板戸の音に、小平が肩を跳ねさせた。
俊瑞は燭台の火を指で覆い、影を薄くした。郭進が帳面を胸へ引き寄せ、右手で筆を握り直す。三人の息だけが、倉庫の中でやけに大きく聞こえた。
外ではもう一度、板が鳴った。風ではない。軽く押して、すぐ離した音だった。
俊瑞は戸へ近づかず、棚の陰から低く言った。
「入るなら名を言え」
返事はなかった。次の瞬間、足音が遠ざかった。砂利を踏む音は二つ。ひとりではない。
小平が青い顔で囁いた。
「見られた……?」
「聞かれたかもしれません。だから、今すぐ告発しません」
郭進が目を見開いた。
「でも、長老の印が」
「印だけでは足りません。本物なら相手は長老です。偽造なら、偽造した者が別にいる。どちらでも、こちらが先に騒げば帳簿を消されます」
俊瑞は活血丹三瓶と霊薬一瓶の搬出許可を、別の紙に写した。原本には触れすぎない。墨が乾くまでの短い間にも、前世の工場で見た報告書の束が脳裏をよぎった。事故の後に都合の悪い記録だけがなくなる。理由はいつも同じだった。責任者が、責任を取る前に紙を殺す。
「証拠は一枚ではなく、鎖にします」
翌朝、倉庫前の板はさらに細かくなった。
薬材を出す時は、小平が数量と棚番号を記す。郭進が負傷者名と処置内容を別帳に書く。医薬堂の弟子には、治療した者の名と処置時刻だけを別紙に記させた。受領者、治療者、搬出理由を一枚にまとめない。三つが噛み合った時だけ、薬材が正しく使われたと見る。
小平は板を見て、泣きそうな顔になった。
「増えすぎだろ。俺、間違えたら終わりじゃないか」
「一人の間違いで終わらないために分けます。小平は棚の数だけ見てください。郭進は人を見る。医薬堂は処置を見る」
「それでも疑われたら?」
「三枚があなたを守ります」
小平は口を曲げたが、筆を置かなかった。
郭進は、負傷者名の欄を撫でるように見た。
「俺が、受けてない処置に名を書かれたら分かる」
「そうです。自分の怪我を知っている者が一番早く気づけます」
昼、俊瑞は世琳を呼んだ。彼女は坂道制動の後で、まだ足首に砂をつけていた。息は整っている。走った後、戻れる足になりつつあった。
「医薬堂と外門の間を行き来する使い走りを見てください。追い詰めなくていい。誰が、何を持って、どの門から出るかだけでいい」
世琳はすぐにうなずかなかった。
「私を倉庫番にするの?」
「違います。戻って報告できる偵察です」
その言葉に、世琳の目だけが少し動いた。
「斬り合うな、ってことね」
「はい。薬瓶を持つ者は、薬瓶より先に口を割りません」
「分かった。見て、戻る」
短い返事のあと、彼女は木牌を腰に結んだ。偵察組候補に渡した小さな木牌で、片面に戻り時刻、片面に合図の刻みを入れてある。俊瑞はその刻みを確かめ、決められた時刻を申の終わりにした。
数日は、何も起きないように見えた。
軽い打撲には傷薬一包。裂傷には止血布二枚。活血丹は本当に必要な者だけに一粒。小平は毎回棚の前で声を出して数え、郭進は処置を受けた弟子に直接確認した。医薬堂の弟子たちは面倒くさがったが、韓白林の許可状が板の上にあるため、表立って拒めなかった。
だが、三日目の昼過ぎ、世琳が練武場の壁際へ戻ってきた。
「出た」
彼女の声は低かった。
「誰が」
「陳武。医薬堂の裏口。軽い打撲の治療名目。活血丹三瓶」
小平の筆が止まった。
「軽い打撲で三瓶?」
「受領者の札はかすれてた。治療者は外に出てない。陳武が小袋に入れて、外門へ向かった」
俊瑞はすぐに立ち上がらなかった。追えば、相手も気づく。彼は世琳へ薄い木札を一枚渡した。
「後を見ます。近づきすぎない。場所と相手だけ確認してください。刻限までに戻れなければ、追跡を切って戻る」
世琳は札を受け取った。
「西へ出たら?」
