赤い文字は、消えなかった。
『それなら、今ウジンについていってもいい?』
ナギョンは投入口の縁に指をかけたまま、しばらく息ができなかった。喉の奥が乾き、胸の中だけが激しく波打つ。彼女が二通目の手紙に、何度も線を引くように書いた場所がある。ハンビッ医院向かいの路地へは、絶対に一人で行かないこと。
よりによって、そこへ行こうとしている。
十年前の自分は、警告を読んだ。ウジンを突き放すなという文も、病院代の出どころを追えという文も読んだ。そのうえで、今すぐ彼を追っていいかと尋ねてきたのだ。
「先生、どうしたんですか」
ミンソがそばで小さく聞いた。現場監督はまだ電話口で誰かに怒鳴っている。作業員たちは、さっきの金属音に気味悪そうな顔をして立ち尽くしていた。だがナギョンには、周囲の音が遠く薄い膜の向こうにあるように感じられた。
返事をしなければ、次は送れない。
しかし、ここで「だめ」と書いても、もう間に合わないかもしれない。二十三歳の自分は、ウジンが病院代を払った直後にどこへ向かったのか、すでに目で追っている。止めろと書けば、今度はウジンだけを暗い階段の下へ送り込むことになる。
ナギョンは唇を噛んだ。
『一人で行かないで』
紙がない。万年筆もない。黒い郵便受けは廃棄物袋に半分埋もれ、現場はすでに騒然としている。彼女の手は空で、過去への言葉はもう送れない。
その時、郵便受けの奥で紙が擦れる音がした。
ナギョンは反射的に身を乗り出した。赤い文字の下から、薄い白い紙が少しずつ押し出されてくる。投入口には入らないはずの便箋が、細く折り畳まれた姿で、金属の隙間から滑り出た。
彼女は震える指でそれを引き抜いた。
紙はまだ湿っているように冷たかった。二十三歳の自分の字で、短い文が並んでいる。
『ソヒに位置情報を共有した。電話もつないだままにしてる。三分返事がなかったら、病院の警備室に行ってって言った。ウジンにはまだ見つかってない。今、ハンビッ医院の会計窓口を出たところ』
ナギョンはその一行を何度も読んだ。
ソヒ。大学の同期。二十三歳のナギョンが一人で抱え込まず、最初に誰かへ渡した命綱だった。胸のつかえが一瞬だけ緩む。けれど次の行を読んだ瞬間、また冷たく締めつけられた。
『ウジン、封筒を胸に抱えてる。病院代を払った人みたいに、会計の人が頭を下げてた。顔色が悪い。傘も差さずに出ていった』
現在のナギョンの携帯が、コートのポケットの中で突然震えた。
彼女は旧郵便局の埃っぽい床に立ったまま、それを取り出した。手の中の画面に、見覚えのない通知が次々と現れた。
通話履歴。
二〇一三年十一月十五日、午後八時十三分。発信先、ソヒ。
通話時間、継続中。
そんな履歴は昨日までなかった。古い携帯の同期にも、クラウドにも存在しなかったはずの記録だった。過去が動き、その痕跡が現在へ差し込まれている。
「先生、顔色が……」
「ミンソ、今は見ないで」
ナギョンは短く言った。ミンソを遠ざけるためではない。自分が崩れるところを、ここで見せるわけにはいかなかった。
画面がまた震えた。
今度は写真だった。差出人のない古い画像が、一枚ずつ保存フォルダに増えていく。ファイル名は勝手に付いていた。
20131115_2016_HB_backstreet_01。
ナギョンは開いた。
粒子の荒い写真には、夜のハンビッ医院の正門が写っていた。横断歩道の向こう、雨に濡れた市場裏の看板がぼやけている。手前に、背の高い若い男の後ろ姿。ウジンだった。肩は濡れ、片手で古びた書類封筒を胸に押しつけている。顔は見えない。けれど、その背中の硬さだけで、彼がどれほど追い詰められているかがわかった。
次の写真が現れた。
20131115_2018_market_alley_02。
ソンブク洞市場の裏路地だった。シャッターの下りた精肉店、古い野菜箱、排水溝に溜まった雨水。ウジンは人通りの少ない路地へ入っていく。数歩後ろから撮った角度は、二十三歳のナギョンの目線そのものだった。写真の端に、彼女の赤いマフラーの房がかすかに映り込んでいる。
ナギョンの胸がひどく痛んだ。
十年前の自分は、本当に彼の後を追っている。怖かったはずだ。病院代の出どころも、テフンキャピタルという名前も、まだ実感を伴っていない。未来の手紙だけを頼りに、知らない夜の中へ足を踏み入れている。
そして、彼女は一人ではなかった。
通話画面が重なって表示される。ソヒとの通話はまだ切れていない。スピーカーにしていないからか、通話の音声は聞こえない。ただ、履歴の横に小さく「位置共有開始」と残っていた。
ナギョンは便箋の続きを読んだ。
