ナギョンは、床に落ちた振込票の写しをすぐには拾えなかった。
紙片は裏返しのまま、死亡診断書の横に伏せられていた。薄いコピー用紙の端だけが、朝の事務所の冷たい光を受けて白く浮いている。まるで、そこに書かれた名前を読むまで、世界が次へ進まないと決めているようだった。
彼女は膝を引きずるようにして手を伸ばした。指先が紙に触れた瞬間、乾いた紙のざらつきがやけに生々しく伝わった。たった一枚の写しに、母の死と、ウジンの沈黙と、自分の十年が折り畳まれている気がした。
ゆっくり裏返した。
ハンビッ医院会計窓口の丸い判が、薄く滲んで押されていた。日付は二〇一三年十一月十八日。摘要欄には、イ・スンヒ手術費不足分。金額欄には、現金三百万ウォン。
そして入金者欄。
乱れた線で、何度も書き直したような歪んだ字が残っていた。
チョン・ウジン。
ナギョンの喉から音にならない息が漏れた。紙の上の四文字は、十年前の彼の筆跡そのものではなかった。窓口の職員が聞き取って書いた字だろう。けれど、その不格好な字のほうがかえって逃げ場をなくした。誰かが聞き、彼が答え、記録として残ったという意味だったからだ。
匿名ではなかった。
名を隠そうとして、それでも残された名前だった。
「……また、払ってたの」
母の検査に使えと言って封筒を握らせ直したあと。病院の廊下で、若いナギョンに胸を突き放されたあと。もう来ないで、関わらないで、と言われたあと。
それでもウジンは、三日後に手術費の不足分を用意していた。
ナギョンは振込票を握りしめたまま、机の上の古い資料へ手を伸ばした。最初の手紙を書いた時の自分なら、とっくに感情に任せて旧郵便局へ走っていただろう。だが今は、紙に書かれた事実を確認することしかできなかった。どれだけ残酷でも、確かめなければならない。
古いメモの中から、ハンビッ医院の元医事課職員、パク・ギョンジャの番号を探し出した。以前つないでもらった時の通話履歴は残っていた。けれど画面の名前が、前より濃く見えた。過去が変わるたび、彼女の記憶も記録も、少しずつ別の重みを持った。
ナギョンは震える親指で発信した。
呼び出し音が三度鳴った。四度目の途中で、かすれた女性の声が応じた。
「はい、パク・ギョンジャです」
「パクさん。イ・ナギョンです。以前、ハンビッ医院の件でお電話した弁護士です」
自分の声は思ったより低かった。泣き崩れたあととは思えないほど、乾いていた。
「……ああ、イ先生。覚えています。お母様の入院保証金のことでしたね」
その一言で、ナギョンの胸が締めつけられた。覚えている。世界が変わっても、彼女はその夜を覚えている。
「追加で確認したいことがあります。二〇一三年十一月十八日。手術費の不足分として、現金三百万ウォンが入っています。入金者名は……チョン・ウジンになっています」
受話器の向こうで、紙をめくるような小さな音がした。パク・ギョンジャが自分の記憶の中の帳簿を探っているように、短い沈黙が落ちた。
「覚えています」
ナギョンは目を閉じた。
「その日も、雨でしたか」
「ええ。弱い雨でした。前の保証金を持ってきた日ほどではありませんでしたけど、夜は冷えていました。診療はもう終わって、会計窓口も閉めたあとでした。私は残務処理をしていたんです」
パク・ギョンジャの声は用心深かったが、曖昧ではなかった。古い記憶を確かめながら、言葉を一つずつ置いていった。
「そこへ、若い男の人が来ました。背が高くて痩せていて、顔色が悪かった。前にも来た人でした。お母様の保証金を現金で置いていった、あの方です」
ナギョンは振込票の端を握る手に力を込めた。紙が小さく鳴った。
「彼は何と言いましたか」
「イ・スンヒさんの手術費に足してください、と。患者本人にも、娘さんにも、自分が来たことは言わないでほしいと頼まれました」
「名前を、隠そうとしたんですか」
「はい。最初は、ただ知人です、とだけ。けれど金額が大きかったので、こちらも入金者名を空欄にはできません。領収処理にも確認が必要ですから、何度もお名前を伺いました」
パク・ギョンジャはそこで少し息をついた。
「しつこく尋ねたら、ようやく答えました。チョン・ウジン、とだけ」
ナギョンの視界が揺れた。電話を持つ手が滑り、彼女は慌てて握り直した。
「それだけ、ですか」
「はい。それ以上は何も。住所も連絡先も、きちんと書こうとしませんでした。現金は古い紙幣も混じっていて、封筒が二つに分かれていました。急いでかき集めたように見えました」
「怪我は」
思わず聞いていた。
受話器の向こうが一瞬だけ静まった。
「顔には目立つ傷はありませんでした。でも手の甲が赤く腫れていて、袖口に泥がついていました。外を何度も振り返っていたので、私は誰かに追われているのかと思いました。だから、名前を聞くのも少し怖かったんです」
ナギョンは唇を噛んだ。
