その文が同期された直後、ナギョンの視界は旧郵便局の薄暗い床から、十年前の地下階段へと沈んだ。
現在の体はミンソの手に支えられ、廃棄物袋の横に立っている。だが耳の奥には、二十三歳の自分の浅い息が重なっていた。冷えたコンクリートの匂い。濡れた靴底が階段の縁に触れる音。壁に貼られた古い金融広告の端が、地下から漏れる風でかすかに揺れている。
『今、非常階段の角にいる。扉の隙間から声が聞こえる。ソヒ、まだ来ない。警備室の人を呼ぶって言ってるけど、ここまで来るのに時間がかかるみたい』
携帯に新しいメモが浮かんだ。打ち込んだというより、十年前の指先が震えながら残した記録が、現在へにじみ出してくるようだった。
ナギョンは思わず画面を握りしめた。過去の自分は階段の踊り場で身を縮め、鉄扉の横の壁に背をつけている。ソヒが来るまでは、そこで待つつもりだったのだろう。扉は完全には閉まっていない。鍵はかかっているのに、古い建付けのせいで、下の隙間から黄色い光と声だけが漏れていた。
最初に聞こえたのは、知らない男の笑い声だった。
「チョン・ウジン。お前、耳はちゃんとついてるな?」
低く、粘るような声だった。言葉の端に笑いが混じっているのに、少しも面白がっていない。相手を痛めつける前に、どこを折れば黙るかを測っている声。
ウジンの返事は聞こえなかった。
「明日、夜明け前だ。チョンゲチョンの印刷所。裏口に入って、三番ロッカーへこの封筒を置く。中は見るな。人に渡すな。遅れるな。わかったか」
紙束が机に投げられる乾いた音がした。
現在のナギョンの胸が、ひやりと狭くなる。チョンゲチョンの印刷所。病院代や貸金業者だけではない。ウジンが抱えていた封筒は、彼の借金の紙切れではなく、誰かが隠したい帳簿そのものに近いものだった。
「……それを運べば、終わるんですか」
かすれた声が、ようやく返った。
ウジンだった。
ナギョンの知る二十三歳の彼の声より、ずっと低く、疲れていた。雨に濡れているだけではない。何日も眠れず、何度も同じ脅しを聞かされ、抵抗する気力を削られた声だった。
男が鼻で笑った。
「終わる? 誰がそんな約束をした」
椅子が軋む音。足音が近づく。二十三歳のナギョンは、階段の角で息を止めた。現在のナギョンも同じように喉を詰まらせる。
「お前の親父が残した借金は、紙一枚で消える額じゃない。けどな、言うことを聞くやつには、今日みたいに金を用意する道くらいは残してやる。彼女のお母さん、検査だって? いい病院じゃないか。病室もわかった。二〇六号室」
その数字を聞いた瞬間、ナギョンの腹の底が冷たくなった。
イ・スンヒの病室。
十年前の母は、その夜、何も知らずに病院のベッドで眠っていたはずだった。娘が旧郵便局で未来の手紙に怯え、ウジンが地下で脅されている間も、ただ検査の順番を待っていたはずだった。
「やめてください」
ウジンの声が、初めてはっきり揺れた。
「その人たちは関係ありません」
「関係あるかどうかは、こっちが決める」
男の声が急に平らになった。笑いが消えた分だけ、凍るように冷たかった。
「金に手をつけるな。帳簿のことを口にするな。あの女に一言でも話すな。もし変な真似をしたら、明日未明に印刷所へ行く前に、先に病室へ寄ってやる。母親のベッドの横で、お前の名前を出してもいいんだぞ。娘の男が、どんな借金を抱えてるか、親切に説明してやる」
二十三歳のナギョンの手が、壁の角をつかんだ。爪が白くなる。現在のナギョンには、その爪先の痛みまでわかった。
地下室の空気が、重く沈んだ。
ウジンは何か言い返そうとしたのかもしれない。けれど、音にならなかった。短い沈黙の後、衣擦れの音がして、封筒を受け取る気配だけがした。
「返事」
「……わかりました」
「声が小さいな」
「明日、未明に。チョンゲチョンの印刷所へ届けます。中は見ません。誰にも話しません」
「そうだ。賢くなったじゃないか」
男は満足したように言った。
「それと、病院の金を払ったことを恩着せがましく言うなよ。女はそういうのに弱い。泣かれて抱きつかれたら、余計なことを喋りたくなるだろう。お前みたいなやつは、優しいふりをして全部壊す」
その言葉に、現在のナギョンは唇を噛んだ。
違う。
壊したのは、優しさではない。怖くて聞かなかった沈黙と、守るという名目で相手を遠ざける癖だ。けれど十年前のウジンは、そんな反論をする余裕も持たされていなかった。
男が最後に言った。
