新しいスキル名が開いた瞬間、崩れた核室の底が消えた。
ユチャンは落下の感覚を覚えた。石床も黒い監視者も砕けた核の粉も、すべてが灰色の線になって上へ流れていく。首に触れていた指の冷たさだけが、最後まで残った。次に耳へ戻ってきたのは、刃の音でも警報でもない。隣席の男がすすったカップ麺の音だった。
「……落ちた?」
誰かが近くで笑った。
ユチャンは二十七番席の椅子に座っていた。モニターにはネオヘイルの起動画面が映り、接続中を示す円が一度だけ回って止まる。右手はマウスの上、左手はキーボードの端に置かれている。掌の皮膚は焼けていない。爪も剥がれていない。だが握り潰した核の冷たさは、骨の奥にまだ残っていた。
周囲の客たちは、自分の職業選択や初期報酬に夢中だった。何人かが「剣士出た」「魔力低すぎ」と騒いでいる。老人の店主は受付の奥でうつらうつらしていた。ユチャンの席を気にしたのは、隣の男だけだった。
「兄さん、今一瞬画面消えたよな。回線死んだ?」
「再接続しただけです」
ユチャンは喉を押さえずに答えた。声が少し掠れていたが、誰も気にしない。戻ってきた。灰色の塔から、現実の韓国へ。
だが終わってはいない。
画面右下に、ネオヘイル公式サーバーの通知欄が開いていた。
【チュートリアル進行中】
【現在のクリア者:なし】
【初期ランキング集計中】
【灰色の塔:該当記録なし】
ユチャンは短く息を吐いた。世界へ告げられるはずだった人類初の覚醒者通知は、外に出ていない。公式記録上、灰色の塔は存在すらしていない。成功だ。
その判定を喜ぶより先に、視界の奥で別のウィンドウが静かに開いた。モニターの光ではない。右目の灰色の紋様から直接流れ込む、ラケイア式の黒青い画面だった。
【隠し報酬を確認】
【エラーコード:HIDDEN-LIE-001を権限化】
【スキル名:隠された欺瞞】
【等級、職業、行動履歴、接続痕跡の表示情報を偽装可能】
【対象:システム、地球側登録網、外部監視者】
【警告:高位監視者には差異値が検出される可能性あり】
文字列を見た瞬間、ユチャンの背筋に冷たいものが走った。
強化スキルではない。火力も防御も上がらない。だがラケイアに奪われた十年を持つ彼にとって、それは剣よりも価値があった。監視される世界で生き残るための、最初の皮だった。
ユチャンは自分のステータスを開いた。
【名前:D-78-廃棄予定319】
【等級:F】
【職業:生産補助】
【体力:9】
【筋力:7】
【敏捷:8】
【精神:測定不能のため低値補正】
ひどい数字だった。ゲームなら初日に捨てられるアカウント。掲示板ならスクリーンショット付きで笑われるステータス。ユチャンはむしろ、それを見て目を細めた。
その下に、普通の人間には見えない二枚目の層が重なっていた。
【内部権限:人類初覚醒者標識】
【核破壊先行記録:成立】
【管理者コア欠片:不完全接続】
【ラケイアコア補助権限:限定開放】
【隠された欺瞞:初期化済み】
上下の情報が同時に存在している。表の自分はF級の生産補助。裏の自分は灰色の塔を砕いた最初の覚醒者で、ラケイアのコアへ細い針を刺した異常個体。普通なら矛盾として弾かれるはずの二重記録が、隠された欺瞞の名の下に噛み合わないまま重なっていた。
『見せる相手ごとに、別の死体を置けるわけか』
ユチャンは画面の反射に映る自分の目を見た。右の虹彩の端にあった小さな灰色の紋様は、今は細い輪になって沈んでいる。目立たない。だが奥では、確かにまだ回っていた。
「静かにしていろ」
彼は唇だけで呟いた。コアの欠片は答えない。ただ喉の奥で、乾いた針のように存在を主張した。
時間は午前零時十一分。灰色の塔の中で何時間も走ったように思えたが、現実では十一分しか過ぎていなかった。正式チュートリアルの接続者たちは、まだ初期武器の説明を受けている頃だ。
ユチャンはすぐに動いた。
まずネオヘイルのクライアントログを開く。通常画面からは見えない一時ファイル、認証再送、異常終了パケット。十年前の未来では、何度も捕虜たちがこういう細い糸から追跡されていた。ユチャンはキーボードを叩き、二十七番席の接続履歴から灰色の塔に関係する時間差を削る。
削るだけでは足りない。空白は疑われる。
