落ちるように身をひねった。剣先がジャンパーの袖を裂き、冷たい空気が皮膚を撫でる。彼は喉を詰まらせ、息を乱した。
「っ、くそ……!」
声も震わせた。胸の奥から本物の恐怖を引きずり出す必要はない。体の表面だけでいい。指先を震わせ、目線を泳がせ、呼吸を浅くする。記憶牧場で何度も見た新入りの反応を、自分の身体に着せる。
【恐怖反応:上昇】
【戦闘適性:低】
【回避動作:不安定】
表示を見て、ユチャンは内心で冷たく息を吐いた。食いついた。
門番の二撃目が落ちる。縦斬り。彼は後退しようとして踵を滑らせるふりをし、半拍遅れて右へ転がった。剣が床を砕き、石片が頬を切る。痛みはあった。だが十年の死に比べれば、ただの合図だった。
門番の足運びが変わる。一歩、沈み込み、右足を軸に三拍目で踏み替える。人間の剣術ではない。ラケイア補助兵の標準歩行間隔。重力差のある戦場でも関節負荷を一定に保つため、足首の角度だけは必ず同じ癖を残す。
ユチャンはそれを、泥の戦場で何百回も見た。
『三拍目』
門番の剣が上がる。ユチャンは怯えたように両手を突き出し、助けを求める初心者の顔を作った。無数の灰色の目がその表情を覗き込む。監視の焦点が顔と心拍へ寄る。
その瞬間、彼は床を蹴った。
倒れ込むような低い姿勢のまま、左手で砕けた石片を拾い、門番の右足首へ叩き込む。力はほとんど入れない。必要なのは衝撃ではなく角度だった。三拍目の踏み替えで関節の隙間が開く刹那、石片の尖った端が灰色の腱のような部位へ潜り込む。
乾いた音が鳴った。
門番の膝がわずかに折れる。剣の軌道が一寸だけ落ちた。ユチャンはその下をくぐり、今度は左足首へ踵を打ち込んだ。戦士の攻撃ではない。転んだ者が暴れて偶然当てたような、みっともない一撃。
だが関節は正確に外れた。
門番の巨体が傾き、剣先が床へ刺さる。ユチャンは慌てて後ずさる演技を続け、背中を石柱にぶつけた。わざと肩を丸め、息を荒げる。
【敵性処理:未達】
【戦闘才能:不足】
【恐怖反応:初級生存型】
【次階層難易度補正:低】
無数の灰色の目が、わずかに瞬いた。監視ルーンの視線が緩む。獲物を見失ったのではない。価値が低いと判断したのだ。
ユチャンは視界の端で床を探った。門の右下、灰の溜まり場。記憶どおりなら排水口がある。血液、汗、破片、恐怖反応の残滓を下層へ流すための管理口。戦闘試験場なら不要な構造。収穫装置なら必ずある。
門番が片足を引きずりながら剣を抜いた。次の攻撃まで二秒。
ユチャンは顔を引きつらせたまま横へ這った。惨めに、必死に、逃げ場を探す初心者のように。灰色の目はそれを追ったが、もう深くは見ていなかった。分類は終わりかけている。
排水口の鉄格子は、子どもの肩幅ほどしかなかった。普通の成人男性なら通れない。だが今のユチャンは痩せていた。配達で削れ、牧場から戻ったばかりのように骨ばった身体。彼は格子の左下を探り、指先で小さな留め具を押した。
硬い。
門番の足音が近づく。
ユチャンは爪が剥がれそうになるほど押し込んだ。ラケイアの管理通路は、戦闘員ではなく清掃奴隷が扱う。力ではなく手順。押して、半回転、引く。
かちり、と鳴った。
格子が数センチ浮く。ユチャンはそこへ身体をねじ込んだ。肩が石に擦れ、裂けた袖口に血が滲む。門番の剣が背後から振り下ろされ、排水口の縁を砕いた。石片がうなじを叩く。
「はっ、はっ……!」
息切れの演技はもう半分本物だった。狭い暗渠へ滑り込むと、彼は格子を戻さなかった。戻せば作為が残る。逃げ込んだだけの無能な初心者は、そんな余裕を見せない。
背後で門番が停止した。
【第一関門:測定終了】
【対象評価:戦闘才能不足】
【推奨処理:低難度誘導】
