影の右手が持ち上がったまま、操縦機の画面は黒く凍りついていた。
誰もすぐには動けなかった。プロペラの残響も警告音も消え、Aサイトの広場には夕方の風だけが残った。だがヘジュンの耳の奥では、低い機械音がまだ回っていた。ぐうん、ぐうん。昨日の電話と、いまドローンが最後に拾った音が、同じ場所からこちらを呼んでいる。
「……ふざけんなよ」
最初に声を出したのはドユンだった。彼は操縦機を両手で握りしめ、画面を何度も叩いた。黒い画面は戻らない。録画ファイルの最後の一枚だけが、影の手を残していた。
「ふざけんなって! ヘジュンさん、これどうするんですか」
「落ち着け。まだ場所は」
「場所は、じゃないですよ。機体、いくらすると思ってるんですか。レンズもジンバルも逝ってたら修理じゃ済まない。弁償してくださいよ」
ソユンが顔を上げた。
「自分で飛ばしたんでしょ」
「ヘジュンさんが許可したんです。店の宣伝に使うって話で来てるんだから、機材トラブルも仕事の範囲でしょう」
「仕事?」
ソユンの声が乾いた。
ドユンは彼女を見ないまま、操縦機の保存画面を確認した。
「少なくとも撮影データは機体側にも残ってます。あそこまで行って、小屋まで撮って、最後のこの画ですよ。これがなかったら今回の旅、何の意味もないですよ」
「意味ならあります」
ミンソが遮った。黒い髪を結んだ横顔は険しい。
「いま意味があるのは、これ以上稜線に近づかないことです。日が傾いています。霧も下りてきています。救助経験者でも、夕方以降の山道は判断を誤ります」
「でも機体はそこにあるんですよ」
「機体より人命です」
「きれいごとですよ、それ。僕の機材代、誰が払うんですか」
その言葉に、ヘジュンの喉が詰まった。機材代。修理代。弁償。どれもいまの彼に払える額ではない。店のカウンターに積まれた未修理のバーナー、部品を待っているランタン、支払い期限を赤く囲んだ請求書が、頭の中で次々に浮かんだ。
『ここで壊れた分まで抱えたら、本当に終わる』
ヘジュンは操縦機の画面を見た。軒下。闇。招く手。あれが何なのか考えれば、足はすくむ。だがドローンを置いたまま帰れば、ドユンは黙っていない。動画も、宣伝も、店の延命もすべて失う。
「……俺が行く」
ソユンが振り向いた。
「何言ってるの」
「夜になる前に回収してくる。位置は映像でだいたいわかる。稜線の入口から直線で」
「直線で行ける山なんてありません」
ミンソの声が一段低くなった。
「行くなら明日の朝です。明るくなって、霧が引いてから、ルートを確認して」
「明日の朝まで待ったら、雨や霧で見失うかもしれない。機体が動物に持っていかれることも」
「そんなものより、あなたが戻れなくなる可能性のほうが高い」
ミンソはヘジュンの前に立った。装備を扱う時の実務的な目ではなく、現場で人を止める救助隊員の目だった。
「日没後の稜線は、道を知っている人間でも危険です。ここは携帯も無線も使えません。怪我をしても救助要請が出せない。さっきの映像を見たうえで、それでも行く理由がありますか」
ヘジュンは答えられなかった。理由なら、いくつもある。だがどれも口にすればみじめだった。金がない。信用がない。妹にまた嘘をついた。自分で許可した責任から逃げたい。
「ありますよ」
ドユンが割り込んだ。
「撮影データです。あの小屋の映像、最後の影、黄色い灯り。これがなかったら、本当にただの無人キャンプ場で怖がって帰りました、で終わりです。僕もヘジュンさんも、ここに来た意味が消える」
「あなたの動画のために人を危険へ入れないでください」
「ミンソさんだって見たでしょう。あそこに小屋があった。人がいるかもしれない。ドローンもある。確認しないほうが不自然です」
「確認は明朝できます」
「明朝まであれが残っている保証、あります?」
ドユンの声は強がりに戻っていたが、指先は白くなっていた。彼自身も見てしまったのだ。画面の向こうの影が、ただの人影ではないことを。
ジェヒが黙って、地図アプリを開いた。青い現在地の点はAサイトにあるはずなのに、数秒ごとに入口、管理棟、稜線の空白へ跳んでいる。彼女は地図を拡大し、記事写真のプリントとドローン映像の最後の座標を重ねた。
「私も行きます」
ヘジュンが目を向けた。
「ジェヒさんまで」
「小屋の位置は、私の土壌調査区域と接しています。座標だけ欠けていた地点です。いま確認しなければ、明日になって現場が変わる可能性があります」
「だからって」
