黒い線を見た瞬間、ナギョンはその紙片を落としそうになった。
『テソ先輩に連絡する。これで安全になれるはず』
十年前の自分の筆跡は、そこだけ妙に軽やかだった。信じたい相手を見つけた安堵が、文字の傾きにまで残っている。けれど最後の「はず」を消した黒線は、紙を裂きそうなほど深く押しつけられていた。
現在のナギョンは、胃の底から冷たいものがせり上がるのを抑えられなかった。
カン・テソ。
法学部の先輩。検事志望。弱い人の側に立つと言った人。警察という逃げ場を失ったあと、過去の自分が最後に思い出した名前。
その名前の裏に、何か鋭い真実が隠れている。
理由はまだわからない。ただ、体だけが知っていた。希望法律センターの机、被害相談のファイル、安いモーテルの夜、チムジルバンの床。その温かく苦しい逃亡の記憶の奥に、テソの名だけが、氷の破片のように刺さっていた。
「先輩なら、大丈夫だと思う」
過去のナギョンは、ソヒのワンルームの床でそう言っていた。
現在のナギョンの拒絶など知らない二十三歳の彼女は、濡れた髪を耳にかけ、古いノートパソコンの画面から目を上げた。画像の口座番号は黒く潰れたまま。赤いUSBへのコピーは終わったが、証拠としてはあまりに弱い。
ウジンは玄関の横に立ち、外の廊下を警戒していた。非常灯の赤が、彼の頬を血の色に染めている。
「その先輩は、本当に信用できるのか」
疑いではなく、確認だった。警察署で味方の顔をした刑事に裏切られた直後なのだ。誰かを信じるという行為そのものが、もう危険に見えた。
ナギョンは一度、答えに詰まった。だが、テソの記憶は穏やかだった。試験前に後輩へ判例集を貸してくれたこと。模擬裁判で、取立被害者の証言を軽く扱った相手に本気で怒ったこと。飲み会の帰り、酔った同期が笑う中で、彼だけが真顔で「法律を知らない人が負ける構造を変えたい」と言ったこと。
「あの人は、嘘を嫌う人だよ」
そう言いながら、ナギョンは自分の声が少し幼く聞こえることに気づいた。信じているというより、信じたいと言っている声だった。
ウジンは黙って彼女を見た。すぐに否定しなかった。けれど、頷くまでに長い間があった。
「警察の中がだめなら、外の法律を知ってる人が必要だ」
彼は低く言った。
「君が、その人に話すべきだと思うなら、俺も行く。ただし、全部は渡さない」
「うん」
ナギョンも同じことを考えていた。誰かに頼るとしても、すべてを一か所に預けてはいけない。パク・ドギュンの証拠袋が彼の手の中で揺れた光景が、まだ目に残っていた。
「まず、分けよう」
ソヒが床の引き出しを引き抜き、別の小さなUSBを探し出した。透明なプラスチックの安物で、キャップの端に割れ目がある。
「これも使って。中身、たぶん大学祭の写真だけ」
「消していい?」
「今さら写真なんかどうでもいい」
強がった声だったが、ソヒの指は震えていた。彼女は状況を全部理解してはいない。それでも、警察がだめだった、という一言で十分だったのだ。
ナギョンは帳簿の試し刷りや白紙契約書の写真を、二つのUSBへ分けて入れた。完全な証拠ではない。口座番号は黒く潰れ、ギソクに似た姓の行も読めない。横の『再確認』という書き込みだけが、薄い灰色で残っていた。
ウジンの視線がそこで止まった。
「父の名前に似てる」
「まだ断定しない」
ナギョンはすぐに言った。断定すれば、そこへ足を取られる。今の二人には、立ち止まる余裕がない。
「でも、消さない。必ず残す」
コピーが終わるまで、部屋の中ではパソコンのファンの音だけが続いた。外の階段で誰かが咳をすると、三人とも同時に息を止めた。足音は通り過ぎた。ソヒが小さく息を吐き、USBを二つ並べる。
「一つは、私が預かる」
ソヒが言うと、ナギョンは赤いUSBを彼女へ差し出した。ソヒはそれを受け取る前に、彼女の目を見た。
「私が捕まったら?」
「捕まらない動きをして。部屋を出るなら人の多い場所へ。誰かに聞かれたら、大学の課題だと言って。中身は開かないで」
「あなたたちは?」
「もう一つを隠す」
ウジンが割れたキャップのUSBを握った。
「どこに」
ナギョンは短く考えた。警察署、病院、印刷所、大学近く。どこも危ない。だが一つだけ、誰も証拠の保管場所だとは思わない場所があった。
「ソンブク洞の旧郵便局」
言葉にした途端、現在のナギョンの胸も鈍く鳴った。