彼は事前に開いていた偽アカウント群へ処理を流した。賞金イベント目当ての捨てアカウント、掲示板で拾った古いメール、職業診断だけを繰り返した失敗履歴。その一つ一つに、ログイン失敗、ロード中断、チュートリアル選択ミスを散らしていく。
片手で痕跡を消し、もう片方の手で偽装を積み上げる。
十年ぶりに戻った身体は弱かった。指は震え、肺の奥はまだ冷たい。だが手順は自然だった。記憶牧場で血痕を洗い流しながら監視周期を数え、戦場では死体の番号札を入れ替えた。その癖が、安物のキーボードの上で別の形を取っていた。
「なあ、兄さん」
隣の男がまた声をかけた。
ユチャンは手を止めず、視線だけを横へ向けた。
「何ですか」
「それ、生産補助? 外れだろ。作り直した方がよくない?」
男は善意半分、優越半分の顔で笑っていた。自分の画面にはD級槍兵と表示されている。今の時代なら、彼はそれだけで勝った気になれる。
ユチャンは自分の表ステータスをわざと少し見える角度に傾けた。
「そうですね。失敗しました」
「やっぱり。俺、槍兵引いたんだよ。初期スキル二つ。これランキング乗るかもな」
「頑張ってください」
乾いた返答に、男は満足したように画面へ戻った。ユチャンはその横顔を見ながら、胸の奥がわずかに重くなるのを感じた。彼らはまだ知らない。この職業選択も、歓声も、ランキングへの欲も、すべて二年後の侵攻設計への素材として流れ込む。
今ここで叫べば、一人か二人は席を立つかもしれない。だが証拠はない。狂人扱いされ、ネオヘイルとラケイアの双方に目立つだけだ。救うには叫ぶより先に、敵が信じる数字を壊さなければならない。
ユチャンは最後の偽ログを送った。
【アカウントK-17:チュートリアル接続失敗】
【アカウントM-03:職業選択画面で異常終了】
【アカウントR-91:未公開入口アクセス失敗】
【二十七番席:通常再接続】
表面上、彼は一瞬回線が落ち、何も得られずに生産補助として再接続した貧弱な利用者になった。灰色の塔へ届くはずだった線は、複数の失敗記録の中へ細かく砕けて混ざった。
そこでようやく、ユチャンは背もたれに体重を預けた。汗が背中を冷やしている。実際には傷一つないはずの掌が、まだ核を握った形に強張っていた。
失ったものを思い出そうとすると、空白だけが返ってきた。
雨の配達。誰かの笑った顔。どんな声だったか、どんな目だったか。思い出せないのに、そこに穴があることだけは分かる。記憶を失うというのは、忘れることではなかった。忘れた場所だけが、刃物で切った跡のように残り続けることだった。
『覚えていなくても、借りは残る』
彼はもう一度、胸の内で繰り返した。顔を失っても、番号になった日を忘れない。世界を家畜の牧場に変える連中へ支払わせるものも、変わらない。
画面の時計は午前四時五十七分を示していた。
ユチャンは一瞬、時間の表示を見直した。零時十一分ではない。偽ログの処理を続けているうちに、現実の時間が溶けるように進んでいた。店内の熱気は薄れ、初期職業に騒いでいた客たちの大半は机へ突っ伏すか、席を立っていた。始発前のネットカフェ特有の、疲れた沈黙が地下に沈んでいる。
『長く居すぎた』
彼はクライアントを閉じ、料金延長の確認画面を消した。帰る前に、最後に公式サーバーの状態だけを見る。灰色の塔の記録がないことを再確認し、次の手を組むためだった。
ネオヘイル公式ページの告知欄が更新されたのは、その瞬間だった。
最初はありふれた文だった。リリース初日の接続混雑に対する謝罪。初期ランキング集計の遅延。報酬配布の予定。ユチャンは読み飛ばそうとして、指を止めた。
告知の最下段に、たった一行だけ、他の文字より薄い灰色で追記されていた。
【未公開チュートリアル領域における異常信号を確認】
ユチャンの呼吸が止まった。
公式サーバーには灰色の塔のクリア記録がない。覚醒通知も出ていない。ラケイア回収網への送信も、失敗時以外には走らないはずだった。だが今、ネオヘイルの告知画面に、存在しない塔の影が浮かんでいる。
次の更新で、薄い灰色の一文が黒く変わった。
【灰色の塔、異常クリア検知】
ユチャンの右目の輪が、痛みを伴ってゆっくり回り始めた。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
10話 偽りの盤面と第一監視者
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