ヘジュンは画面を閉じられなかった。
「最後のお客様です」
たった一行なのに、古い発電機の音がまだ耳の奥で回っている気がした。入力した覚えはない。管理事務所の自動返信にしても、あまりに悪趣味だった。
彼はメッセージをソユンへ転送しかけ、親指を止めた。こんなものを見せれば、ますます来ない。そう判断した自分に嫌気が差したが、店の奥に積まれた修理品と督促状を見れば、きれいな正論だけではもう動けなかった。
翌朝、ヘジュンは開店前のシャッターに臨時休業の紙を貼り、ソユンの勤める設計事務所の入ったビルへ向かった。地下鉄の窓に映る顔は、寝不足でくすんでいた。
昼休み、ビル脇のカフェから出てきたソユンは、兄の姿を見つけるなり足を止めた。
「電話で断ったよね」
「わかってる。でも直接話したかった」
「またそうやって、断りにくい場所まで来る」
ソユンは薄いコートの袖を握り、視線をそらした。怒っているのに、すぐ立ち去らない。それだけでヘジュンは情けないほど望みを持った。
「週末だけだ。撮影を手伝ってほしい。無理なら、現地で一緒にいてくれるだけでいい」
「私が行けば、動画に家族っぽさが出るって?」
「違う」
言い切ってから、言葉が続かなかった。完全に違うとは言えない。その沈黙を、ソユンは見逃さなかった。
「お兄ちゃん、昔から都合の悪いところだけ黙るよね」
低い声だった。ヘジュンは反射的に謝ろうとして、また飲み込んだ。謝罪を先に置けば、頼みごとが通りやすくなると計算しているように聞こえる気がしたからだ。
「店が危ない。部品代も家賃も遅れてる。動画を撮って、少しでも客を戻したい。金を貸してほしいんじゃない。手伝ってほしい」
ソユンの目がわずかに揺れた。金の話を避けなかったことに驚いたのかもしれない。
「それ、昨日言えたよね」
「言えなかった。情けないから」
しばらく車の流れる音だけが二人の間を通った。ソユンはため息をつき、スマートフォンの予定表を開いた。
「行くとは言ってない。確認するだけ」
「ありがとう」
「感謝される段階じゃない」
それでも彼女は、週末の予定に小さく印をつけた。母の命日以降、二人でどこかへ向かう予定が入るのは初めてだった。疎遠になった兄妹の仲を修復する機会だと考えているのか、しぶしぶながらも同行を認めるように、画面を伏せる手が少しだけ硬かった。
「ひとつだけ。現地でまた嘘をついたら、その場で帰る」
「わかった」
「あと、私を妹としてじゃなく、一人の同行者として扱って」
ヘジュンはうなずいた。胸の奥に小さな痛みが残ったが、それは当然の罰だった。
次に向かったのは、郊外のレスキュー用品倉庫だった。ユン・ミンソはそこで民間講習の装備管理をしていた。山岳救助隊を辞めてからも、ロープの束ね方やカラビナの傷を見る目だけは現役のままだった。
「閉鎖前のキャンプ場? 場所は」
「静寂稜線です」
ヘジュンが名前を出すと、ミンソの手がロープの上で一瞬止まった。
「そこ、まだ入れるんですか」
「最後の予約を取りました。古い設備らしいので、念のため装備を見てもらいたくて」
ミンソは黒い髪を後ろで結び直し、点検表に無言で印を入れていった。ヘッドランプ、予備電池、簡易無線、救急セット、雨具。動きは速いが、静寂稜線という名が出てから顔つきが硬かった。
「何かあるんですか」
ヘジュンが尋ねると、ミンソは救急箱の蓋を閉じた。
「昔、あの稜線の近くで捜索がありました。見つからなかった人がいた。それだけです」
それだけ、と言うには声が乾いていた。ヘジュンはそれ以上聞かなかった。聞けば、この計画を止められる気がした。
