にじんだ文字を見た瞬間、ナギョンの万年筆は紙の上で止まった。
『テソを信じないで』
たった一文だけを書いた便箋は、まだ郵便受けに入れていない。封筒にも入れていない。なのに、黒い投入口の奥では十年前の自分の字が、湿った壁に染みるように広がっていた。
『先輩が原本も預けてほしいって』
ナギョンは反射的に返事を書き足そうとした。だめ、渡すな。原本を隠して。カン・テソから離れて。喉元までせり上がった言葉は、どれも正しかった。けれど、正しいだけの警告が何を壊すかを、彼女はすでに知っていた。
母の検査予定が消えた。家族写真が遺影になった。ウジンは、助けようとするたびに別の危険へ押し出された。軽率な一文は、刃物より速く過去を切り裂く。
ナギョンは便箋を裏返し、まだ乾いていない一文を見えなくした。
「先生?」
資料室の入口でミンソが立ち止まっていた。閲覧室から戻ってからというもの、彼女の顔にも疲労の色が濃くにじんでいた。だが、携帯を握る指だけはまだ動ける形をしていた。
「手紙は、まだ出さない」
ナギョンは低く言った。
「根拠を足す。テソを信じるな、だけじゃ足りない。過去の私は、また誰かを信じたい方向へ逃げてしまう」
ミンソは何かを聞きたそうに唇を開いたが、すぐに閉じた。代わりに閲覧室で撮った画像をノートパソコンへ移す。チョン・ギソクの名がある発送業務委託先一覧、証拠不採用の赤判、所在不明の帳簿。画面に並ぶ古い紙面は、どれもかすれていたが、一本の線だけは不自然なほどはっきりしていた。
カン・ムンソク。
二十年前、テフン相互金融の違法取り立て疑惑を証拠不十分で終わらせた弁護士。セミョングループの資金移動表に署名していた法務顧問。そしてカン・テソの父。
「セミョングループの訴訟ファイル、まだあります」
ミンソが保管棚の下段から分厚い箱を引き出した。
「公益訴訟の準備資料です。カン・テソ検事が特別代理人として助言した時期のものも、センターに写しが残っています」
「全部開いて」
「はい」
箱の中には、資金移動表、顧問契約書、役員会議録の写し、関連会社一覧が詰め込まれていた。セミョングループという名前の周囲を、下請け会社と金融会社と法律事務所が細い管のようにつないでいる。ナギョンは日付順に並べ、十年前の資料だけを抜き出した。
ページをめくる指が、一枚の契約書で止まった。
『法律顧問業務委託契約書』
委託者、テフンキャピタル株式会社。
受託者、チョンリム法律事務所。
担当顧問弁護士一覧。
その三段目に、カン・ムンソクの名があった。
日付は二〇一三年十一月一日。ウジンがテフンの地下室で脅される、わずか二週間前だった。
ナギョンは短く息をのんだ。二十年前だけではない。カン・ムンソクは過去の事件を終わらせたあとも、名前を変え、会社を変えたテフンの背後にいた。セミョングループの顧問として金の出口を整え、テフンキャピタルの顧問として汚れた入口を覆っていた。
「先生、これ……十年前の顧問名簿です」
ミンソの声が震えた。
「テソ検事の父親が、当時もテフンキャピタル側にいたってことですよね」
「父親だけじゃない」
ナギョンは契約書の端を拡大した。連絡窓口の欄に、チョンリム法律事務所所属の実務補助者として、カン・テソの名前はなかった。だが、緊急連絡先の横に、見覚えのある私用メールの一部が残っていた。学生時代、テソが判例資料を送る時に使っていたアドレスと同じ並びだった。
法的な署名ではない。決定的な証拠としては弱い。けれど、十年前のテソが父の事件と無関係だったという逃げ道を塞ぐには十分だった。
「コピーを取ります」
ミンソが立ち上がる。
「紙で。画像だけだと、また消される」
「複写履歴も残して。時間と枚数をメモに」
「わかりました」
プリンターが低く唸り始めた。白い紙の上に、カン・ムンソクの名前が黒く浮かぶ。ナギョンはその一枚を見つめながら、胸の奥に冷たい怒りが沈んでいくのを感じた。
ウジンの父を横領犯に仕立てた手。十年前のウジンに借金を背負わせた手。過去のナギョンが信じようとした先輩の手。そのすべてが、同じ家の食卓から伸びていた。
記憶が、ふいに十年前に引き戻された。
学生会館のコピー室を出た若いナギョンたちは、夜明け前の構内を走っていた。ソヒは赤いUSBを胸元に押し込み、何度も後ろを振り返る。ウジンは透明のUSBを握ったまま、テソが指定したヘファ洞の方角ではなく、坂の下へ足を向けた。
「そっちじゃない」
若いナギョンが息を切らせて言うと、ウジンは振り向かずに答えた。
「カフェはだめだ」
「でも、人目があるって」
「その場所を知っているのが、あの人だけなら人目じゃない。待ち伏せ場所だ」