「洛陽の西門客桟(せいもんきゃくさん)を疑ってください。商人と浪人が多い。薬を隠して渡すには向いています」
「見たら戻る。戦わない」
彼女は俊瑞が言う前にそう言い、壁を蹴って外門の方へ消えた。足音はすぐに人の流れへ溶けた。
夕刻、世琳は約束より半刻早く戻った。汗をかいていたが、目は鋭い。
「当たり。西門客桟の裏庭。陳武が薬瓶を渡した。相手は老人。右手の指が二本欠けてる。客桟の者は馬老人(マろうじん)って呼んでた」
小平が息を飲んだ。
「邪派の仲買人だ。前に医薬堂の古い弟子が言ってた。金になれば何でも運ぶって」
世琳はさらに続けた。
「薬瓶の栓に、印があった。閔光長老の印と同じ形。陳武は、次は霊薬を混ぜるって言ってた」
郭進の顔から血の気が引いた。
「まだ続ける気か」
俊瑞はすぐには答えず、世琳の報告を偵察表に書かせた。見た場所、時刻、相手の特徴、薬瓶の数。彼女が見たことと、見ていないことを分けて記す。
「会話の全部は聞いたのか」
「全部じゃない。馬老人が、銀子(ぎんす)はいつもの口へ入れると言った。陳武は、長老の名を出すなって」
その一言で、鎖の次の輪が見えた。
俊瑞は翌日、雲星商団の護衛報酬の確認を口実に、洛陽の両替舗へ使いを出した。流河門へ入る依頼報酬の写しを見るためだ。商団の張文虎が押した護衛完了証は、こういう時に効いた。流河門の下級武人でも、正式な依頼の支払い経路を照合する理由になる。
戻ってきた紙には、同じ日の入金があった。
馬老人の名はない。だが西門客桟の帳場を経由した銀子が、閔光の側近である陳武の管理口座へ流れていた。名目は古薬材買付返金。額は活血丹三瓶の市価より少し低い。盗品をさばく時の値に近かった。
小平はその紙を見て、声を出せなかった。
郭進が拳を握る。
「これで、つながった」
「まだです」
俊瑞は記録を机に並べた。倉庫の搬出、医薬堂の処置、客桟の偵察、銀子の流れ。たしかに鎖はできた。だが鎖は、最後に誰の首へかけるかを間違えれば、こちらが絞まる。
「公開の場で出します。門主の前で、原本と写しを同時に。先に相手へ知られたら、世琳が危ない」
その夜から、世琳の戻り時刻はさらに厳しく決めた。申の終わり、酉の初め、酉の二刻。三つの時刻ごとに木牌を替え、戻れない時は一番近い水路へ捨てる。拾った者が分かるよう、表面に細い傷を入れた。
世琳は面倒そうに眉を寄せたが、反論はしなかった。
「私が戻らなかったら?」
「追います」
「俊瑞が?」
「人を分けて追います。あなたを探す者、客桟を見る者、門主へ知らせる者」
世琳は少しだけ笑った。
「それなら、戻るしかないね」
その日の申の終わり、世琳は戻らなかった。
酉の初めにも、彼女の足音は練武場へ届かなかった。俊瑞は帳面を閉じ、予定通り小平たちをそれぞれの経路へ走らせた。夕闇の中で、外門へ続く道だけが黒く沈んでいた。
酉の二刻を過ぎた時、小平が息を切らして駆け込んできた。丸い顔は土にまみれ、手には折れた木片が握られている。
「俊瑞……西門客桟の路地に、これが」
差し出された木牌は、世琳のものだった。戻り時刻を刻んだ面が真っ二つに割られ、踏みつけられた泥の中に捨てられていた。
俊瑞の視線が、折れ目で止まった。木牌の内側には、世琳が自分で刻んだ細い傷があった。救援の印ではない。追跡継続の印でもない。
捕まる直前にだけ残す、最後の合図だった。
「都賢九を呼べ。郭進は門主へ走れ」
俊瑞は帳簿ではなく、壁に立てかけていた自分の剣を取った。
「西門客桟へ行く」
剣気より業務マニュアル 下級武人になった大企業代理、帳簿一冊で長老を裁く
16話 西門客桟と公開尋問の太鼓
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