赤い一行を照らしたライトが、ミンソの手の中でわずかに揺れた。
階段の上から落ちてきた声は、まだ小屋の床板の向こうに張りついていた。ミンソと同じ乾いた声で、上がってこないで、と言ったそれは、余韻だけを残して消えたように思えた。
だが次の息で、別の声が笑った。
「ジェヒさん」
ドユンの声だった。奪われたはずの、軽い営業調の声。そのくせ語尾だけが濡れていて、階段の木を舌でなぞるように下りてくる。
「そこまで見たなら、もう上がってきてくださいよ。資料、まだありますから。ジェヒさんが欲しがってたやつ」
ジェヒの肩が硬く跳ねた。ヘジュンは反射的に彼女の腕をつかみかけ、途中で止めた。触れれば驚かせる。声を出せば終わる。彼は自分の手のひらを見せ、ゆっくり首を横に振った。
ミンソはノートを閉じないまま、もう片方の手で全員に低く伏せる合図をした。階段上のソユンは、壁に背を押しつけ、両手で口を塞いでいた。目だけが大きく開き、兄の合図を待っている。
「ねえ、聞こえてますよね。無視しないでください。そういうの、ひどくないですか。俺、さっきからずっと一人でしゃべってるんですけど」
外のドユンは明るく拗ねた。いつもの軽口に似ている分だけ、寒気が強かった。本物のドユンは階段の三段目で喉を押さえ、唇を噛みしめていた。自分の声で自分ではないものが話すたび、彼の目から少しずつ焦点が削られていくようだった。
ジェヒは震える指でメモ帳を開いた。
『返事しない』
『名前に反応しない』
『続けます』
ヘジュンは頷いた。ミンソも短く頷き、ノートをジェヒの前へ置いた。触るのは私だけ、とさっき決めたルールを一度だけ目で確認してから、ページの端を押さえる。
ジェヒはオ・ギョンテクのノートの断面図を広げ、地下室の壁を照らした。遺品の山の奥、古い上着が何枚も釘に引っかかった場所に、何かの紙が貼られている。湿気で端が丸まり、黒いカビが広がっていたが、ライトを当てると薄い線が浮かんだ。
古い施設図だった。
ヘジュンは近づきすぎないよう膝でにじり寄り、工具袋から薄いヘラを出した。ジェヒが止めるように手を上げ、代わりにペンで上着の端をそっと持ち上げる。紙に触れない。釘を抜かない。ここでは、何が反応のきっかけになるかわからなかった。
図面には、キャンプ場の区画が描かれていた。管理棟、Aサイト、Bサイト、給水設備。だが公開されていた場内図とは違い、稜線の下へ灰色の塊がいくつも描かれている。塊の横には、かすれた文字が残っていた。
『廃酸中和槽』
『沈殿スラッジ』
『重金属含有』
『仮封止』
ジェヒの顔からさらに血の気が引いた。
彼女はノートの図と壁の図面を交互に照らし、線を追った。オ・ギョンテクの走り書きにあった換気口の番号が、壁の古い設計図にも同じように残っている。一本は管理棟裏。一本は稜線下。一本は小屋の床下。さらに細い枝のような通路が、ストーブの位置へ伸びていた。
『一致』
ジェヒは書いた。
『公式図から消された部分』
外のドユンが、階段の上でくすくす笑った。
「そうそう、そこ。会社の人たちが消したやつ。ジェヒさんも、一回消したでしょう?」
ジェヒのペン先が止まりかけた。ヘジュンはすぐに自分のメモ帳を彼女の視界へ差し込んだ。
『今は読む』
『あとで話す』
それは彼自身へ向けた言葉でもあった。責めることも、謝ることも、ここでは返事になる。罪悪感は扉を開ける取っ手になる。まだその言葉を知らなくても、もう全員が同じことを体で理解し始めていた。
ジェヒは唇をきつく結び、線を追い直した。図面の隅には、閉鎖通知書で破られていたはずの理由に近い文言が、かろうじて読めた。
『夏季、高濃度ガス検出』
『換気不足時、利用者区域へ逆流』
『営業継続不可』
『地表沈下のおそれ』
ヘジュンは目を細めた。経営難。利用者減少。閉鎖記事に並んでいた無難な言葉が、急に薄っぺらな布に見えた。その下にあったのは、数十年分の廃酸と重金属スラッジ、そして人が吸ってはいけない息だった。
ソユンが階段上で小さく首を振った。兄へではなく、ここそのものへ向けた拒絶だった。ヘジュンは彼女を上に残した判断が正しかったと思う一方で、彼女だけを上の声に近い場所へ置いていることに胃が縮んだ。
