核の奥から浮かび上がった声は、言葉になる直前で何度も形を変えた。
ユチャンはそれを聞かないよう、奥歯を噛んだ。帰還前、最後に聞いた声。ラケイアが推奨するなら、それは最も深く刺さる場所だ。奪われた後で、何を失ったのかさえ分からなくなる種類の対価だった。
【推奨封印対象を承認しますか】
「却下だ」
ユチャンは即答した。隔壁の裂け目から、黒い監視者の細い指がさらに入り込む。核室の文字が指先から順に消えていき、存在登録の仮記録が軋んだ。
喉の奥のコアの欠片が熱を持つ。拒否するな、と命じるような痛みだった。ユチャンはその痛みを飲み込み、深層権限の黒青い画面へ自分から命令文を打ち込んだ。
【対価条件を再構成】
【保護対象を指定】
保護対象の欄に、彼は迷わず刻んだ。記憶牧場で見たラケイアの弱点。侵攻ルート。都市ごとの優先順位。恐怖収穫装置の詰まりやすい規格。管理者交代の周期。
それらは絶対に渡さない。ここで一つでも封印されれば、二年後に救えるはずの人間が死ぬ。
「そこは売らない」
核の脈動が不快そうに跳ねた。
【保護対象が多すぎます】
【対価不足】
【偽装登録の完成不可】
「代わりを出す」
ユチャンは手を伸ばし、浮かぶ記憶の束から軽いものを引き剥がした。
雨の日、配達先のマンションでエレベーターを待っていた数分。届けたチキンの箱から漏れた油の匂。アプリの評価欄に星一つを付けられ、何も言い返せず画面を閉じた夜。コンビニの前で温めたおにぎりを立ったまま食べた朝。
大事ではなかった、と言えば嘘になる。だがそれらは未来の侵攻順序とは違う。生きるために切れる端だった。
記憶が一つずつ灰色の粒になって消えた。胸の奥に妙な空白ができた。誰に届けたのか、何を食べたのか、どの雨だったのか。輪郭だけが削られ、跡に冷たい穴が残った。
【対価換算:不足】
「まだある」
ユチャンは息を止めた。次に浮かんだのは、牧場の戦場で共に倒れた者たちの顔だった。少年の目元。砂漠の女の口角。老人の額に刻まれていた深い皺。名前の一部はもう曖昧だった。それでも、顔の断片だけは残っていた。
彼はそのすべてを差し出すのではなく、手で掴めるぎりぎりの端だけを選んだ。目の色。笑った時の頬。泥にまみれた髪の向き。全体ではない。だが一度削れば、もう同じ顔として思い出せない。
指先が震えた。
『許せ、とは言わない』
ユチャンは声にしなかった。彼らの記憶を守るために核を砕く。そのために、彼らの顔を少しずつ失う。矛盾している。だがここで死ねば、顔も名前も、地球の未来ごとラケイアの台帳に飲まれるだけだった。
灰色の粒が舞い、胸の穴がさらに広がった。
【対価換算:成立】
【保護対象:侵攻順序、弱点情報、回帰前戦術記録を封印対象から除外】
【核室管理ロック解除権限を一時付与】
核を囲む床に、三本の灰色の柱がせり上がった。天井まで届く細い柱で、表面には存在登録、監視照合、覚醒通知の文字列が絡みついている。中心の核はその三本に支えられ、心臓のように赤黒く脈打っていた。
隔壁がついに裂けた。
黒い監視者が核室へなだれ込む。光を飲む影が床を這い、長い腕がユチャンの背へ伸びた。
「コア汚染個体。削除を再開」
その声が落ちた瞬間、核室の別の画面が淡く開いた。
【戦闘対象リスト更新】
【登録名:D-78-廃棄予定319】
【職業:生産補助】
【初期等級:F】
【分類:非戦闘、生産補助、核室保守作業中】
【自動攻撃優先度:除外】
黒い監視者の指が、ユチャンの背中の寸前で止まった。戦闘対象ではない。排除すべき侵入者ではなく、核室の保守作業に割り当てられた低等級補助。仮登録の嘘が、ほんの数秒だけ監視者の命令を縛った。
ユチャンは振り返らなかった。
「おまえらの台帳は、本当に便利だな」
彼は一本目の柱へ走った。灰色の柱は堅い石ではなく、命令文を束ねた管だった。管理者ロック解除権限を指先へ流すと、表面の文字が開く。清掃奴隷が詰まった配管を外す手順と同じだ。外から壊さず、内側の結び目をずらす。
「まず一本」
ユチャンが掌を押し込むと、柱の中の文字が逆向きに流れた。軋み、歪み、根元から亀裂が走る。柱が倒れた瞬間、彼の頭の中から雨音が消えた。
どの街の雨だったのか。どの配達バッグを背負っていたのか。思い出そうとしたが、濡れた道路の感触だけが残り、景色は空白に変わっていた。
痛みはなかった。だから余計に気味が悪かった。
黒い監視者が命令の縛りを破ろうと、腕を震わせている。核室の画面が激しく点滅した。
【分類矛盾を検出】