当日の朝、集合場所の駅前には、予定より早くパク・ドユンが来ていた。派手な防風ジャケットに小型カメラを胸へ固定し、車の後部をのぞき込んでいる。
「閉鎖寸前、山奥、最後の客。これ、サムネだけで勝ちですよ。店の宣伝も自然に入れます。『廃キャンプ場で本当に使える修理ギア検証』、どうです?」
「廃じゃない。まだ営業中だ」
ヘジュンが訂正すると、ドユンは笑った。
「細かいこと言うと伸びませんよ」
ソユンはその軽さに眉をひそめたが、口は挟まなかった。ミンソは黙々と荷物の重量を確認していた。
最後に現れたイ・ジェヒは、飾り気のないリュックと資料ケースだけを持っていた。環境コンサルタントだと名乗り、同じ地域で土壌調査の予定があるから便乗したい、と落ち着いた声で言った。
「キャンプ場の閉鎖理由と関係が?」
ソユンが聞くと、ジェヒは少し考えてから答えた。
「まだ、関係があるとは言えません。確認しに行くだけです」
その言い方は丁寧だったが、余計な説明を閉ざす硬さがあった。ドユンはすぐ興味を失い、カメラに向かって出発前の挨拶を撮り始めた。
五人を乗せたバンは、朝の市街地を抜けて高速道路へ入った。ヘジュンが運転し、助手席にミンソ、後部座席にソユン、ドユン、ジェヒが並んだ。車内には新しい会話が生まれては途切れた。それぞれが違う理由で同じ場所へ向かっているせいで、沈黙の形もばらばらだった。
一時間ほど走ったサービスエリアで、ドユンがコーヒーを片手にスマートフォンを振った。
「閉鎖記事、出てますよ。コメント欄がなかなか香ばしい」
テーブルを囲むと、画面には静寂稜線キャンプ場の入口案内板が写っていた。ヘジュンが予約ページで見た写真と似ているが、記事用に引いた構図で、背後の稜線まで入っていた。
記事本文は、老朽化と利用者減少による営業終了を淡々と伝えていた。問題はコメント欄だった。
――夜中に管理棟から自分の名前を呼ばれた。
――稜線側で発電機みたいな音がした。でもあそこに電源はない。
――五年前、友人がトイレに行ったまま戻らなかった。ニュースにはならなかった。
ヘジュンの指が止まった。発電機。その単語だけが、昨夜の二十七秒を呼び戻した。
「こういうの、最高ですよ」
ドユンは楽しげに笑った。
「失踪者、閉鎖、謎の音。サムネ向きすぎる。まあ半分は作り話でしょうけど」
「笑う話じゃない」
ミンソの声が低く落ちた。ドユンは肩をすくめたが、空気を読んでそれ以上は言わなかった。
そのとき、ジェヒの指が画面の上で止まった。彼女は記事写真を拡大し、入口案内板の奥、稜線の向こう側をさらに広げた。
霧に半分隠れた斜面。その向こうに、黒ずんだ三角の影があった。屋根だった。古い小屋の屋根の端だけが、稜線の線からわずかに突き出していた。
「ここに建物があるんですか」
ジェヒが地図アプリを開いた。航空写真、登山道、施設配置図。どの表示にも、その位置には何もなかった。キャンプサイトも管理棟も、倉庫の記号すらない。
ヘジュンは昨夜のメッセージを思い出し、胃の底が冷えた。最後のお客様です。誰が、どこで、彼らを数えているのか。
ソユンが画面をのぞき込み、つぶやいた。
「お兄ちゃん。これ、本当にキャンプ場の一部なの?」
答えようとした瞬間、ジェヒの地図アプリが勝手に縮小した。現在地から静寂稜線へ伸びる青い経路の終点が、キャンプ場入口ではなく、何も表示されていない稜線の奥へ一瞬だけずれた。
そして画面の端に、登録されていない灰色の文字が浮かんだ。
最後の目的地まで、あと四十二キロ。
外から自分の声が聞こえても答えるな
3話 赤い立入禁止の稜線へ
次の話