パク刑事の肩が動くより早く、ナギョンは廊下の角へ身を引いた。
足音を立てて逃げれば終わる。問い詰めても終わる。手に入れたはずの証拠袋は、もう彼の手の中にある。喉の奥が冷たく狭まり、さっき水で濡れた指先だけがやけにはっきりしていた。
窓辺で通話が続く。
「はい。試し刷り数枚と、白紙契約書です。原本ではありません」
その言葉に、ナギョンの背筋が凍った。
原本ではないと、彼は知っている。こちらが何を持ち込み、何を持ち込めなかったのか、確認しているのではない。報告しているのだ。
「ええ。こちらで足止めします」
通話が切れる音がした。
ナギョンは息を殺したまま、廊下の掲示板を見るふりで体の向きを整えた。パク刑事が角を曲がってくる。彼の顔には、さっきと同じ穏やかな色が貼りついていた。
「大丈夫ですか。顔色が悪い」
「少し、気分が悪くて」
「無理もありません。未明から大変でしたから。戻ってください。あとは私たちが動きます」
私たち、という言葉が、薄い紙のように耳に触れた。
ナギョンは小さくうなずき、取調室へ戻った。ウジンは立ち上がりかけていた。彼の目はすぐにナギョンの異変を拾ったが、声には出さなかった。代わりに、膝の上で握っていた手をゆっくり開いた。
「続けましょう」
パク刑事は机の上の証拠袋を持ち上げた。透明な袋の中で、試し刷りの折り目が白く光っている。さっきまで心臓の近くにあった紙だった。
「まず、この書類の出どころをもう一度確認します。印刷所のどの箱から見つけましたか」
「コピー機の横の古紙箱です」
「あなたが直接?」
「はい」
「ほかに見た人は」
パク刑事の質問は変わらず丁寧だった。だが、今は一つ一つが出口を塞ぐ手順に聞こえた。彼は調書を書いているのではない。証拠の流れを、どこで折ればいいのか測っている。
ウジンが口を開きかけた。
その瞬間、ナギョンは机の下で彼の袖をつまんだ。強くではない。けれど、止まれという合図には十分だった。
「すみません」
ナギョンは立ち上がった。
「母の病室が心配です。ソヒから連絡が入っているかもしれません。少しロビーで電話してもいいですか」
パク刑事の視線が、ほんの一瞬だけ細くなった。
「こちらの電話を使ってもらえます。安全のためです」
「携帯の位置共有を切らないように言ってあります。こちらで確認します」
「署内なら問題ありません。ですが、外へは出ないでください」
「わかりました」
ナギョンはウジンの腕を取った。彼は何も言わずに立った。パク刑事が机の向こうから見ている。証拠袋は彼の左手に握られたままだった。
廊下へ出た途端、ナギョンは歩調を速めた。ロビーの蛍光灯が白く瞬き、受付の若い警官がこちらを見る。正面玄関のガラス越しに、明け方の街が薄青く濡れていた。
「ナギョン」
ウジンが低く呼んだ。
「何があった」
「ここにいちゃだめ」
「パク刑事か」
ナギョンは答えなかった。答える代わりに、彼の腕をさらに強く引いた。ウジンの顔から血の気が引いた。彼もすぐに理解したのだろう。けれど、ここは警察署だった。走れば止められる。騒げば、こちらが不利になる。
二人は普通の速度で受付を横切った。
「どちらへ?」
若い警官が声をかける。
「外で電話を一本だけ。すぐ戻ります」
ナギョンは弁護士証を見せるように鞄へ手を入れ、相手の視線を一瞬そちらへ落とした。その隙にウジンと肩を並べて自動扉を抜けた。冷たい空気が頬を打った。
正面玄関の階段を三段下りたところで、背後から声が飛んだ。
「イ・ナギョンさん」
パク刑事だった。
振り返るしかなかった。彼は証拠袋を手にしたまま、余裕のある足取りで階段を下りてきた。急いではいない。逃げ道が狭いことを知っている人間の歩き方だった。
「どこへ行くんですか。保護対象だと言ったはずです」
「母の病室へ確認の電話を」
「署内でできます。今は外に出ない方がいい」
「外のほうが電波がいいので」
「イさん」
パク刑事はやわらかく笑った。
「怖がらなくていい。あなたたちを助けるための手続きです。証拠を預けた以上、勝手に動かれるとこちらも困ります」
その声だけを聞けば、まともな刑事だった。けれどナギョンの視線は、彼の顔を離れ、証拠袋を持つ手へ落ちていた。
袖口が少し上がっている。
そこに、赤い結び紐があった。