冷たい文字が暗闇の中まで追ってきた。ユチャンは笑わなかった。低難度誘導。それこそが欲しかった判定だった。
暗渠は膝をついて進むほど低かった。壁面には薄い粘液のような灰が張りつき、時折、細い文字が虫の脚のように走る。上の広間とは違い、ここに観客用の装飾はない。むき出しの回路、排出管、管理者だけが読む標識。
彼は肘で進みながら、喉の奥の欠片へ意識を向けた。
【最短経路:前方三十七メートル】
【核接続路候補:開放前】
【逸脱行動:非推奨】
『急かすな』
コアの欠片は言葉を返さず、警告だけを脈打たせた。最短ルートを選べ。核を壊せ。登録を偽れ。確かに時間はない。外では無数の人間が公式チュートリアルへ入り始めているはずだった。
それでも、ユチャンは通路の分岐で止まった。
右壁に、黒ずんだ記録石が埋め込まれていた。大きさは手のひらほど。表面には戦闘パターン分類の見出しがあり、その下に細かいラケイア文字が刻まれている。灰色の塔へ入った者の反応を保存する石だ。
触れれば読まれる。前のノートにもそう書いた。だから触らない。
彼は床から細い金属片を拾い、石の端だけを削った。表面ではなく、固定枠との境目。清掃奴隷が破損記録を確認する時の手順だった。直接接続せず、剥がれた粉に残る文字だけを読む。
削り粉が暗い床へ落ちた。右目の紋様がじり、と熱を持つ。
【恐怖類型:逃走】
【恐怖類型:反撃】
【欲望類型:昇格】
【欲望類型:承認】
【欲望類型:復讐】
【忠誠誘導適性:条件付き】
【裏切り誘導適性:高】
ユチャンの指が止まった。
戦闘パターンだけではない。恐怖反応だけでもない。人間が何を欲しがり、どこで自尊心を傷つけられ、何を差し出されれば仲間を売るか。その分類が、試験場の第一階層からすでに並んでいた。
牧場の縮小版ではない。
これは地球用に調整された、牧場の入口だった。
『ネオヘイルのチュートリアルに混ぜるには、十分すぎる』
怒りが喉まで上がった。だがユチャンは飲み込んだ。ここで怒れば、三階の処刑場幻覚が喜ぶだけだ。復讐心は餌になる。ラケイアは復讐する人間を強い職業へ誘導し、最後にはその怒りごと所有する。
彼は削り粉を指で潰し、もう一行だけ読んだ。
【適性資料不足時:本人記憶を補助データとして収集】
その瞬間、通路の空気が変わった。
音はなかった。警報もない。だが背後の暗渠が、灰色の壁で塞がれていた。前方も同じだった。石が動いたのではない。最初からそこにあった壁が、今になって表示されたように、道そのものが消えていた。
ユチャンは身を低くした。
【逸脱行動を確認】
【記録石損傷を確認】
【対象評価を再計算中】
喉の奥の欠片が激しく鳴った。今度は警告だった。右目の紋様が熱で滲み、視界の端に赤い線が走る。
【補助資料として深層記憶を参照】
【適性分類:更新開始】
「やめろ」
短く吐いた声は、狭い通路で妙に平たく響いた。ユチャンは金属片を握り直し、壁の継ぎ目を探した。ない。排水口も、固定具も、清掃奴隷用の逃げ道も消えている。
次の文字が浮かんだ時、彼の背筋に、牧場で十年間刻まれ続けたあの生々しい寒気が走った。数日前、ノートの紙の奥に観測番号を滲ませた、あの冷たい視線の気配がそこにあった。
【記憶牧場記録への接続を開始】
【対象:チョン・ユチャン】
【死亡反復履歴を適性資料としてアップロード中】
暗い通路の壁に、赤い雨の戦場が滲み始めた。雪原、砂漠、城壁、処刑台。彼が隠してきた本物の記憶が、灰色の塔の内側へ、一枚ずつ引きずり出されていった。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
6話 処刑場幻覚と黒い監視者
次の話