あの日、彼はどこで三百万ウォンを用意したのか。誰に頭を下げ、何を奪われ、どんな脅しを受けたのか。答えはまだない。けれど、彼が平穏な場所から余裕のある金を持ってきたのではないことだけは、十分すぎるほど伝わってきた。
「そのあと、彼はどこへ」
「すぐ帰りました。窓口を出る前に、一度だけ病棟のほうを見ました。二階でした。たぶん、お母様の病室がある階です。でも上がってはいません。娘さんに会うつもりもなかったようでした」
ナギョンは、若い自分の姿を思い浮かべた。ウジンを突き放し、封筒を返し、言い訳を聞かず、最後に来ないなら同じだと言った二十三歳の自分。
その背後で、ウジンはまた金を用意していた。会いに来る資格などないとでもいうように、病室へ上がらず、名前を残さないよう頼み、しかし会計の規則に押されて、最低限の証拠だけを置いて去った。
「パクさん」
「はい」
「その写しを、当時の私に渡しましたか」
「……渡しました」
声が少し低くなった。
「後日、若いイさんが窓口に来ました。誰が入金したのか、何度も聞かれました。私は守秘の問題もあるので答えられないと言いましたが、あまりに顔色が悪くて。正式な領収書ではなく、内部控えのコピーだけ、こっそり渡しました。いけないことでしたけれど、あの子は何も知らないまま壊れそうに見えたんです」
あの子。
二十三歳の自分を、パク・ギョンジャはそう呼んだ。
母を失いかけ、ウジンを突き放し、未来の警告にすがって間違った道を選んだ若い自分。ナギョンはその子を責めることも、許すこともできなかった。責めるなら、最初の二文を書いた現在の自分を先に裁かなければならない。
「ありがとうございます」
声がひどく遠く聞こえた。
「イ先生、大丈夫ですか」
「はい。確認できました」
大丈夫ではない。だがそう答えるしかなかった。通話の向こうの老いた職員に、十年分の世界が書き換わったなど説明できるはずもない。
「パクさん。最後に一つだけ。彼は、何か伝言を残しませんでしたか」
長い沈黙が落ちた。
「伝言、というほどではありません。ただ、私が領収控えを差し出した時に、受け取らずに言いました。必要なら娘さんにだけ見せてください、と」
「私に……」
「ええ。お母様には見せないでほしいと。心配されるから、と言っていました」
ナギョンはもう返事ができなかった。
ウジンは母を心配していた。ナギョンを責めず、母に知られないよう頼み、病室へ上がらず、ただ支払いだけを済ませた。彼に向けて十年間研ぎ続けた恨みが、音もなく崩れていった。
恨みは、ナギョンにとって支えでもあった。捨てられたと思えば、待ち続けた夜のみじめさに形を与えられた。来なかった彼を憎めば、自分があの場所に置き去りにされた理由を、考えずに済んだ。
けれどその相手は、最初からそこにいなかった。
彼女を捨てた冷たい男ではなく、助けようとして傷つき、それでも何も言わずに去った若い男がいただけだった。
「イ先生?」
「……ありがとうございました。本当に」
ナギョンはそれだけ言って、通話を切った。
沈黙が落ちた事務所で、携帯を持つ手がだらりと下がった。窓の外では朝の車が増え始めていた。誰かが出勤し、誰かがコーヒーを買い、誰かが昨日の続きみたいな顔で一日を始めていた。その普通の音が、今のナギョンには遠すぎた。
彼女の世界では、母の声が消え、ウジンへの恨みが消え、残ったのは自分が送った警告だけだった。
チョン・ウジンを待たないで。
彼は結局、来ない。
あの二文は、若い自分を守るための言葉ではなかった。傷ついた現在の自分が、過去の自分を使って彼を罰した言葉だった。事実を確かめず、痛みを理由にして、彼から説明の機会を奪った。
ナギョンは振込票を死亡診断書の横に置いた。
母の死を示す紙。
ウジンの名を残す紙。
二枚の紙の間に、彼女の軽率さが横たわっていた。
『ごめん』と心の中で言っても、誰に向ければいいのかわからなかった。母へ。ウジンへ。二十三歳の自分へ。あるいは、十年間ずっと憎むことでしか立っていられなかった現在の自分へ。
その時、携帯電話が短く鳴った。
メールでも通話でもない。予定アプリの通知音だった。ナギョンは反射的に画面を見た。さっきまで握りしめていたせいで、液晶に指紋が曇っていた。
通知欄に、新しい予定が一つ増えていた。
日付は明日。
件名は、見覚えのない冷たい文字で表示されていた。
『母の葬儀、ソンブク追悼館三号室』
ナギョンの呼吸が止まった。
まだ行ったことのないはずの追悼館の位置情報まで、青いリンクで添えられていた。予定の作成者欄には、彼女自身の名前があった。十年前の自分が、喪主として登録した予定。
画面の下で、開始時刻がゆっくり更新された。
午前八時。
あと二十四時間もなかった。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
15話 空白に滲む弔問名簿の名前
次の話