「だめ」
ナギョンは、ウジンの手首をつかみ返した。
彼はもう立ち上がりかけていた。濡れた擁壁の陰から身を乗り出し、坂の上へ走り出そうとしている。病院へ行けば母の病室を守れる。そう考えた顔だった。けれど同じ顔で、彼は何度も自分を切り離してきたのだと、ナギョンにはわかった。
「行かない」
「ファンが病院へ行くって言ってる」
「だから私たちが行けば安全になるの?」
ウジンの肩が止まった。
「病室の前に俺がいれば——」
「あなたが病院に現れた瞬間、あの人たちはお母さんにあなたの名前を出す。借金のことも、封筒のことも。そうなったら、母はあなたを責めるんじゃない。私を心配して、検査どころじゃなくなる」
ウジンは息を詰めた。彼が考えなかった道筋ではなかった。ただ、考える余裕を恐怖に奪われていた。
ナギョンは携帯を耳に当てた。通話はまだつながっていた。
「ソヒ」
向こうで、すぐに息をのむ音がした。
「ナギョン? 今の話、何? 病院って——」
「説明はあと。ハンビッ医院へ行って。二〇六号室、イ・スンヒ。病室の前にいて。誰かが訪ねてきても、家族以外は中へ入れないで。看護師には、私があとで行くって言って」
「あなたは?」
「チョンゲチョンへ行く」
「ナギョン、危ないんでしょ?」
ソヒの声は震えていた。けれどナギョンは、もう震える声につられて戻るわけにはいかなかった。
「危ない。だから位置情報を切らない。私が十分間以上止まったら、あなたの判断で動いて。けど今は、母の病室を見て」
短い沈黙のあと、ソヒが息を吸った。
「わかった。タクシー捕まえる。ナギョン、絶対に電話切らないで」
「切らない」
通話を胸元にしまうと、ウジンが低く言った。
「お前、簡単に人を巻き込むな」
「巻き込んだんじゃない。頼んだの」
「同じだ」
「違う。私が一人で決めないために、頼んだ」
その言葉に、ウジンは口を閉じた。暗い川沿いで、彼の顔だけが薄い街灯を受けて白く見えた。病院へ駆け出したい焦りが、まだ全身に残っている。それでも彼は、ナギョンの手を振り払わなかった。
二人は橋の下を離れた。明け方のソウルは、夜の残りかすのような湿気をまとっていた。市場の灯はほとんど消え、シャッターの隙間から魚と油の匂いがかすかに漏れている。遠くで新聞配達のバイクが走り抜けたが、振り返る者はいなかった。
ウジンは人通りのある大通りを避け、低い建物の裏路地だけを選んで歩いた。封筒をコートの内側に入れ、片手で押さえたままだ。ナギョンは半歩後ろをついていきながら、濡れた袖の端を見た。彼が速く歩くたび、まだ逃げたいという本能が足に残っているようだった。
「三番ロッカーって、誰でも開けられるの?」
「番号式じゃない。裏口の鍵と一緒に渡された鍵で開ける。中に封筒を入れたら、閉めて出ろって」
「中に何が入ってるかは本当に知らないのね」
「知らない。見たら終わりだって言われた」
「見ないまま運んでも終わらない」
ウジンは返事をしなかった。ただ、路地の角で立ち止まり、背後を確かめた。黒い車は見えない。だがそれは、追われていない証拠にはならなかった。
チョンゲチョンの近くへ出る頃、空の底がわずかに青みを帯びていた。川沿いの工場と倉庫はまだ眠っており、鉄扉の前に積まれた紙束がビニールをかぶっている。印刷所の表看板は消えていた。細い横道の奥に回ると、錆びた非常階段と、荷物搬入口のような裏口があった。
ウジンはポケットから鍵を取り出した。安い金属の鍵だったが、彼の指はそれを握るだけで白くなっていた。
「ナギョン」
「何」
「中で何かあったら、先に逃げろ」
「またそれを言うの?」
「約束しろって言ってるんじゃない。頼んでる」
頼む、という言葉にナギョンは一瞬だけ黙った。命令ではなく、追い払うためでもない声だった。怖いと言えない彼が、別の形でそれを漏らしたのだとわかった。
「逃げる時は一緒に逃げる。無理なら、外に証拠を出す。それだけ」
ウジンはそれ以上言わず、鍵を差し込んだ。
古い錠が硬く鳴った。扉が内側へ押し開かれると、インクと油の匂いがむっと押し寄せてきた。ナギョンは思わず息を浅くした。室内は暗く、奥の非常灯だけが薄い赤を灯している。床には紙くずが散らばり、大きな印刷機の金属の腹が影の中で鈍く光っていた。