細い紐を二重に巻き、小さな結び目を手首の内側に寄せたブレスレット。飾り気のない、ただ赤いだけの紐。ハンビッ医院向かいの地下事務所で、鉄扉に鍵をかけたファン・マンシクの部下の手首に、同じものが結ばれていた。
ナギョンの脳裏で、あの暗い階段の匂いがよみがえった。外から鍵をかけられた鉄扉。ウジンの名前。ファンの声。警察署の蛍光灯が、その記憶の上に重なって白く滲む。
『通報を受けた刑事まで、一味だった』
声に出さず、彼女は理解した。
ウジンの目も、同じ手首へ向いていた。彼の肩が硬くなる。今にも前へ出そうな気配を感じ、ナギョンは先に一歩横へ出た。
「証拠袋を、もう一度確認させてください」
パク刑事の眉がわずかに上がった。
「今ですか?」
「はい。預ける前に写真を撮ったか確認したくて」
「証拠物はすでに受理しました。勝手に触らせることはできません」
「では、中身だけ見せてください。私が渡したものと一致しているか確認します」
「署内で手続きします」
彼はそう言いながら、半歩近づいた。左手の証拠袋がわずかに揺れる。右手は空いていた。人をなだめるように上げられているが、その距離は近すぎた。
ナギョンは息を吸った。
ここで本当の恐怖を見せれば、袋も携帯も奪われる。ウジンを守ろうとして前へ出れば、彼が先に捕まる。必要なのは、相手の手を止める一言だった。
「パク刑事」
ナギョンは彼の目を見た。
「さっき渡した試し刷りは、コピーです」
パク刑事の手が止まった。
ウジンが横で息をのんだ。ナギョンは続けた。嘘を嘘に見せないためには、説明しすぎてはいけない。だが、相手が確認したくなる程度の現実味は必要だった。
「原本は印刷所で見つけた時点で撮影しています。紙を持ち出せなくなる可能性があったので、携帯で撮りました。白紙契約書も一部は画像で残っています」
パク刑事の目が、初めてはっきり変わった。
「携帯を見せてください」
「任意ですか」
「事件のために必要です」
「では、差押令状を見せてください」
朝の風が階段の隙間を抜けた。受付の中の若い警官がこちらを見ていた。完全な味方ではない。だが、人目はあった。今この場で彼が携帯を奪えば、形は残る。
パク刑事は笑みを保とうとした。けれど、赤い結び紐の結び目が小さく震えていた。
「イさん。あなたは状況を誤解しています」
「誤解かどうかは、正式な手続きで確認します」
「その写真、どこへ送りました」
「答える義務はありません」
パク刑事の沈黙が、数秒だけ落ちた。
その数秒で十分だった。ナギョンはウジンの腕を引き、階段を下りた。今度は止められなかった。背後でパク刑事が何か言うより早く、ウジンが歩幅を合わせた。
「本当に撮ったのか」
「一部だけ。全部じゃない」
「じゃあ、原本は」
「ない。けど、そう思わせないと奪われる」
ウジンは横顔を見つめた。濡れた髪の隙間から、疲れた目がまっすぐこちらを向いている。責めるでも、急かすでもなかった。
「次はどうする」
ナギョンはすぐには答えられなかった。警察はだめ。印刷所は押さえられている。病院には母がいる。ソヒを巻き込んだまま、証拠は不完全で、追ってくる相手は刑事だった。
足が止まりそうになる。
その時、ウジンが静かに言った。
「君の判断を信じる」
ナギョンは振り返った。
彼は不安を消した顔ではなかった。恐怖も、後悔も、罪悪感も残っていた。それでも彼は、ひとりで消えるためではなく、彼女と同じ場所に立つために、その言葉を選んでいた。
「だから、決めて。俺も動く」
その一言は、十年後のナギョンの胸にも、遅れて浮かんだ。
現在の彼女は、事務所の机の前で息を止めていた。濡れた警察署の階段も、ウジンの低い声も、まるで今聞いたばかりのように耳の奥に残っている。机の上には、大手法律事務所の名刺が一枚置かれていた。厚い紙に、整ったロゴ。彼女が手に入れたはずの、冷たく安全な肩書き。
その名刺の文字が、突然ぼやけた。
黒いインクが水を吸ったように揺らぎ、ロゴが溶け、紙の角が硬いプラスチックの光沢へ変わっていく。ナギョンは瞬きもできず、それを見つめた。
次に机の上にあったのは、見知らぬ入館証だった。
所属欄には、はっきりとこう印字されていた。
希望法律センター。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
28話 希望法律センターの記憶
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