黒く浮かんだ予定を見た瞬間、ナギョンの足元から旧郵便局の床がまた遠のいた。
午前四時三十分。チョンゲチョン印刷所。
それは単なる予定ではなかった。ウジンがひとりで封筒を運び、戻れない道へ踏み出す時刻だった。現在のナギョンは廃棄物袋の横に立っているはずなのに、胸の奥には十年前の雨の匂いが流れ込んできた。地下室を出たウジンの後ろ姿。濡れた袖。見ないふりをした横顔。そして、その背中を追う二十三歳の自分の息遣い。
過去のナギョンは、しばらく階段から動けなかった。
ソヒとの通話は一度切れ、すぐにかけ直された。耳元で「ナギョン、今どこ? 返事して」と泣きそうな声がしている。けれど彼女は答える代わりに、地上へ続く扉の隙間を押し開けた。
市場裏の路地には雨が細く残っていた。遠くで車の水しぶきが上がり、ネオンの消えかけた看板が濡れた舗道に揺れている。ウジンは黒いスーツの男たちと別れ、ひとりで坂を下っていた。封筒を胸に抱えたまま、傘も差さず、振り返りもしない。
逃げる人の歩き方ではなかった。
向かう先が決まっている人の歩き方だった。
『行かせちゃだめ』
現在のナギョンは、声にならない言葉を飲み込んだ。過去の自分にはもう手紙を送れない。けれど彼女は、十年前の体の中で確かに同じ結論へたどり着いていた。
このまま行かせれば、ウジンは何も話さない。
ひとりで運び、ひとりで脅され、ひとりで消える。
ソンブクチョンへ下りる細い階段の手前で、過去のナギョンは走った。
「チョン・ウジン」
雨音に押し返されそうな声だった。それでもウジンの肩が止まった。彼はゆっくり振り向いたが、目だけはすぐに逸らした。さっき地下の階段で見ないふりをした時と同じ、硬い横顔だった。
「……ここで何してる」
「あなたを追ってきた」
「帰れ」
短い言葉だった。冷たく聞こえるように、わざと削った声だった。
過去のナギョンは近づいた。ソンブクチョンの橋の下には、小さな空き地があった。昼間は近所の老人が休むような場所だが、夜は街灯が橋脚に遮られ、雨の白い線だけが見えた。ウジンはそこで足を止めた。逃げるには狭く、誰かに聞かれるには遠い場所だった。
「病院代、あれ、どこから出したの」
「お前には関係ない」
「関係ある。お母さんの検査費よ」
「少し借りただけだ。返す」
「誰に」
ウジンの指が封筒を強く握った。紙の角が濡れて柔らかく潰れている。
「友達だ。昔の知り合い」
「嘘」
「ナギョン」
「テフンキャピタル」
その名前を口にした瞬間、ウジンの顔から残っていた血の気が引いた。
過去のナギョンは一歩も下がらなかった。怖かった。足の裏は冷たく、ソヒの声は通話の向こうで途切れ途切れに聞こえている。けれど、ここで目を逸らせば、また十年分の空白が生まれるのだと、理由もなくわかっていた。
「ファン・マンシク。さっき地下で、そう名乗った人」
ウジンの唇がわずかに開いた。
「……聞いたのか」
「聞いた。チョンゲチョンの印刷所のことも。お母さんの病室のことも」
「忘れろ」
「忘れたら、あなたはどうするの」
「俺がどうしようと、お前には関係ない」
「関係ないって、また言うの?」
ナギョンの声が震えた。怒りより先に、悔しさが出た。十年後の自分が味わう痛みを知らないはずの若い彼女が、それでも同じ場所を本能で掴んでいた。
「私を見たでしょ。地下の階段で。気づいたのに、見ないふりをした」
ウジンのまぶたが揺れた。
「……見間違いだ」
「嘘ばっかり」
「帰れって言ってるだろ」
「帰ったら、あなたは明け方、印刷所へ行く。誰にも言わずに。帳簿を運んで、それで終わりにするつもりで」
「終わるなら、それでいい」
その一言は、雨より冷たかった。
現在のナギョンの胸に、知らない夜の記憶が染み込んできた。橋の下の湿ったコンクリート。若いウジンの震える息。彼がこの時、どんな顔で言ったのかを、現在の彼女は初めて知った。
『俺さえいなくなれば終わる』
声に出したのか、心の中だけだったのか、境目は曖昧だった。けれどその言葉は、はっきりとナギョンの中に沈んだ。
十年前の別れよりずっと前から、彼はそう思っていた。
自分が遠ざかれば、ナギョンも母も守れる。自分が消えれば、借金も脅しもそこで止まる。そんな不器用で残酷な計算を、彼はもうこの夜に始めていた。
過去のナギョンも、その危うさを感じ取ったのかもしれない。彼女は濡れた前髪を払い、ウジンの前に立ちはだかった。
「終わらない」
「何がわかる」
初めてウジンの声が荒くなった。
「お前に何がわかるんだよ。あいつらがどこまで来るか。誰の病室番号まで知ってるか。父さんの名前を出されるたびに、俺がどれだけ黙るしかないか」