ミンソが指を二本立て、階段上と地下室の奥を交互に示した。見張る、続ける。そういう意味だった。彼女自身は階段の下へ少し戻り、いつでもソユンの前へ出られる位置に立つ。
外のドユンが急に囁き声になった。
「ジェヒさん、早く上がってきて。そこ、長くいるとよくないですよ。息、吸ってますよね。さっきから、みんな」
誰も呼吸を止められなかった。止めようとすれば、それ自体が反応になる気がした。ヘジュンは鼻から浅く息を入れ、布越しに吐いた。薬品臭は地下室に沈み、鉄錆と古い布の腐臭に混ざっていた。
ジェヒは図面上の換気口番号を丸で囲んだ。オ・ギョンテクのノートの同じ番号へ線を引く。そこからストーブの背面へ伸びる太い線を見つけた瞬間、彼女の指が止まった。
『小屋内』
『ストーブ直結』
『換気管』
ヘジュンは顔を上げた。
地下室の天井近く、階段の横を這うように、太い金属管が走っていた。最初は古い排煙管だと思っていた。ストーブの背面から床下へ落ち、さらに壁の奥へ消える管。表面は赤い錆で膨れ、ところどころ黒い水跡が垂れている。
だが継ぎ目だけが違った。
錆の層が不自然に剥げている。古いボルトの頭には新しい傷があり、固着したはずの継ぎ輪に、工具を無理に噛ませたようなえぐれが何本も残っていた。赤い錆の下から、まだ鈍い銀色が覗いている。
最近、誰かが開けた。
ヘジュンはその事実をメモに書こうとして、手が止まった。誰か。人間とは限らない。けれど工具の跡は人の手の形をしていた。オ・ギョンテクか。ほかの失踪者か。それとも、ここへ荷物を増やしてきた何かが、人のまねをしたのか。
ミンソが管を見つけ、目を細めた。彼女はドユンに下がるよう合図し、ヘジュンへ手袋を示す。触るなら直接触れない。開けない。確かめるだけ。
ヘジュンは頷いた。工具袋から厚手の作業手袋を出す。ソユンが階段上で激しく首を振った。行かないで、という目だった。彼は声を出す代わりに、胸の前で手を開いて見せた。少しだけ。すぐ戻る。
外のドユンが弾んだ声を出した。
「そう、それ。触ってみてくださいよ。中、あったかいですか? 冷たいですか? ねえ、ヘジュンさん。そこに耳を当てたら、俺の声も聞こえるかもしれない」
ヘジュンの手が止まった。
本物のドユンが、階段の端で必死に首を横に振った。声の出ない口が、やめろ、と形を作る。ヘジュンは彼を見て、次にジェヒの図面を見た。ここを確かめなければ、彼らは小屋の構造を理解できない。だが確かめること自体が、向こうの望みかもしれない。
ジェヒが短く書いた。
『耳を当てない』
『手だけ』
『異常なら離れる』
ミンソは自分の手のひらに『三秒』と書いた。ヘジュンはそれを見て、ゆっくり息を吐いた。返事にならないよう、喉の奥を固く閉じたまま。
彼は金属管へ近づいた。ライトの輪が錆の凹凸をなぞる。継ぎ目の隙間には黒い粉が詰まり、酸に焼けたような白い結晶が縁を固めていた。管の下には古い布切れが巻かれ、そこにも赤黒い染みが残っている。
一歩。
二歩。
階段の上の声が、ぴたりと止まった。
止まったことが、合図のようだった。地下室の遺品の山も、濡れた靴も、壁に並ぶ身分証も、いっせいにこちらを見ている気がした。ヘジュンは手袋越しに指を伸ばす。触れる直前、金属管の表面を白い霜のようなものが走った。
冷たい。
そう思った瞬間、彼の指先が管に触れた。
金属の内側から、音がした。
ひゅ、と一つではなかった。細い隙間から空気を吸う音が、奥の奥から重なってくる。ひゅう、ひゅう、ひゅう。低いもの、高いもの、喉の潰れたもの、泣き出す前の子供のようなもの。何人もの人間が同時に、長く、深く、こちらの息を奪い返すように吸い込んだ。
ヘジュンは手を引こうとした。だが管の冷たさが手袋越しに絡みつき、一瞬だけ指が離れなかった。
その次の吸気は、地下室全体を震わせた。
壁の古い図面が内側から膨らみ、錆びた継ぎ目がかすかに開いた。隙間の暗がりで、誰かの唇のような濡れた赤が動いた気がした。
そして金属管の奥から、まだ声になる前の無数の喉が、いっせいに息を吸った。
外から自分の声が聞こえても答えるな
25話 金属管の一部回収記録
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