「ただの小屋なら、それで済みます。ですが管理棟の薬品臭、破られた閉鎖通知、地図にない建物。全部が同じ方向を向いています」
ジェヒの声は落ち着いていた。だがその落ち着きは、不安を押し込めるための硬さだった。
「私は仕事として、見なかったことにはできません」
ソユンはしばらく兄を見ていた。怒りも呆れも、もう言葉にしなかった。代わりに、テントの前へ歩いていき、自分のリュックを肩にかけた。水筒を差し、ヘッドランプをポケットへ入れ、救急用の小さなアルミシートを押し込む。
「ソユン」
ヘジュンが呼ぶと、彼女は振り返った。
「止めても行くんでしょ」
「お前は残ってろ」
「また都合のいい時だけ妹扱い?」
その一言で、ヘジュンは黙った。ソユンは近づき、低く続けた。
「私は同行者。そう扱うって言ったよね。行くなら、そばにいる。勝手に決めて、勝手に消えないで」
胸の奥が痛んだ。謝る言葉はいくつも浮かんだが、どれも今は軽い。ヘジュンは小さくうなずくしかなかった。
ミンソは短く息を吐いた。
「……行くなら、準備してからです。全員で行って、全員で戻る。それ以外は認めません」
彼女の言葉で、場の空気が変わった。反対は消えていない。ただ、危険の中へ入るための手順だけが始まった。
五人はAサイトへ戻り、荷物を広げた。ヘジュンは店から持ってきたロープを二本出し、カラビナの傷を確認した。ミンソはそれを受け取り、古いものを除け、使える一本だけを選んだ。救急箱を開ける手つきは早く、包帯、止血パッド、消毒液、簡易副木が順にリュックへ入る。
「ヘッドランプは全員。予備電池は分けて持ってください。ロープは先頭と最後尾。私は先頭、ヘジュンさんが最後尾」
「俺が先じゃなくていいんですか」
ドユンが言うと、ミンソは一瞥した。
「あなたは真ん中です。勝手に先へ行かせません」
「信用ないなあ」
「ありません」
あまりに即答だったので、ドユンは口をつぐんだ。
ジェヒはサンプル容器と手袋、折り畳みスコップを資料ケースからリュックへ移した。スマートフォンの地図は使い物にならないのに、彼女は画面の乱れを何枚もスクリーンショットに残した。入口と稜線の間を跳ぶ青い点が、まるで誰かの指でつままれているように震えていた。
ヘジュンはその画面を見て、昨夜の予約確認を思い出した。最後のお客様です。保存していない番号。二十七秒の無音。なぜ今まで言わなかったのか。言えば、まだ引き返せたかもしれない。
ソユンが隣に来た。
「何か思い出した顔してる」
「……後で話す」
「その後で、がいつも来ない」
ヘジュンは反射的に言い訳を探した。けれど、ソユンのリュックの肩紐を握る指を見て、飲み込んだ。
「戻ったら、全部話す」
「戻れたら、でしょ」
彼女はそれだけ言い、目をそらした。
準備が整うころ、空はさらに低くなっていた。キャンプ場の外灯は点かず、管理棟の窓は黒いままだった。炊事場の蛇口からは水滴すら落ちない。遠くの木々のあいだに、白い霧が帯のように這い始めている。
五人は案内板の裏へ向かった。赤いペンキの「裏手の稜線、立入禁止」は、夕暮れの中でまだ濡れているように見えた。その下の登山靴の跡は、先ほどより輪郭が曖昧になっていた。横にあった小さな裸足の跡は、薄く霧を吸った土の上で、妙に新しく残っている。
ミンソが先頭に立ち、登山道とも呼べない隙間を照らした。
「ここから先は、声を掛け合いすぎないでください。必要な時だけ短く。戻る目印を残します」
彼女はリュックから蛍光テープを取り出した。鮮やかな黄緑の帯が、暗くなりかけた森の中で不自然に明るい。ミンソは入口から三歩入った最初の木を選び、枝ではなく幹にしっかり巻きつけた。結び目を二重にし、手袋の指で強く引いて確かめる。
「最初の目印です。これが見えなくなったら、すぐ戻ります」
その瞬間だった。
キャンプ場の入口方向で、ぶつり、と何かが裂けた。
続けて、電源が落ちているはずの案内放送のスピーカーから、破裂音のようなノイズが一度だけ弾けた。短く、硬く、耳の奥を針で突く音だった。
五人の足が同時に止まった。
誰も振り返れなかった。入口のスピーカーは、到着した時から錆びて沈黙していた。電気は止まり、管理棟のブレーカーも死んでいる。それでも今、確かに音は鳴った。
沈黙の中で、ヘジュンの背中を冷たい汗が伝った。
次の瞬間、スピーカーの奥で、誰かが息を吸う気配だけがかすかに続いた。
外から自分の声が聞こえても答えるな
7話 霧に消える最後の目印
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