右目の輪が回った瞬間、ユチャンは反射的に画面から手を離した。
痛みは塔の中で黒い監視者に首を掴まれた時の冷たさに似ていた。だが今回は刃ではない。細い針が、瞳の奥から外へ向かって押し開くような感覚だった。
告知欄の文字はそのまま残っている。
【灰色の塔、異常クリア検知】
ネットカフェの地下に、始発前の鈍い沈黙が沈んでいた。隣の男は腕を枕にして眠り、老人の店主は受付の椅子で首を傾けている。誰もその一文を気にしていない。公式ページを開いた者も、灰色の塔という名前の意味を知らない。
ユチャンだけが、その薄い文字列の裏側にある接続の匂いを嗅ぎ取った。
『完全接続じゃない』
もしネオヘイルとラケイアの監視網がすでに一本化されていれば、告知欄に出るのは曖昧な検知では済まない。灰色の塔を攻略した個体名、接続座標、核破壊時刻、コア汚染疑い。そうした項目が一斉に走り、黒い監視者の後続が現実の回線へ爪をかけていただろう。
だが今、表示されたのは塔の名前と異常クリアだけだった。
「……最初の痕跡を拾ったか」
声は小さかった。拾ったのはネオヘイル側の自動告知か、それともラケイア側から滲んだ監視断片か。どちらにしても、両者はまだ互いの喉を完全にはつないでいない。だが近づいている。灰色の塔の核を砕いた衝撃が、二つの網の境界を叩いたのだ。
ユチャンは画面を閉じる前に、告知の更新時刻とページ下部のキャッシュ番号を覚えた。スクリーンショットは撮らない。証拠は足跡になる。
料金を支払い、配達用ジャンパーの襟を立てて地上へ出ると、九老の路地には冷たい朝の空気が流れていた。夜通し開いていた食堂の排気と、濡れたアスファルトの臭いが混じる。以前なら始発に合わせて配達アプリを開いていた時間だった。だが携帯の画面に、その仕事の通知はもうない。
彼は地下鉄に乗らず、バスを二度乗り換えて新林洞へ戻った。監視がまだ弱いとしても、同じ移動線を残す必要はなかった。
ワンルームの扉を開けると、カビ臭い空気が迎えた。薄い布団、古い携帯、滞納通知の封筒。三日前に目覚めた時と大きく変わっていない部屋なのに、今はそこが妙に遠く感じられた。灰色の塔で削られた記憶の穴が、壁の染みのように視界の端へ広がっている。
ユチャンは窓のカーテンを閉め、部屋の電源タップから余計な機器を抜いた。携帯は機内モードにし、古いノートパソコンだけを有線でつなぐ。通信量が小さく、古い機種ほど、派手な監視システムは後回しにする。
「まず分ける」
彼は自分のステータスを開いた。
表に見えるのは、F級生産補助の貧弱な登録。裏には、人類初覚醒者標識と核破壊記録。さらにその外側に、配達員チョン・ユチャンとして現実世界に残した生活のログがある。
いまの彼は一人ではなかった。一つの身体に、三つの履歴が無理やり重なっている。
ユチャンは『隠された欺瞞』を起動した。視界の端に黒青い線が走り、三枚の薄い板が重なるように浮かんだ。
【表示対象を選択】
【地球側登録網】
【ネオヘイル運用ログ】
【外部監視者】
配達員チョン・ユチャン。生産補助D-78-廃棄予定319。人類初の覚醒者権限を持つ異常個体。
三つを一つに見せれば、いつか差異値で裂かれる。ならば最初から別々の人間に見えるよう、履歴の影を分けるべきだった。
彼はまず配達員の身分へ、未払い家賃、退会済みの配達アプリ、古い銀行残高、睡眠不足の検索履歴を寄せた。貧しく、疲れ、ゲームの正式リリース初日に少し触ってすぐ諦めた若い男。
次に生産補助アカウントへ、ネットカフェ二十七番席の再接続、チュートリアル選択失敗、F級職業、掲示板の外れ報告を重ねる。どこにでもいる失敗者。ランキングにも企業にも価値のない数字。
最後に、人類初の覚醒者権限は深く沈めた。灰色の塔の核破壊記録は完全には消せない。だから隠すのではなく、表示される相手を限定する。外部監視者が覗いた時だけ、欠けた廃棄番号の奥にごく短い矛盾として残るよう調整した。
「餌は見せる。だが喉まで届かせない」
黒青い板が震えた。喉の奥のコアの欠片が、不満げに熱を持つ。ユチャンは気にせず、同じ処理を何度も繰り返した。表示先を変え、時刻をずらし、職業値の矛盾をわざと小さなエラーに分散させる。