機械は止まっているはずなのに、建物全体に低い振動が残っているように感じられた。壁際にはロッカーが並び、数字の札がついていた。三番だけ、鍵穴の周りが新しく擦れている。
「早く済ませる」
ウジンは小声で言い、三番ロッカーの前にしゃがんだ。
ナギョンは周囲を見回した。奥に事務室らしいガラス戸があり、ブラインドは半分だけ下りている。その手前に古いコピー機が置かれ、横には古紙を入れる大きな箱があった。印刷ミスや不要紙を捨てる箱に見える。
彼女は迷わずそちらへ向かった。
「何してる」
「試し刷りを探す」
「そんなもの、残すと思うか」
「人は急ぐと捨て方が雑になる」
ナギョンは箱の中へ手を入れた。新聞チラシ、領収書の余白、曲がって裁断された白紙。指先にインクがつき、紙の角で皮膚が小さく痛んだ。ウジンはロッカーを開け、封筒の中身を確かめもせず、そのまま中へ押し込もうとしていた。
「待って」
「何だ」
「封筒は置いて。けど中の位置を覚えて。あとで誰かが入れ替えたか見分けるために」
ウジンはわずかに息を止めたあと、封筒をロッカーの右奥へ立てるように入れた。鍵を閉める手つきが、さっきより慎重になる。
ナギョンは古紙箱の底へさらに手を伸ばした。湿気を吸った紙束の下、硬い厚紙に挟まれた薄い紙が指に触れる。引き抜くと、片面に細かい表が印刷されていた。黒い線はかすれ、文字の一部は二重にずれている。だが、それはただのチラシではなかった。
「ウジン」
彼女の声が低く変わった。
ウジンが近づき、紙をのぞき込んだ瞬間、顔色が変わった。
表には名前が並んでいた。見覚えのない人名の横に、日付、金額、短い略語。いくつかの欄には赤ペンで修正が入り、上から別の数字が書き足されている。
ナギョンは目を走らせた。
「現金移動日……十一月十五日、十八日。こっちは債務者名。保証人欄が別名義に変えられてる」
「警察の略語か」
ウジンの指が、右端の欄で止まった。小さく『CA署』『強二』のような文字が見える。正式な表記ではない。けれどどこかの警察署、強力班を示す内部用の略語に見えた。
「ファンたちだけじゃない」
ナギョンは紙をさらにめくった。二枚目には、同じ表が途中まで印刷され、中央で斜めに切れている。そこには『チョン・ギソク』の名こそなかったが、ギソクの姓に似た行が黒く潰され、横に『再確認』と書き込まれていた。
ウジンの呼吸が乱れた。
「父さんの……」
「まだ断定しない」
ナギョンは即座に言った。今ここで感情に引きずられれば、判断が鈍る。
「でも、これは持って出る」
「持ち出したらばれる」
「ここに置けば消える」
彼女は紙を素早く折り、コートの内側へしまった。心臓の近くに、薄い紙の角が触れる。たった数枚の試し刷りにすぎない。それでも、脅しと借金と病院の病室番号が、初めて形のある証拠へ変わった瞬間だった。
その時、天井の奥で金属がこすれる音がした。
ナギョンが顔を上げるより早く、裏口側のシャッターが大きな音を立てて落ち始めた。鉄板がレールを滑り、火花のような軋みを響かせる。ウジンが走ったが、間に合わなかった。轟音とともにシャッターは床へ叩きつけられ、外への道を塞いだ。
「誰かいる」
ウジンの声はほとんど息だった。
奥の事務室のほうで、椅子が引かれる音がした。続いて、重い靴音。ひとつ、ふたつ。まっすぐロッカーの列へ向かってくる。
ナギョンはコートの内側の紙を押さえた。ここで見つかれば、封筒どころではない。母の病室も、ソヒも、すべて同じ手の中に戻される。
ウジンが彼女の腕をつかみ、印刷機の影へ強く引いた。彼の指がナギョンの唇の前に立てられる。
その瞬間、ロッカーの前で足音が止まった。
鍵束が鳴った。
そして、三番ロッカーの扉に、ゆっくりと鍵が差し込まれた。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
26話 逃げ込んだ警察署の罠
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