父さん。
ナギョンは息をのんだ。
「お父さんの借金なの?」
ウジンは答えなかった。だが沈黙が、否定より深く落ちた。
「父さんは……チョン・ギソクは、借金だけ残して消えたことになってる」
ようやく絞り出した声は、濡れた砂を噛むようだった。
「テフンの連中は、父さんが持ち逃げした金の穴埋めだって言った。書類もある。俺が知らない間に保証人の名前も作られてた。払えないなら働け、運べ、黙れって。最初は封筒を一つ届けるだけだった。次は帳簿。次は誰かの名前が入った紙。断ったら、父さんのことを警察に出すって言われた」
「でも、それはあなたの借金じゃない」
「そんなの、あいつらには関係ない」
ウジンは低く笑った。笑いになっていない声だった。
「俺が逃げたら、父さんの借金を理由に母さんの古い家へ来た。俺が黙らなかったら、今度はお前の周りを調べた。ハンビッ医院。二〇六号室。お前のお母さんの名前まで」
ナギョンの喉が詰まった。
「だから病院代を……」
「払えば、お前たちに近づく口実を一つ減らせると思った。馬鹿みたいだろ。俺が払った金だって、結局あいつらの金なのに」
「違う」
「違わない。俺が運んだから出た金だ。俺が黙ったから、お前のお母さんのベッドまで脅しに使われた」
ウジンは橋脚に背を預け、顔を覆いかけた手を途中で下ろした。泣くことさえ許していないような仕草だった。
「明け方の印刷所へ行かなきゃ、ファン・マンシクは病院へ行く。帳簿を届けなきゃ、お前の家族に手を出す。だから俺が行く。俺だけが行けばいい」
「それで、あなたは?」
「俺は慣れてる」
その答えに、過去のナギョンは唇を震わせた。
現在のナギョンは、旧郵便局の中で目を閉じた。慣れている。そんな言葉で自分の痛みを片づける癖を、彼はいつから覚えたのだろう。十年前、旧郵便局に来なかった日からではない。もっと前から、彼は自分の存在を差し出すことを、解決策だと思い込まされていた。
若いナギョンは震える手で、ウジンの濡れた袖をつかんだ。
「慣れないで」
「離せ」
「いや」
「ナギョン、頼むから」
「お母さんを人質にされて怖い。あなたが巻き込まれてるのも怖い。でも、あなたが一人で行けばいいって言うのは、もっと怖い」
ウジンの目が、初めてまっすぐ彼女を見た。
そこには怒りもあった。諦めもあった。けれど一番深いところにあったのは、見つかってしまった人の怯えだった。
「俺が話したって、何も変わらない」
「変わる。少なくとも私は、あなたが来なかった理由を勝手に決めない」
「……来られるかわからない」
「じゃあ、そう言って」
「言ったら、お前が危ない」
「言わないから、もっと危ないの」
橋の上を車が通り過ぎ、光が一瞬だけ二人の足元を白く照らした。水たまりに、赤いマフラーと濡れた封筒が歪んで映る。
ウジンは長く息を吐いた。
「明日未明、印刷所に行く。三番ロッカーへ封筒を置く。それだけだ」
「中身は帳簿なの?」
「たぶん。俺は見てない。見たら終わりだと言われた」
「なら、見ないまま運んだら、ずっと終わらない」
「どうしろって言うんだ」
「一緒に考える」
あまりに頼りない言葉だった。法律の知識も、証拠も、味方も足りない。ただ、ひとりで消えようとする背中を止めるには、その一言しかなかった。
ウジンは笑わなかった。突き放しもしなかった。ただ、濡れた封筒を見下ろし、目を伏せた。
その沈黙の中で、現在のナギョンの携帯がかすかに震えた。新しい記録が同期される。二十三歳の自分の短いメモだった。
『ウジンが話してくれた。お父さんの借金のこと。テフンに脅されていたこと。明け方、印刷所へ行くこと』
ナギョンは画面を握ったまま、胸の奥で何かが崩れるのを感じた。ようやく二人は、初めて同じ真実を見た。十年前の夜が、少しだけ違う方向へ曲がり始めていた。
その時だった。
橋の欄干の向こう、濡れた道路で、黒いワゴン車が一台、ゆっくりと速度を落とした。
通り過ぎるのかと思った車は、交差点の手前で不自然に大きく向きを変えた。ヘッドライトが橋の下の空き地を斜めに照らし、ウジンの顔が白く浮かぶ。
彼の手が、ナギョンの袖を強くつかんだ。
「……伏せろ」
低い声が落ちた次の瞬間、黒いワゴン車は二人のいる橋の下へ向かって、静かに近づき始めた。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
24話 ひとりで消えないでいて
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