監督の指が、さらに食い込んだ。
ナギョンは痛みに顔をしかめたが、封筒だけは落とさなかった。ここで怒鳴り返せば、ただの不審者になる。押し合えば、郵便受けごとトラックへ運ばれる。彼女は一度だけ息を吸い、胸ポケットから弁護士証を抜いた。
「イ・ナギョン弁護士です。所属と登録番号、ここにあります」
監督の視線が、カードと彼女の顔を往復した。
「弁護士だろうが何だろうが、工事現場に勝手に入ったら――」
「この建物の郵便設備撤去は、残置物整理と同時に行うと告知されていますね。ですが、所有者不明物と公共性のある設備を廃棄する場合、事前告知期間とリスト照合が必要です。少なくとも現場で即時破棄していい物か確認する義務があります」
ナギョンの声は低かった。腕は痛む。背後では黒い袋がまた床を擦っている。それでも、言葉を崩さなかった。
「それに、今日の作業開始は午前五時と施工会社から通知されています。今は四時台です。告知された作業時刻より前に建物内部へ入り、設備を搬出している。住民説明資料、残置物リスト、郵便設備の撤去順序、その三つを今ここで確認させてください」
「そんなものは、事務所に――」
「ないなら止めてください。告知期限違反、残置物の任意廃棄、証拠保全の妨害。後で問題になった時、現場責任者の名前が記録に残ります」
監督の喉が小さく動いた。怒鳴る勢いだけで押し切れる相手ではないと、ようやく悟った顔だった。つかんでいた手の力がわずかに緩む。
ナギョンはその隙に腕を引き抜こうとした。だが監督もすぐ我に返り、また彼女の手首をつかみ直そうとする。
その時、搬出口の外から甲高い声が響いた。
「ちょっと待ってください! 今、撮りましたから!」
ミンソだった。
息を切らし、片手に携帯を掲げ、もう片方に書類束を抱えている。新人らしい丸い顔は青ざめていたが、声だけはよく通った。
「作業開始予定時刻より前の搬出ですよね? 監督さん、お名前と会社名をお願いします。こちら、先生の事務所で受任予定の件です。今、区役所の当直にも連絡します」
「なんだ、また増えたのか!」
監督が振り返った。作業員たちもつられて搬出口のほうを見る。ミンソはその視線を逃がさないよう、わざと抱えていた書類を何枚か落とした。
「すみません、これ撤去告知の写しです! 踏まないでください。証拠資料です!」
作業員の一人が反射的に足を止めた。別の一人が袋を下ろす。黒い郵便受けの重みで、ビニールが床へ鈍く沈んだ。
道が、開いた。
ナギョンは迷わなかった。監督の手を振りほどき、床を滑るように膝をついた。裂けた袋の隙間へ指を差し込み、黒い金属の正面を引き寄せる。新しい傷の下に、細い投入口があった。
「先生!」
ミンソの声が飛ぶ。監督がまたこちらを向く気配がした。
ナギョンは封筒の角を投入口へ押し当てた。厚みが引っかかった。資料を入れすぎたのかもしれない。喉の奥が冷たくなる。
「入って……」
声にならないほど小さくつぶやき、封筒の端を少し折った。紙が悲鳴のようにきしむ。投入口の縁で封が削れ、白い繊維が毛羽立った。
監督の靴音が近づく。
あと少し。
ナギョンは全身の力を指先へ込めた。封筒が、ふっと抵抗を失った。
落ちる音はしなかった。
白い封筒は郵便受けの底へ沈むのではなく、黒い箱の内側の暗がりへ薄く溶けていった。紙の角が最後に淡く光り、まるで水面へ吸い込まれるように消えた。
ナギョンはその場で息を止めた。
入った。
十年前へ、届いた。
「何をした!」
監督が怒鳴った。だがその声は、遠かった。ナギョンは黒い投入口から目を離せなかった。指先には、さっきまで封筒を押し込んだ感触が残っている。インクで汚れた紙の厚み。資料の角。震える自分の爪。
その中には、余計な謝罪は入れなかった。十年分の恨みをひっくり返す泣き言も、ウジンを愛していたという告白もない。ただ、二十三歳の自分が破滅へ走らないための規則だけを書いた。
ウジンを突き放さないこと。
病院代の出どころを必ず追うこと。
ハンビッ医院向かいの路地へは、絶対に一人で行かないこと。
三つの行を思い返した瞬間、胸の奥で、長くこびりついていた硬いものが音もなく剥がれた。
捨てられた。
ナギョンは十年間、その言葉を盾にしてきた。ウジンを責めるためだけではない。自分があの夜、何も確かめず、何も聞かず、ただ傷ついた側として生きてきたことを、見なくて済ませるための盾だった。
だが、彼は母の病院代を払っていた。拒まれた三日後にも、手術費を入れていた。葬儀の時期に、遅れてごめんと金を残していた。
捨てられたのではない。知らなかった。見ようとしなかった。怖かったから、先に切り捨てた。
その事実は優しくなかった。むしろ、胸の内側を容赦なく削った。けれど不思議と、息はしやすくなった。被害者であり続ければ、痛みの形は変わらない。けれど自分が間違えたと認めれば、少なくとも次の一手は選べる。
ナギョンは初めて、十年前の旧郵便局で夜明けを待っていた自分を、少し離れた場所から見た。赤いマフラーを濡らし、携帯を握りしめ、来ない人を呪いながら、それでも本当は一言だけ聞きたかった若い女。
どうして来なかったの。
その問いを、ようやく責めるためではなく、知るために差し出せた気がした。
「先生、立ってください!」
ミンソが腕を伸ばした。ナギョンはその手を借りて立ち上がる。監督はまだ何かを言っていた。警察、責任、損害。その単語だけが耳に引っかかったが、彼女は黒い郵便受けから目を逸らさなかった。
郵便受けの内側が、低く震えた。
全員の声が一瞬だけ途切れた。金属の箱の奥から、重い消印が押される音が響いたのだ。
ごん、と。
古い木の机に、分厚い印章を叩きつけたような音だった。
ナギョンの背筋を冷たいものが走った。今の音は、受理の音だけではない。返事が来る前触れだ。これまで何度も聞いた、時間が形を変える音。
黒い投入口の奥で、赤い点が滲んだ。
「先生……?」
ミンソが不安そうにつぶやいた。彼女には何が見えているのかわからない。けれどナギョンには、はっきり見えた。郵便受けの中の古びた紙の上に、赤いインクのようなものがゆっくり広がっていく。
文字だった。
一画ずつ、ためらうように浮かび上がる。二十三歳の自分の筆跡。泣くのをこらえて書いた時の、線の揺れ方まで同じだった。
ナギョンは膝を折り、投入口へ顔を近づけた。胸がまた早く鳴り始める。届いた。読んだ。ならば、次に過去の自分はどう動く。
赤い文字は、短かった。
それでも読み終えた瞬間、ナギョンの心臓は、足元の床ごと沈むように強く打った。
『それなら、今ウジンについていってもいい?』
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
21話 地下室へ消えたウジン
次の話