ナギョンは机の上の入館証から目を離せなかった。
希望法律センター。
指先でその文字に触れた瞬間、プラスチックの冷たさが皮膚の下へ沈み、別の十年が一気に染み込んできた。大手法律事務所の高層階、磨かれた会議室、分厚い報酬契約書。それらは薄い紙のようにめくれ、代わりに古いコピー機の熱と、湿った蛍光灯の明かりが視界を満たした。
そこは狭い事務所だった。壁には闇金融被害相談、無料法律支援、家族に言えない借金相談という手作りのポスターが曲がって貼られている。机は三つ。椅子は足りず、相談者が来るたびに奥の資料箱をどかして座る場所を作った。
三十三歳のナギョンは知らないはずだった。けれど、体は覚えていた。夜九時を過ぎても帰れず、泣きながら保証人欄の偽造を訴える女性へ水を出したこと。取立人から逃げてきた青年の手首に、あざの写真を撮るため定規を添えたこと。月末の家賃を払えるか迷いながら、それでも被害者の申立書を徹夜で書いたこと。
『私は、ここで働いていた?』
問いが胸の奥で立った瞬間、さらに記憶が押し寄せた。
ウジンと一緒に、狭いモーテルの一室で息を殺していた。消えたテレビの黒い画面に、窓の外のヘッドライトだけが白く流れる。彼はドアの前に椅子を倒して置き、ナギョンは洗面台の鏡の前で携帯の画像を何度も確認していた。帳簿の試し刷り、白紙契約書、警察署の階段で見た赤い結び紐。すべてを消される前に残そうとしていた。
別の夜には、二人はチムジルバンの休憩室の端で、互いに背中を預けて座っていた。周囲では人々が眠り、テレビから早朝ニュースの小さな音が流れていた。ウジンの肩は熱を持っていて、ナギョンは眠ってはいけないと思いながら、その熱に縋っていた。
恐怖の記憶なのに、なぜか温かかった。
彼は何度も先に逃げろと言いかけ、そのたびに言葉を飲み込んだ。ナギョンも、ひとりで決めようとする彼の袖をつかみながら、自分も彼を置いていけないのだと知っていた。信頼という言葉はまだ重すぎた。けれど夜明け前の安い床の上で、二人は確かに互いの呼吸を頼りにしていた。
ナギョンは入館証を握りしめた。角が手のひらに食い込む。
机の上の書類も変わっていた。離婚事件の訴状は消え、代わりにテフンキャピタル被害相談、保証人名義偽造、違法取立被害者一覧と書かれたファイルが積まれている。名刺入れの中には、希望法律センター所属弁護士イ・ナギョンの名刺が何枚も入っていた。
過去は彼女の肩書きまで変えた。
だが、それは成功の形ではなかった。逃げ続け、失いかけ、ようやく辿り着いた細い道の名だった。
記憶はまだ止まらなかった。
警察署の階段を離れた過去のナギョンとウジンは、路地を二つ曲がり、停まっていたタクシーには乗らず、朝市の荷台の間を抜けて歩いた。パク・ドギュンがすぐ追ってくる。そう思うだけで、背中に氷を入れられたようだった。
「ソヒの部屋へ行く」
ナギョンが小さく言うと、ウジンは一度だけ首を振りかけた。
「巻き込むなって言っただろ」
「もう巻き込んでる。だから、せめて情報を持たせる」
彼は唇を噛んだ。反論はしなかった。
ソヒの一人暮らしの部屋は、大学近くの古いワンルームだった。階段の踊り場に自転車が詰まり、玄関の鍵は一度で回らなかった。寝巻きの上にカーディガンを羽織ったソヒが扉を開けた瞬間、ナギョンの濡れた靴とウジンの青ざめた顔を見て、質問より先に二人を中へ押し込んだ。
「何これ。警察行ったんじゃなかったの」
「警察がだめだった」
その一言で、ソヒの表情が変わった。彼女はカーテンを閉め、電気を半分だけ落とし、ノートパソコンを床の小さな机に置いた。
「何をすればいい」
「写真をコピーしたい。ネットには上げないで。外付けかUSB、ある?」
「ある。古いけど」
