ユチャンは保存ボタンを押さなかった。指先に力を入れたまま、まずノートパソコンの画面を閉じた。
接続を切る順番を間違えれば、それだけで痕跡になる。焦って電源を落とした人間、監視警告を見て逃げた個体。ラケイアはそういう反応の温度を読む。
彼は息を浅く整え、電源タップの主電源ではなく、壁側の古い有線LANケーブルから抜いた。次にノートパソコンの無線設定を完全に殺し、携帯をアルミの菓子袋で包んで押し入れの奥へ投げる。使っていない古いルーター、配達用に持っていた予備端末、壊れかけのスマートウォッチ。部屋の中で外へ呼吸するものを、一つずつ黙らせた。
黒い画面に映っていた長い腕の影が、そこで初めて指を止めた。
【接続先消失】
【補助経路再検索】
『まだ鼻先だけだ』
ユチャンは床へ座り込み、バックパックから三つの安い通信手段を取り出した。コンビニで買ったプリペイドSIM、九老のネットカフェで作った捨てアカウント用の携帯回線、近所の古い共同作業室の無料Wi-Fiログイン券。どれも弱く、遅く、不安定だった。だからこそ、一つの高性能な回線より監視が面倒になる。
最初の接続は配達員チョン・ユチャンに渡した。未払い家賃、配達アプリ退会、検索履歴。貧乏で寝不足の若い男が、ゲームに手を出してすぐ飽きたように見せる。
二つ目は生産補助D-78-廃棄予定319へ。ネオヘイルの外れ職業掲示板へ接続し、F級の愚痴を数行だけ残す。誤字も混ぜた。強い言葉は使わない。目立たない敗者ほど、システムは早く分類して捨てる。
三つ目は、人類初覚醒者権限の影だけに使った。接続時間は三秒未満。地球側登録網の古い認証窓を通し、核破壊記録の断片をわざと遠い海外プロキシの失敗パケットへ混ぜる。
【差異値:分散】
【外部監視者照合:三方向へ分岐】
黒青い文字が消える直前、第一監視者の視線が一瞬だけこちらを向いた。だが次の瞬間には、三つの別々の足跡が、三つの別々の闇へ走り出していた。
「追うなら、選べ」
ユチャンは低く呟いた。もちろん相手が一つを選ぶとは限らない。だが最初の接続に使える爪は細い。三方向に裂けば、深く刺さるまでの時間を稼げる。
夜が完全に明ける頃、ワンルームには通信音が一つも残っていなかった。
ユチャンは洗面台で顔を洗い、鏡の中の自分を見た。頬はこけ、目の下の影はさらに濃い。右目の灰色の輪は静かに沈んでいる。誰が見ても、徹夜で借金の計算をしていた新人講師にしか見えない顔だった。
『ちょうどいい』
彼は残っていた現金を封筒へ分け、滞納通知の一枚をわざと上着のポケットに入れた。
午前八時過ぎ、九老の外れにある小さな不動産事務所で、前の持ち主はすでに焦げたような顔で待っていた。四十代後半の男で、首元の汗を何度も拭き、机の上の契約書をユチャンの方へ押し出した。
「本当に今日、契約できますか? 保証金、半分でも先に入れてくれるなら、残りは来月で……いや、今月末でもいいです」
「現金です」
ユチャンが封筒を置くと、男の目つきが変わった。安堵と疑いが同時に滲む。廃業寸前のゲーム塾を、内見から契約まで半日で決める若い男など普通ではない。だが普通でない買い手を疑う余裕も、相手には残っていなかった。
不動産屋の女が、古い印鑑ケースを探しながら言った。
「レベルゼロは設備が古いですよ。十二台のパソコンも、正直、動くかどうか」
「構いません。初心者向けの補習塾にします」
「ゲームの?」
「ええ。失敗した人間向けの」
それは嘘であり、同時に本当だった。
ユチャンは『隠された欺瞞』を薄くかけた。等級や職業を変えるほどではない。ただ、相手が彼を見る時の印象を一段だけずらす。追い詰められた借金持ち。塾講師経験は浅いが、どこかで一発当てたい若者。資金の出所を疑うより、失敗しそうだと見下したくなる姿。
