黒い監視者が跳んだ瞬間、ユチャンは横へ逃げなかった。足裏で石床を蹴り、むしろ一歩だけ前へ出た。影の細い指が喉を狙って伸びる直前、血に濡れた手から記録石の欠片が弾かれる。
欠片は黒い目の前で回転し、割れ目から灰色の光を漏らした。二階の収穫回路から剥がした、まだ死んでいない残骸。恐怖波形、復讐誘導、記憶参照。そこに残った汚れた信号が、喉の奥のコアの欠片の脈動に触れて一瞬だけ形を変えた。
【コア汚染信号を検出】
【対象照合中】
黒い監視者の腕が止まった。指先はユチャンの首筋から紙一枚の距離で震え、周囲の文字を黒く削っていた。
「やはり単純だな」
ユチャンは囁き、身を沈めた。欠片が本物のコアではないことは、すぐに見抜かれる。だが監視者は戦闘用ではない。匂いを追い、異常を識別し、削除手順へ渡す個体だ。識別対象が二つに割れた瞬間、判定は再計算に入る。
【対象:チョン・ユチャン】
【正常プレイヤー判定:否認】
【コア汚染個体判定:進行】
【削除手順を開始】
黒い文字が壁を伝って走った。削除。殺害ではなく削除。記録から消し、存在処理をなかったことにする言葉だった。ラケイアが家畜に使う言葉の中で、ユチャンが最も嫌いな種類だった。
監視者の目が再び彼を捕まえる前に、ユチャンは管理通路へ飛び込んだ。
通路は狭く、低い天井には灰色の管が剥き出しになっていた。床は人間の歩幅に合わせていない。長い腕を持つ管理個体が這うための構造だ。普通に走れば膝を砕く高さだ。だがユチャンはそこを知っていた。牧場の処理棟で、清掃奴隷として何度も通らされた通路と同じ規格だった。
右足を斜めに置き、左肩を壁に擦らせ、管の継ぎ目を越える。曲がり角では一瞬も速度を落とさず、手首で壁を押して身体を折る。背後で黒い監視者が動き出した気配がした。音はない。ただ、通路の文字が消えていく。存在を塗り潰すような沈黙が近づいていた。
【削除対象の位置補正中】
【偽汚染信号:解析中】
【残り再計算時間:三・二秒】
『三秒あれば十分だ』
ユチャンは歯を食いしばった。若い身体はまだ弱い。肺は焼け、膝は震え、裂けた袖から流れた血が掌を滑らせる。だが死んでいない身体は、それだけで速かった。十年の戦場で覚えた動きを、配達員だった痩せた肉体に無理やり押し込む。
前方に、丸い隔壁が現れた。
表面には門でも鍵でもなく、存在登録前室の標識が刻まれている。正式なプレイヤーなら、職業説明を受け、適性補正を得てからここへ来る。だがユチャンは違う。恐怖測定を汚し、回路を断ち、監視者を騙して、登録より先に核へ届こうとしている。
隔壁の中央に、小さな灰色の窪みがあった。管理者用の緊急解放点。
「開け」
彼はそこへ親指を押し当てた。皮膚が焼けるように痛み、喉の奥の欠片が嫌悪のように震える。人間の指では足りない。管理者権限の断片を通さなければならない。ユチャンは右目の紋様に意識を集め、欠片へ短く命じた。
「今だけ従え」
【断片権限:不完全】
【補助分類:破損管理者】
【緊急解放を承認】
隔壁が開いた。
冷たい光があふれ、ユチャンは転がるように中へ入った。背後で黒い指が扉の縁を掠める。影の先端が空間を裂いたが、隔壁はすぐ閉じた。わずかな遅れ。わずかな勝ちだった。
そこは塔の核室だった。
広さはネットカフェの一角ほどしかない。だが天井も壁も床も、距離感を狂わせる灰色の幾何学で覆われ、中心には心臓のように脈打つ核が埋め込まれていた。まだ誰にも触れられていない、最初のチュートリアル核。地球の未覚醒者たちを登録し、分類し、二年後の侵攻設計へ流し込むための入口。
核の周囲に、半透明のウィンドウが三枚浮かんだ。
【存在登録を開始】
【登録名を入力してください】
【職業を入力してください】
【初期等級を入力してください】
カーソルがゆっくり点滅していた。人間のゲーム画面に似せた、ラケイアの首輪だった。
ユチャンは深く息を吸った。ここで本名を入れれば終わりだ。チョン・ユチャン。回帰者。コア欠片保有者。記憶牧場から戻った異常個体。そのすべてが地球側覚醒者登録網に刻まれ、ラケイア回収網へ送られる。
だが嘘を入れるだけでも足りない。嘘は整合性を持っていなければならない。強すぎる偽名は疑われる。整いすぎた履歴は追跡される。見逃されるためには、誰も拾わないほど価値のない記録でなければならなかった。