ソヒは引き出しを乱暴に開け、化粧品やレシートの下から赤いUSBメモリを取り出した。ナギョンは携帯を接続し、警察署を出る前に撮った数枚の画像を開いた。試し刷りの右端、債務者名、保証人欄、現金移動日。完全ではない。だが、誰かの金がどこへ流れたのかを示す筋はあった。
ウジンは玄関のそばに立ち、廊下の足音を聞いていた。彼の肩越しに、外の非常灯が赤く光っている。
「早く」
「わかってる」
コピーの進行バーが遅かった。古いパソコンは熱を持ち、ファンが唸る。ナギョンは画像を一枚ずつ開き、名前が読めるか、数字が潰れていないか確認した。
三枚目で、彼女の手が止まった。
「……黒い」
「何が」
ウジンが寄ってきた。
帳簿の下段、資金移動の末尾にあるはずの口座番号の部分だけが、墨を落としたように真っ黒に潰れていた。撮影時の影ではない。画像ファイルそのものが焼け焦げたように欠け、数字の中央が読めない。
ナギョンは別の写真を開いた。同じだった。拡大しても、明度を上げても、肝心な部分だけが黒い四角に沈んでいた。
「撮った時は、見えてたのか」
ウジンの声が低くなった。
「わからない。警察署で慌てて撮った。全部確認する余裕はなかった」
「これじゃ、金の流れを証明できない」
言葉は冷静だったが、彼の指は震えていた。父の借金、テフンの帳簿、ファン・マンシク、パク・ドギュン。すべてをつなぐはずの数字が、そこで切れている。
ソヒが息を飲んだ。
「警察以外に出せば? 新聞とか、学校の先生とか」
ナギョンは答えられなかった。大学の先生に持ち込めば時間がかかる。新聞社に直接行くには証拠が弱い。警察は一味だった。病院には母がいる。逃げ場が一つずつ閉じていく感覚が、部屋の空気を薄くした。
ウジンが玄関から戻り、床にしゃがんだ。濡れた髪が額に張りつき、疲れた目がナギョンをまっすぐ見た。
「外に、信じられる人はいないのか」
「外?」
「警察じゃなくて、ファンの連中でもなくて。法律を知っていて、俺たちの話を最初から握り潰さない人」
ナギョンの頭に、すぐ一人の顔が浮かんだ。
きれいに整理された講義ノート。模擬裁判で検察役を務めた時の、迷いのない声。弱い人の側に立つ検事になりたいと、飲み会の帰りに笑わずに言った先輩。法学部のカン・テソ。
彼は成績もよく、教授たちの信頼も厚かった。後輩の相談にもよく乗り、違法取立のニュースを見るたび本気で怒った。あの人なら、正しい手順を知っている。警察の内部に話を通す方法も、証拠を守る方法も、きっと。
そう思った。
思ったはずだった。
「……テソ先輩」
ナギョンの声は、自分でも意外なほど小さかった。
ウジンが聞き返す。
「誰だ」
「カン・テソ。法学部の先輩。検事を目指してる。正義感が強くて、こういう事件を放っておけない人」
口にしながら、現在のナギョンの胃の奥が冷たく縮んだ。
希望法律センターの机の前で、三十三歳の彼女は入館証を握ったまま、ゆっくり息を吐いた。過去の自分はその名を救命具のように差し出している。けれど現在の体は、その名前を聞いた瞬間、理屈より先に拒絶していた。
カン・テソ。
知らないはずの吐き気が胸の底からこみ上げた。記憶の中の温かい逃避行に、そこだけ鋭い刃が差し込まれたようだった。ナギョンは震える指で机のファイルをめくった。希望法律センターの相談記録の束の間から、一枚だけ見慣れない古いメモが滑り出る。
そこには、十年前の自分の字で短く書かれていた。
『テソ先輩に連絡する。これで安全になれるはず』
その最後の「はず」の上に、誰かが後から黒い線を一本、強く引いていた。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
29話 カン・テソの名と終バス
次の話