『ソヒがずっと電話の向こうにいる。私が黙ったら名前を呼んでくれる。未来の私、これなら一人じゃないよね』
その幼い確認が、現在のナギョンの胸を刺した。
一人じゃない。たしかに、前よりはましだった。けれど危険は消えない。誰かへ位置を共有しただけで、貸金業者の地下へ下りていく足音が止まるわけではない。
次の写真が増えた。
20131115_2021_taehun_sign_03。
薄汚れたビルの壁に、白い看板がかかっていた。テフンキャピタル株式会社。かすれた青い文字。その下に、地下へ降りる狭い階段がある。階段の入口には、蛍光灯が一本だけ点き、虫が集まっていた。ウジンの靴先が、まさに一段目へかかっている。
ナギョンは無意識に画面を拡大した。
ウジンの腕の中の封筒がはっきり見えた。病院の会計で使うような新しい封筒ではない。角が擦り切れ、何度も開け閉めされた跡のある古びた書類封筒だった。表には何も書かれていない。だが、彼はそれを金よりも重いもののように抱いている。
『お金だけじゃない』
ナギョンは声に出さず思った。
彼は病院代を払っただけではない。何かを預けに、あるいは取り戻しに、あの地下へ向かっている。だから捕まった。だから十年前、旧郵便局の約束に来られなかった。
便箋の字が続く。
『ウジンが階段を下りた。入口の横に黒いスーツの男が二人いる。片方は私に気づいてない。もう片方は煙草を吸ってる。ソヒにはビル名を読んで伝えた。テフンキャピタル。地下一階』
ナギョンの指先から血の気が引いた。
現場監督の声が近づいてきたが、彼女は動けなかった。画面にはまた新しい写真が浮かぶ。
20131115_2023_stairs_04。
地下階段の途中から撮った写真だった。手ブレが激しく、壁の汚れたタイルが斜めに流れている。奥に鉄扉がある。扉の上部には小さな曇りガラス。中から黄色い光が漏れていた。ウジンはその扉の前で立ち止まり、何かを言っているようにわずかに顔を横へ向けている。
その肩越しに、黒いスーツの男が立っていた。
男は若くはない。太い首、短く刈った髪、煙草を持つ指。顔は写真のぶれで判然としない。だが、手に持った鍵だけは不自然なほど鮮明だった。
次の写真が現れた瞬間、ナギョンは呼吸を忘れた。
20131115_2024_locked_door_05。
鉄扉は閉まっていた。
ウジンの姿は、もう廊下にない。扉の向こうに入ったのだ。黒いスーツの男が、外側から鍵を差し込んでいる。鍵は半分回りかけ、男の肩越しに地下の光が細く漏れていた。写真の端には、階段の陰に身を縮める二十三歳のナギョンの指先が映っている。恐怖で白くなった爪が、壁の角をつかんでいた。
ウジンが、中に閉じ込められた。
ナギョンは直感した。話し合いに入ったのではない。自分の意思で扉を閉めたのでもない。あの男たちは、ウジンを地下事務所に入れ、外から鍵をかけた。
今、十年前の自分は、その場面を見ている。
見てしまった。
ナギョンは便箋の最後の行へ目を落とした。そこだけ、文字が少し乱れていた。
『鍵をかけられた。ウジン、中にいる。ソヒが警備室に行くって言ってる。でも私は、声が聞こえるところまで近づいた方がいいと思う』
「だめ」
今度は声が出た。
ミンソがびくりとした。監督も足を止める。だがナギョンは誰も見ていなかった。便箋を握る指が震え、紙の端がくしゃりと鳴った。
だめ。そこから先へ行けば、巻き込まれる。けれど、止まるはずがないこともわかった。
二十三歳のイ・ナギョンは、母の病室を守るためにも、ウジンが何に脅されているのかを知ろうとする。未来の自分が書いた「一人で結論を出さないで」という文を、彼女はたぶん、逃げるなという意味にも読んでいる。
現在のナギョンは、初めて本当の意味で恐ろしくなった。
十年前の自分は、もう彼を憎んでいない。だからこそ、より危ない。怒りで突き放すのではなく、助けようとして近づいていく。かつてウジンが一人で消えようとしたのと、同じ形で。
携帯の画面が最後に一度、震えた。
写真ではなかった。通話履歴の下に、新しいメモが自動で同期されていた。二十三歳の自分が、震える指で打ち込んだ短い文。
『扉の隙間から、ウジンの名前が聞こえた。今から階段をもう少し下りる』
ナギョンの背筋に、氷のようなものが走った。
彼女にはわかっていた。次に届くのは、ただの写真ではない。十年前の地下室で、ウジンを縛った声そのものだ。そして過去の自分は、その声を聞くために、もう一段、暗い階段を下りようとしていた。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
22話 聞こえてしまった脅し
次の話