一度目は配達員の検索履歴が生産補助側に滲んだ。やり直す。
二度目は人類初覚醒者の時刻印がネオヘイル運用ログに浮いた。削る。
三度目で、三つの板はようやく別々の温度を持ち始めた。
ユチャンはそこで初めてノートを開いた。
前に書いた攻略情報は燃やした。だが今必要なのは塔の階層ではない。敵が何を欲しがるかの地図だった。
紙の中央に、彼はラケイアと書いた。そこから線を伸ばす。恐怖。忠誠心。欲望。裏切り確率。精神崩壊率。復讐反応。承認欲求。犠牲受容性。
灰色の塔で見た記録石の文字と、記憶牧場で刻み込まれた分類表を重ねる。ラケイアは戦闘パターンだけを集めていたのではない。誰がどの瞬間に膝を折るか。誰が褒美で仲間を売るか。誰が恐怖で暴走し、誰が忠誠心で自分から鎖を握るか。
すべてを数字にしていた。
牧場時代、ある兵士は毎回、部隊長を庇って死んだ。管理者はそれを勇気とは呼ばなかった。忠誠誘導適性、九十二。別の女は、子どもの幻影を見せられるたび敵陣へ走った。保護欲求反応、過剰。ユチャン自身は、何度殺されても命令を受け入れなかったため、廃棄予定品に分類された。
人間の感情は、彼らにとって祈りでも罪でもない。収穫単位だった。
ユチャンは紙の上に、未来で名を上げる強者たちの位置を書こうとして、ペンを止めた。知っている名前はいくつもある。炎で都市を焼く少女。弟を失って壊れる分析家。治癒の光を使いながら記憶実験に巻き込まれる女。彼らを直接訪ね、未来を話し、先に囲い込めば短期的には強い。
だがそれは、ラケイアの監視データに新しい餌を与える行為だった。
未来の強者が、どの言葉で揺れるか。誰に従い、何を恐れ、どの報酬に目を向けるか。ユチャンが焦って接触すれば、その反応すべてが新しい侵攻設計へ流れ込む。
「人を集める前に、盤面を作る」
彼は別の紙を取り出した。
敵が監視する目標を、こちらで用意する。敵が収穫する欲望を、こちらで植える。敵が信じるランキングを、こちらで育てる。実在の才能を隠し、偽物の野心を表へ出す。強者本人ではなく、強者らしく見える影にラケイアの目を縛る。
匿名の攻略情報サイト。賞金イベントの偽ランキング。生産職研究アカウント。低級塾の失敗講義。表向きは安っぽく、欲望だけは濃い場所。
ネオヘイルもラケイアも、人間の弱さを軽く見る。ならばその軽さを使えばいい。
朝日が窓の隙間を白く染め始めた頃、ユチャンは不動産サイトを開いた。普通の事務所では駄目だ。若者が集まり、ゲーム端末があり、ランキングや講義という名目でデータを流せる場所。資金はない。だが廃業寸前なら、保証金も設備も交渉できる。
検索条件を九老周辺、地下または二階、教育施設可、即入居に絞る。
何件目かで、手が止まった。
【ゲーム塾居抜き物件】
【名称:レベルゼロ】
【十二台PC・旧式サーバー残置】
【契約急募、前家賃相談可】
写真には、色褪せた看板と埃を被った机が映っていた。窓ガラスには、プロゲーマー養成、初心者歓迎という剥がれかけの文字。安っぽい。弱く見える。だからこそ、最初の偽りの盤面に向いていた。
ユチャンは物件情報を保存しようとして、指を止めた。
右目の輪が、今度は痛みではなく警告として回った。
画面の端に、黒青い文字が勝手に浮かぶ。
【外部監視者接続試行を検知】
【接続先:地球側補助サーバー】
【識別不能】
【第一監視者、到達】
同時に、ノートパソコンの画面が一瞬だけ暗くなった。反射した黒い画面の奥で、長い腕と細い指を持つ影が、まだこちらを見つけていないまま、ゆっくり首を巡らせた。
ユチャンは椅子から立たなかった。ただ、保存ボタンの上に置いた指に力を込めた。
「来たか」
最初の監視者が、地球のサーバーに接続した。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
11話 レベルゼロ買収の十二台目
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