鍵が回る寸前、ウジンが動いた。
印刷機の影から飛び出した彼は、ロッカーへ向かう足音とは逆に、奥の事務室の扉へ身を滑らせた。ナギョンは息をのんだが、止める声は出せなかった。三番ロッカーの前に立った男が鍵を差し込む音と、ウジンがガラス戸の取っ手を握る音が、同時に鳴った。
「おい」
低い声がした。
ウジンは振り返らなかった。事務室の扉を押し開け、暗い中へ肩から飛び込んだ。ナギョンもすぐ後を追った。ロッカーの前の男が舌打ちし、鍵を引き抜く音が背後で乱れた。
事務室は狭かった。古い机、帳票棚、インク缶、壁際のスチールロッカー。ウジンは迷わず奥のロッカーを開け、上段に押し込まれていた茶色い封筒をつかみ取った。
「これか」
「開けて」
「ここで?」
「今」
ナギョンの声は震えていなかった。ただ時間がなかった。
ウジンは封を破った。中から滑り出た紙束を見た瞬間、二人の呼吸が同時に止まった。
白紙だった。
正確には、何も書かれていない契約書の束だった。借用証、保証契約書、譲渡承諾書。印刷された枠だけが整っており、債務者名も金額も日付も空欄のまま並んでいた。
「帳簿じゃない」
ウジンの声が乾いた。
ナギョンは一枚を奪うようにめくった。どの紙も同じだった。違法な名義変更に使うための白紙書式。証拠にはなる。だが、彼らが求めていた原本ではなかった。
「ファン・マンシクが先に抜いたんだ」
「じゃあ、俺が置いた封筒は——」
「差し替え用。原本は別の経路で動かした」
背後で、事務室へ向かう足音が近づいた。
ナギョンはコートの内側を押さえた。そこには古紙箱から抜いた試し刷りがあった。完全な帳簿ではない。けれど現金移動日、保証人欄の修正、警察署らしき略語、そしてウジンの父につながるかもしれない黒く潰れた行があった。
「これだけでも通報はできる」
「警察へ?」
ウジンの顔にためらいが走った。
「ファンが警察にも何か——」
「確かめる前に諦めたら、どこにも行けない」
ナギョンは封筒から白紙契約書を数枚だけ抜き、試し刷りと一緒にコートへ押し込んだ。全部は持てなかった。欲張れば捕まる。
事務室の扉が開く前に、ウジンが机の横の小窓へ目を走らせた。非常口へ続く短い通路が、半分だけ見えていた。外側のシャッターは落ちたが、事務室奥の避難扉までは塞がれていなかった。
「こっち」
彼はナギョンの手をつかんだ。
「ロッカー!」
背後で男が叫んだ。
ウジンは非常扉のバーを押し込んだ。錆びた金属が嫌な音を立てた。一度目は開かなかった。二度目、彼が肩をぶつけると、扉は外へ跳ねた。冷たい明け方の空気が流れ込み、ナギョンの肺を刺した。
二人は狭い裏階段へ転がるように出た。階段は建物の外壁に沿って下へ続いていた。下から誰かが上がってくる気配はなかった。ナギョンは手すりをつかみ、靴音を殺す余裕もなく駆け下りた。
「タクシーは大通りだ」
「走れる?」
「走るしかない」
ウジンは短く答えた。
工場街の朝はまだ眠っていた。紙束を積んだトラックの陰を抜け、二人はチョンゲチョン沿いの道路へ出た。遠くで始発バスが通り過ぎた。ナギョンは通話中の携帯を取り出し、ソヒの名を確認した。
「ソヒ、聞こえる?」
「ナギョン! 今どこ? 病室にはまだ誰も来てない。看護師さんに頼んだ。あなたは大丈夫?」
「印刷所を出た。警察署へ行く」
「警察?」
「位置情報はそのまま。十分止まったら、さっき言った通り動いて」
ソヒが何か言いかけたが、ナギョンは返事を待たず携帯を胸へ戻した。前方に空車の表示を出したタクシーが見えた。ウジンが車道へ一歩出て、手を上げた。
「チョンアム警察署まで」
乗り込むなり、ナギョンはそう言った。
運転手は眠そうな目でバックミラーを見たが、二人の濡れた服と青ざめた顔に気づくと、それ以上何も聞かなかった。
車内に沈黙が落ちた。ウジンは白紙契約書を見つめていた。そこには彼の名前も父の名前もなかった。それなのに、彼の顔には自分の罪を見つけたような苦さが浮かんでいた。
「俺が運ばされてたの、こういう紙だったんだな」
「あなたが作ったんじゃない」
「でも、運んだ」
「脅されて」
「それで誰かの保証人欄が変わったなら、同じだ」
ナギョンはすぐには否定しなかった。軽い慰めは、今の彼には届かなかった。
「同じじゃない。でも、責任が消えるわけでもない。だから証言するの。あなたが何を運ばされ、誰に命じられたか」
ウジンは窓の外を見た。
「証言したら、お前のお母さんに行く」
「だから記録を残す。私たちが黙っても、あの人たちは行く」