【生産補助個体による核破損行為】
【再照合中】
「遅い」
ユチャンは二本目へ向かった。今度は柱の表面に、監視照合の文字が密に絡みついていた。彼が触れた瞬間、喉の奥の欠片が悲鳴のように熱を吐く。欠片の権限を使えば使うほど、ラケイア側へ匂いが漏れる。
それでも止まれない。
指を深く突き入れ、ロックの中に混ぜた自分の仮登録名を押し込む。D-78-廃棄予定319。廃棄予定品。生産補助。F。価値なし。追跡優先度なし。
二本目の柱が崩れた。
その瞬間、誰かの顔が静かに消えた。
少年だったのか、女だったのか、老人だったのかさえ分からない。ただ、誰かが笑っていたはずの場所に、白い穴だけが残った。ユチャンは一歩ふらつき、すぐに歯を食いしばる。
「……覚えていなくても、借りは残る」
声はかすれていた。
黒い監視者の目が赤く変わった。
【再照合完了】
【核破損行為を確認】
【分類除外を解除】
影の腕が振り下ろされた。ユチャンは身を沈める。肩をかすめた指が、肉ではなく存在の表面を削った。視界の端で自分の仮登録名が一瞬ぼやけ、消えかける。
三本目の柱までは、あと三歩。
彼は転がるように走った。若い身体の限界が悲鳴を上げる。肺が焼け、膝が抜けそうになる。黒い監視者の二撃目が背後から迫った時、ユチャンは振り向かず、床に落ちていた柱の破片を蹴り上げた。
灰色の破片が監視者の目に当たり、ほんの半拍、視線が逸れる。
その半拍で足りた。
三本目の柱に掌を叩きつける。覚醒通知。地球側登録網。最初の成功者を世界へ告げるための柱。ここが残れば、彼の存在は英雄として刻まれる。人類初の覚醒者。最初の攻略者。最初の光。
そんな名前は、ラケイアにもネオヘイルにも餌にしかならない。
「いらない」
ユチャンはコアの欠片の権限を、柱の奥へ逆向きに流した。管理者の命令ではなく、破損した保守作業として。低等級補助の失敗として。価値のない事故として。
三本目が砕けた。
核が裸になった。赤黒い心臓が宙に浮き、脈打つたびに核室の壁が膨らむ。黒い監視者が、今度こそユチャンの首へ手を伸ばす。
ユチャンは逃げなかった。
素手で核を掴んだ。
皮膚が焼け、爪の下から血が噴いた。核は熱いのではない。記憶を直接削る冷たさだった。喉の奥のコアの欠片が引きずり出されそうに震える。ラケイアの権限が、欠片を通じて核へ流れ込もうとした。
ユチャンはその流れを反対にねじった。
「返せとは言わない」
砕けた顔。消えた雨。失った配達の夜。もう戻らないものが胸の奥で空洞になっていく。
「だが、これ以上は持っていくな」
核の内部で命令文が逆流した。存在登録、監視照合、覚醒通知。三つの系統が同時に衝突し、互いを削り合う。黒い監視者の指がユチャンの首に触れた瞬間、核の中心に細い亀裂が入った。
【核破損】
【最初のチュートリアル核の機能停止】
【全接続者より先行した核破壊を確認】
【人類初の覚醒者誕生を告知します】
灰色の塔全体が震えた。遠くで、正式経路の初心者たちがまだ職業説明を受けているはずだった。その上へ、世界最初の告知が走ろうとする。
ユチャンは核を握り潰した。
「黙れ」
亀裂が一気に広がり、赤黒い心臓が粉々に砕けた。核室の壁から光が剥がれ、黒い監視者の腕が途中で止まる。告知文は宙で文字化けし、地球側登録網へ伸びたはずの線が、ねじれて自分自身を噛んだ。
【告知処理中】
【エラー:登録名不整合】
【エラー:職業値矛盾】
【エラー:覚醒者権限と生産補助分類の同時成立不可】
【エラーコード:HIDDEN-LIE-001】
すべての文字が一瞬、真っ白になった。
次に訪れたのは、警報ではなく沈黙だった。黒い監視者の目から光が抜け、核室の床が崩れ始める。ユチャンは血だらけの手を見下ろした。掌の中には、砕けた核の粉と、消えたはずの告知文の欠片が一粒だけ残っていた。
その粒が、彼にしか見えない文字へ変わる。
【隠し権限を生成中】
【対象:D-78-廃棄予定319】
【警告:外部監視網への存在告知に失敗】
【代替処理を開始】
崩壊する核室の底で、ユチャンの右目の灰色の紋様が初めて完全な円を描いた。
そして世界へ届かなかった覚醒通知の代わりに、彼の視界だけへ新しいスキル名が開き始めた。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
9話 隠された欺瞞と灰色の影
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