「ファン・マンシクの名前を忘れるな。お前がしくじったら、誰が来たか、あの病室の人間全員に覚えさせてやる」
ファン・マンシク。
現在のナギョンは、その名を心の中で一字ずつ刻んだ。テフンキャピタルの室長。母の病室を脅しに使い、ウジンの口を塞いだ男。
鉄扉の向こうで鍵が鳴った。二十三歳のナギョンは反射的に階段の角へさらに身を隠す。非常灯が作る影の中へ、赤いマフラーの端を押し込んだ。
扉が開いた。
最初に出てきたのは、煙草を吸っていた黒いスーツの男だった。廊下を軽く見回し、何もないと判断したように上へ顎をしゃくる。次に、ウジンが出てきた。
封筒を胸に抱えていた。
彼の髪は雨と汗で額に張りつき、頬の血色はほとんどなかった。背の高い体が、狭い地下廊下ではひどく窮屈に見えた。視線は床に落ち、肩は硬く閉じている。
階段を上がり始めた時、彼の足が一瞬だけ止まった。
影の中に隠れた二十三歳のナギョンの靴先が、ほんの少しだけ階段の縁から出ていたのだ。
現在のナギョンは息を止めた。
ウジンは気づいた。
確かに、気づいた。彼の視線が靴先の手前でほんのわずかに揺れた。目を上げれば、壁に背をつけて息を殺すナギョンの顔が見えたはずだった。
だが彼は、見なかった。
視線を床へ戻し、そのまま一段、二段と上がっていく。黒いスーツの男が後ろからついてくる。もしここでウジンが少しでも反応すれば、二十三歳のナギョンは見つかっていた。ファン・マンシクの脅しは、すぐに母の病室ではなく彼女自身へ向かったかもしれない。
だから、見ないふりをした。
足音が近づき、すれ違う寸前、二十三歳のナギョンは壁に背中を押しつけた。息をすれば見つかる気がした。ウジンの濡れた袖が、彼女の膝のすぐ横をかすめる。封筒の角が胸に押し当てられ、彼の指が白くこわばっていた。
一瞬だけ、彼の横顔が見えた。
泣いてはいなかった。ただ、何かを諦めた人の顔だった。自分だけが遠ざかれば全部守れると、本気で信じようとしている顔。
二十三歳のナギョンは唇を噛んだ。声を出したら、彼が振り返ってしまう。振り返れば、すべてが終わる。そうわかっていたから、痛みで口の中に血の味が広がっても、何も言わなかった。
ウジンの足音が階段の上へ消えていく。
黒いスーツの男の足音も続いた。地上へ出る扉が開き、雨音が一瞬だけ強くなり、すぐに閉じる。地下階段には、蛍光灯の唸りと、二十三歳のナギョンの押し殺した息だけが残った。
現在のナギョンは、旧郵便局の廃棄物袋の横で目を閉じた。
知らない記憶なのに、鮮明すぎた。非常階段の角。冷たい壁。ウジンの靴底の水音。見ないふりをした横顔。十年前の自分が、彼の背中へ伸ばしかけた手を必死に握り込んだ感触。
彼女はその時、まだ恋を守ろうとしていたのではない。母も、ウジンも、自分も、誰が先に壊されるかわからない夜の中で、声を出すことすら選べなかったのだ。
「先生……?」
ミンソの声で、現在へ引き戻された。
ナギョンは返事をしなかった。できなかった。携帯の画面には、通話履歴がまた更新されていた。ソヒへの通話は、午後八時三十一分でいったん切れている。次に短い着信があり、またつながった。きっと過去のソヒが警備室から戻れず、電話越しに泣きそうな声でナギョンの名を呼んでいたのだろう。
数分後、黒い郵便受けの奥が低く震えた。
現場監督も作業員も、その音には慣れなかったらしい。全員が気味悪そうに顔をしかめ、自然に一歩下がった。ミンソだけがナギョンの袖をつかむ。
投入口の内側から、細く折られた紙が押し出された。
ナギョンはそれを受け取る前から、胸の奥が冷えていくのを感じた。紙は小さく、便箋というより、急いで破ったメモの端だった。二十三歳の自分の字は、今まででいちばん短かった。
『ウジンが、わざと私を見ないふりをした』
たった一行。
けれど、その一行には、十年分の誤解より重いものが詰まっていた。見捨てられたのではない。彼は見つけて、それでも視線を逸らした。自分を守るために、母の病室を守るために、そしてたぶん、彼自身が消える道へ進むために。
ナギョンの指が震えた。
その時、携帯の同期画面に新しい予定が黒く浮かび上がった。
二〇一三年十一月十六日、午前四時三十分。チョンゲチョン印刷所。
ウジンが一人で向かうはずだった夜明けまで、もう数時間しかなかった。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
23話 父の借金と黒いワゴン車
次の話