彼の指が、膝の上で強く握られた。
「……警察がまともならいいけどな」
ナギョンもその不安を消せなかった。試し刷りの右端にあった『CA署』『強二』のような略語。チョンアムの頭文字にも見え、強力二班の省略にも見えた。考えすぎだと言い切るには、紙の中の世界は汚れすぎていた。
それでも、最初に駆け込む場所はそこしかなかった。
チョンアム警察署の庁舎は、朝の灰色い光の中で無機質に立っていた。夜勤明けの警官が出入りし、ロビーには古い蛍光灯の白い明かりが残っていた。ナギョンは受付へまっすぐ向かった。
「通報です。貸金業者による脅迫、違法な帳簿運搬、保証人名義偽造の疑いがあります。証拠の一部を持っています」
受付の若い警官は一瞬だけ二人を見比べたあと、奥へ連絡した。
案内されたのは二階の強力班の小部屋だった。窓のブラインドは半分下り、机の上には紙コップのコーヒーと書類の束があった。やがて、三十代後半ほどの刑事が入ってきた。肩幅のある体に、しわの少ないシャツ。眠っていないはずの時間帯なのに、目だけは妙に落ち着いていた。
「パク・ドギュンです。強力二班」
その名を聞いた瞬間、ナギョンの胸の奥が小さく反応した。強二。試し刷りの右端にあった略語と重なった。
パク刑事はその反応を読んだようには見えなかった。椅子を引き、淡々と手帳を開いた。
「まず、どこで何を見たのか、順番に話してください。急がなくていい」
急がなくていい、という言い方は妙に安心させる響きを持っていた。ウジンは口を開きかけて閉じた。ナギョンが先に話した。ハンビッ医院の病室番号を使った脅迫。テフンキャピタル地下事務所。ファン・マンシク。チョンゲチョン印刷所の三番ロッカー。白紙契約書。そして古紙箱から出た試し刷り。
パク刑事は途中で遮らなかった。要点だけを短く確認し、時刻を書き取った。ウジンにも、誰から鍵を渡されたか、封筒を置いた位置、ファンの声や顔を確認できるかを尋ねた。威圧はなかった。むしろ、被害者を落ち着かせることに慣れた人間の手つきだった。
「証拠物を見せてもらえますか」
ナギョンはためらってから、コートの内側の紙を取り出した。
パク刑事は手袋をはめ、試し刷りと白紙契約書を一枚ずつ確認した。右端の略語へ視線が止まったように見えたが、その顔は変わらなかった。
「これは預かります。正式に証拠袋へ入れます」
透明な袋が机に置かれた。試し刷りが入れられ、封が閉じられ、ラベルに時刻と担当者名が書かれた。その動作は隙がなく、雑なごまかしの気配はなかった。
「受理します。今から事件番号を付けます。あなたたちは保護対象として扱いますから、ここを出る前に家族の安全確認もします」
その言葉に、ナギョンの肩からわずかに力が抜けた。
初めてだった。誰かが、手順として彼女たちを守ると言ったのは。感情ではなく、制度の言葉で。ナギョンはその冷たさに、かすかな安堵を覚えた。
「トイレ、行ってもいいですか」
自分の声が思ったより乾いていた。
パク刑事は廊下を指した。
「突き当たりを左です。戻ったら調書を続けましょう」
ナギョンは席を立った。ウジンが目だけで追ってきた。大丈夫、と口に出す代わりに、彼女は小さくうなずいた。
廊下は静かだった。夜勤の警官が遠くで電話を取り、コピー機がかすかに唸っていた。トイレで冷たい水を手に受けた時、指先についたインクがまだ落ちきっていないことに気づいた。紙を探り、走り、警察へ駆け込んだ証拠のように、爪の端へ黒く残っていた。
『大丈夫。受理された』
そう思おうとした。
だが廊下へ戻った途中、突き当たりの窓辺から低い声が流れてきた。
「はい。今、こちらで預かりました」
パク刑事の声だった。
ナギョンは足を止めた。窓の近くに立つパクの背中が、ブラインドの隙間越しの光を受けて黒く見えた。彼は携帯を耳に当て、さっきの穏やかな声をさらに低く落としていた。
「ええ。あの子たち、帳簿のことを知って来ました」
ナギョンの足取りは、その場で冷たく固まった。
水滴が指先から廊下の床へ落ちた。たった一滴の音が、やけに大きく響いた。パク刑事がゆっくり振り返りかけた時、ナギョンはようやく理解した。
警察署は、逃げ込んだ場所ではなかった。
彼らは、自分たちの足で罠の中心へ入ってきていた。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
27話 赤い結び紐の罠と決断
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