ユチャンは指を上げた。
登録名の欄に、記憶牧場で焼き印の代わりに呼ばれた廃棄予定識別番号を入力する。意味のない数字と欠損記号の列。人間の名前ではない。ラケイアにとっても、回収価値なしと分類される屑札。
【登録名:D-78-廃棄予定319】
指先が一瞬止まった。
その番号を打つことは、自分をもう一度家畜として差し出すことに似ていた。処刑台で「俺は廃棄予定品だ」と吐いた時の血の味が、舌の奥へ戻る。だがあの言葉は屈服ではなかった。相手の台帳に載った侮蔑を、そのまま武器に変えた宣言だった。
ユチャンは次の欄へ進んだ。
【職業を入力してください】
候補がいくつも浮かんだ。処刑者。復讐騎士。記憶狩り。二階で誘導された強化職業の名が、まだ薄く残っている。選べば、今すぐ力は得られるかもしれない。黒い監視者と正面から戦うだけの力も。
彼は迷わなかった。
【職業:生産補助】
最下級。戦闘価値なし。素材運搬、修理補助、低等級採集。ランキングの誰も見向きもしない職業。強者を探す監視網から最も遠く、戦場の中心へ置かれにくい、ありふれた使い捨ての札。
【初期等級を入力してください】
「F」
短く打ち込んだ。
ウィンドウが淡く震えた。核の脈動が乱れる。虚偽の名前、虚偽の職業、虚偽の等級。だがどれも完全な嘘ではない。廃棄予定品だったことも、生き残るために清掃や修理をしてきたことも、今の身体が低く見積もられることも事実だった。真実を薄く混ぜた嘘ほど、監視網は弾きにくい。
背後の隔壁が軋んだ。
黒い監視者が外側から削除手順を叩きつけている。扉の縁が黒く変色し、刻まれた文字が一つずつ消えていく。
【偽汚染信号:無効化】
【削除対象を再捕捉】
【核室隔壁を侵食中】
時間がない。
ユチャンは登録完了に指を伸ばした。指先が震えていた。恐怖の演技ではない。本物だった。これから始めるのは、生き残るための小さな嘘ではなかった。十年分の死、盗んだコア、覚えてきた侵攻式、そのすべてを使って、世界の登録簿そのものを騙す最初の欺瞞だった。
「俺は、おまえらの名前では生きない」
登録ボタンに触れた。
【存在登録を実行】
【固有情報と入力情報に不一致】
【整合性破壊を確認】
【監視網補助記録へ仮登録】
核の表面が割れ、内側から黒い欠片のようなものが浮かんだ。ユチャンの喉の奥にある管理者コアの欠片が、それに呼応して熱を放つ。二つの断片が、見えない糸でつながる。
次の瞬間、ウィンドウの色が変わった。
灰色ではない。記憶牧場の処刑台で見た、管理者権限の深層にだけ現れる黒に近い青。存在登録の画面が沈み、さらに奥の階層が開いた。
【偽装登録:成立条件不足】
【核室深層権限を一時開放】
【対価を指定】
ユチャンの背筋に冷たいものが走った。
対価。その言葉は知っていた。ラケイアの権限は、ただでは開かない。血、寿命、感情、記憶。奪えるものなら何でも通貨にする。灰色の塔の核を壊すには何かを支払う。ノートにもそう書いた。重要記憶は渡さない、と。
だが画面に表示された条件は、彼の予想より冷たかった。
【対価候補:記憶領域の永久封印】
【封印後の復元不可】
【対象選択を開始】
核室の空気が重く沈んだ。隔壁の向こうで、黒い監視者の目が扉の割れ目から覗いた。登録は仮のまま。核はまだ砕けていない。ここで拒めば、嘘は完成しない。
ユチャンの視界に、いくつもの記憶の断片が浮かんだ。新林洞のワンルームで初めて目覚めた朝。配達員時代、雨の中で届けた冷めた弁当。牧場で隣に倒れた少年の顔。名前を忘れたはずの女の笑い声。城壁を押さえた老人の折れた指。
どれを消しても、彼は少しずつ自分でなくなる。
それでも、背後の扉は黒く裂けていた。監視者の声が、初めて削除命令ではなく、確信として核室に落ちた。
「コア汚染個体。存在登録を停止」
ユチャンは震える指を握り込み、浮かぶ記憶の中から一つを選ぼうとした。
その時、最奥のウィンドウに新しい一行が浮かんだ。
【推奨封印対象:帰還前、最後に聞いた声】
彼の呼吸が止まった。自分でも忘れていたはずの記憶が、核の奥からゆっくりと形を持ち始めていた。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
8話 核を砕く代償
次の話