前の持ち主は安心したように笑った。
「最近、ネオヘイルのせいで子どもがみんなシミュレーターをやりたがるでしょう。うまく宣伝すれば、まだ可能性はありますよ」
「そうですね」
ユチャンは判を押した。朱肉の赤が、処刑台で見た雨を一瞬だけ思い出させた。すぐに記憶を押し戻す。ここは牧場ではない。これから作るのは檻ではなく、檻に見える罠だった。
昼過ぎ、彼は鍵を受け取った。
レベルゼロは二階建ての古いビルの半地下にあった。階段の横に貼られた看板は色褪せ、ゼロの文字だけが不自然に大きい。ガラス戸の内側には、プロゲーマー受験クラス、初心者歓迎、短期集中講座といった紙が斜めに残っていた。
鍵を回すと、湿った埃の臭いが押し寄せた。
受付カウンター、長机、安いゲーミングチェア、壁際のホワイトボード。奥には小さな倉庫と、管理用の旧式サーバーラック。写真で見た通り、十二台のコンピューターがずらりと並んでいる。どれも型落ちで、画面の縁には手垢が白く固まっていた。
普通なら負債だった。ユチャンには、ちょうどいい餌場に見えた。
彼は最初に窓を開けず、出入口の上にある古い防犯カメラだけを外した。録画装置には触れない。死んだ機械に見えるよう、電源ケーブルだけを半分抜いておく。次に事務机の引き出しから残っていた受講申込書を抜き、裏面へ簡単な計画を書いた。
表の顔は、プロゲーマー志望者向けの安い補習塾。
裏の顔は、偽ランキングと偽才能を育てる餌場。
さらに奥に、本当に守るべき人間を隠す場所。
だが今はまだ、誰も入れてはいけない。最初に入れるのは人ではなく、監視者の視線だった。
夕方、ユチャンは塾の古い回線を一度だけつないだ。速度は遅く、業務用としては頼りない。掲示板へ投げるには十分だった。
彼は匿名掲示板に、灰色の塔に関する失敗談を流し始めた。
『未公開入口っぽいの見つけたけど入れなかった』
『灰色の塔って出たやついる? 俺はロードで落ちた』
『外れ職引いた。生産補助、まじでゴミ』
文章はわざと軽くした。怒りも警告も入れない。失敗した人間の見栄、嘘っぽい自慢、スクリーンショットのない噂。ネオヘイル運用ログにとっては無視できないが、公式対応するほどではない濁った情報。
第一監視者が灰色の塔を追うなら、コミュニティ側の騒音を嗅がざるを得ない。
数分後、反応が出た。
【外部監視者照合:掲示板断片へ移動】
【灰色の塔関連語句、収集開始】
ユチャンは画面を見ながら、埃だらけの椅子へ深く座った。
「そっちを見ていろ」
その間に、レベルゼロの中身を調べる。
日が落ちて夜の気配が沈む頃、彼は一台目のコンピューターを起動した。ファンが唸り、古いOSのロゴが出る。二台目は起動に三分かかった。三台目はキーボードのNキーが死んでいた。四台目には前の受講生のゲームリプレイが残っていた。五台目から十一台目まで、遅い、汚い、使いにくい。それだけだった。
むしろ安心できる結果だった。
ユチャンは最後の十二台目、一番端の席の前で立ち止まった。机の下に手を伸ばし、電源ケーブルを探る。抜けていた。コンセントにも刺さっていない。本体背面のスイッチも落ちている。
それなのに、モニターの下部だけが薄く光っていた。
黒い画面の中央ではない。まるで故障した液晶の染みのように、下端に細いログイン画面が浮かんでいる。ネオヘイルの正式な起動画面と似ていたが、ロゴの線が一本だけ多い。
入力欄は空白だった。
その空白の中で、ラケイア式の数字が、ゆっくりと点滅していた。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
12話 十二台目とミン・ソア
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