十年後の彼女が黒い郵便受けを見つける、あの赤煉瓦の建物。過去の二人には、ただ古びた廃局にすぎない場所。けれど十年先の彼女にとっては、すべての始まりであり、何度も現実を壊し、つなぎ直した場所だった。
「旧郵便局?」
ソヒが眉をひそめる。
「夜九時の待ち合わせ場所。誰かに見られても、私たちがただ揉めて行った場所に見える。中に古い仕分け台がある。裏側なら、すぐには見つからない」
ウジンが彼女の顔を見た。旧郵便局という言葉が、二人の間で少しだけ違う重さを持っていることを、彼も感じたのかもしれない。
「そこへ行ったあと、テソ先輩に連絡するのか」
「うん。証拠を隠してから」
「わかった」
彼はそれ以上、先に逃げろとは言わなかった。ナギョンも、私だけで行くとは言わなかった。
二人はソヒの部屋を出る前に、赤いUSBを小さな布袋へ入れ、ソヒの冬物コートの裏地へ安全ピンで留めた。もう一つはウジンの靴下の内側へ押し込む。滑稽なほど頼りない方法だったが、鞄よりはましだった。
「連絡が取れなくなったら」
ソヒが玄関で言った。
「どうすればいい」
ナギョンは一瞬、答えられなかった。安全な手順などない。誰かに頼れば、その誰かが狙われる。だが、黙って出ていくことは、もうできなかった。
「朝までに私から連絡がなければ、赤いUSBをコピーして。大学の図書館のパソコンじゃなく、外の店で。できれば三つ。ひとつはあなたが持って、ひとつは信頼できる教授に、もうひとつは封筒に入れて私の母の病室へ」
「わかった」
ソヒは青ざめた顔で頷いた。
「ナギョン、あんた、戻ってくるよね」
過去のナギョンは笑えなかった。
「戻るために、分けるの」
廊下へ出ると、明け方前の建物は湿ったコンクリートの匂いがした。二人は階段を下り、表通りへ出ず、塀沿いの細い道を選んだ。旧郵便局へ着いた時、空はまだ濃い紺色で、赤煉瓦の壁は雨を吸って黒く沈んでいた。
壊れた裏口から中へ入る。埃をかぶった仕分け台は、十年後より少しだけ形を保っていた。郵袋は積まれ、壁の塗装もまだ剥がれきっていない。ナギョンは胸の奥がざわつく理由を知らないまま、台の裏側へ手を入れた。
ウジンが緩んだ板を少し浮かせ、USBを奥へ滑り込ませた。板を戻すと、見た目には何も変わらない。
「これで、全部なくなることはない」
彼が言った。
「うん」
ナギョンは頷いた。けれど現在のナギョンは、その記憶の重みを知っていた。十年後、自分がこの場所で過去とつながる時、すでにここには二十三歳の二人が必死で隠した小さな証拠が眠っていたのだ。
そのあと二人は、始発には早すぎ、タクシーには乗れず、町の外れを走る終バスに飛び乗った。なぜ終バスの時間がまだ残っていたのか、現在のナギョンにはわからない。過去が上書きされる時、時間は時々、傷口のように歪んだ。
後部座席は空いていた。二人は並んで座り、濡れたコートの裾を膝の上に寄せた。車内灯は黄色く、窓には疲れた二人の顔が薄く映っていた。
ウジンの手が、座席の上で少し動いた。
ナギョンは迷った末、その手を握った。冷たかった。骨ばった指先が、一瞬だけ強張り、すぐに握り返してきた。
言葉はなかった。先輩に連絡することへの期待も、警察に追われている恐怖も、母の病室も、父の名に似た黒い行も、全部が喉に詰まっていた。けれど握った手の中だけは、確かに温かくなっていった。
現在のナギョンは、そのぬくもりを生々しく思い出した。十年間、捨てられた夜として固めていた記憶の奥に、本当はこんな夜があった。恐ろしくて、頼りなくて、それでも彼の手を離さなかった夜が。
バスが濡れた坂道を下り、車内が大きく揺れた。
その時、後部窓の外で白い光が二つ、急に近づいた。
ウジンの指がナギョンの手を強く締める。彼女が振り返るより早く、後ろを走る車のヘッドライトがバスのガラスいっぱいに広がった。車が横へ並びかけた一瞬、薄暗い助手席の窓の向こうに、赤い結び紐を巻いた手首が見えた。
パク・ドギュンの車だった。
終バスは次の停留所へ向けて速度を落とし始めていた。逃げ場のない後部座席で、ウジンが低く囁いた。
「降りるぞ。今すぐ」
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
30話 最後の頼み先への逃走
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