その言い方は乱暴ではなかった。ただ、もう一度信じたい彼女の弱さへ、必要なだけ冷水を浴びせるような声だった。
「じゃあ、どこへ行くの」
ウジンは一瞬だけ迷い、低く言った。
「旧郵便局」
若いナギョンの足が止まりかけた。旧郵便局。十年後の彼女が、待ち続けた場所。捨てられたと思い込んだ場所。だがこの時間の二人にとって、そこはもう別れの場所ではなかった。証拠を一度隠した、唯一の場所だった。
「そこも危ないかもしれない」
「危ない。でも、俺たちが一度使った場所だ。向こうは、俺たちがテソ先輩の指示通り動くと思ってる」
ウジンは濡れた前髪を払った。痩せた顔に疲労が浮かんでいたが、目だけは暗がりに慣れていく人のように冴えていた。
「父の名前があるかもしれない原本は、別にする。もし俺が捕まっても、君だけが持っている状態にもしたくない。旧郵便局に、もう一つ隠す」
若いナギョンは唇を噛んだ。
「また、自分だけ捕まる前提で話してる」
「違う」
ウジンは足を止め、初めて彼女を正面から見た。
「今回は、俺だけが持たないって話をしてる」
その言葉に、若いナギョンの目が揺れた。未来のナギョンは、その揺れを胸の内側で受け止める。人は一度で変わらない。ウジンはまだ自分を囮に数え、過去のナギョンはまだ彼の代わりに背負おうとする。それでも、二人は少しずつ同じ机の上に荷物を置こうとしていた。
三人は人けのない路地を抜け、ソンブク洞の旧郵便局へ入った。赤煉瓦は雨に黒ずみ、裏口の蝶番はきしんだ。仕分け台の裏には、前に隠したUSBを収めた緩い板がある。
ウジンはそこを開けず、反対側へ回った。
「同じ場所に二つは置かない」
彼はポケットから布で包んだ細いUSBを取り出すと、錆びた仕分け棚をずらし、壁際の台の下を手探りした。長く使われていない木の支えに、小さな割れ目がある。そこへUSBを差し込むと、上から郵袋の破れた革片をかぶせた。
「これは、口座番号が読めるほう?」
若いナギョンが尋ねた。
「それと、父の名前があるかもしれない画像。全部じゃない。全部を一つにしない」
「じゃあ、私たちが持つのは?」
「劣化していない写しを少し。あと、テソ先輩に渡すなら、渡してもいい分だけ」
ソヒが小さく舌打ちした。
「先輩にまだ渡すつもり?」
若いナギョンは答えられなかった。信じたい顔が、まだ頭の中に残っていたのだ。正しい手順を知っている先輩。弱い人に怒れる先輩。その記憶を捨てることは、自分が見てきた優しさまで嘘だと認めることだった。
ウジンは責めなかった。
「確かめるなら、全部を持って行くな。それだけだ」
現在へ戻ったナギョンは、コピーされた契約書を封筒に挟んだ。便箋の一文目は書き直す必要があった。
『カン・テソを信じないで』では足りない。
なぜ信じてはいけないのか。何を渡してはいけないのか。誰の名が、どの契約書に、いつ載っているのか。
ナギョンは新しい便箋を取り出し、日付から書いた。
二〇一三年十一月一日。
テフンキャピタル法律顧問業務委託契約。
担当顧問弁護士、カン・ムンソク。
セミョングループ元法務顧問。カン・テソの父。
帳簿の写しは劣化版に差し替えられている可能性。
原本は絶対に一か所にまとめないこと。
テソが指定した場所へは行かないこと。
ペン先は急いでいたが、感情は削ぎ落とした。怖い、逃げて、信じないで。そういう言葉は入れない。過去の自分が恐怖で走り出さないように、事実だけを並べる。
最後に契約書の写しを三つ折りにし、封筒へ入れようとした時だった。
携帯が震えた。
ミンソのものではない。センターの業務用通知でもない。ナギョンの私用携帯の画面に、知らない番号が浮かんでいた。国番号も、登録名もない。ただ、短いメッセージが一行だけ表示されている。
『カン・テソ検事に手を出さないでください』
乾いた文だった。怒鳴り声でも、脅迫めいた飾りもない。だからこそ、背筋が冷えた。
ナギョンはまだ手紙を出していない。契約書の写しを封筒に入れる直前だった。誰にも送っていない。口に出したのは、この資料室の中だけだった。
ミンソが画面をのぞき、顔色を変えた。
「先生、それ……」
「触らないで」
ナギョンは携帯を机に置いたまま、ゆっくり資料室を見回した。閉じたブラインド、壁際の古い棚、天井の防犯カメラ、黒い郵便受けの傷ついた投入口。どれもさっきまでと同じだった。けれど、同じであることが、もう安全を意味しなかった。
相手は、ナギョンがカン・テソへ向けて動いたことを知っている。
しかも、過去へ手紙を送る前に知っている。
郵便受けの奥で、紙がかすかに擦れた。
ナギョンは封筒を握り直した。今度の敵は、十年前の二人だけを追っているのではない。現在の彼女の手元まで、すでに見ていた。