二十七秒、という表示を見た瞬間、ヘジュンの指からスマートフォンが滑りかけた。
霧の奥へ引かれていく黄緑のテープは、地面に触れもしなかった。見えない誰かが端を握り、崖のほうへまっすぐ持っていく。ミンソは反射的にロープへ手を伸ばしたが、すぐに止めた。追えば足を踏み外す。救助隊で染みついた判断が、体を先に止めていた。
「全員、下がって。灯りを見るな」
「でも、テープが」
ドユンが言いかけると、ミンソは低く遮った。
「追わない。あれは目印じゃありません。餌です」
発電機の音が、霧の奥で太くなった。ぐうん、ぐうん。さっきまでは遠い谷から聞こえるようだった音が、今は胸の骨の内側で回っている。黄色い灯りは三拍ごとに明滅し、消えるたびに位置を変えた。右、左、低い場所、また正面。足場のない暗闇で誰かがランタンを振り、一行の歩幅を測っているようだった。
ヘジュンの携帯画面では数字が減っていた。二十六、二十五。保存していない番号の下に、冷たい文字だけが浮かんでいる。
「最後の目印まで、あと二十四秒」
ソユンがそれを見て、顔をこわばらせた。
「また隠してた番号?」
「今は」
「今は、じゃない」
責める声は小さかった。小さい分、ヘジュンの胸に深く刺さった。だが謝るより早く、ミンソが地形図を畳んだ。
「戻ります。道が消えています。崖側へ誘導されています。ここで進む理由はありません」
その判断は正しかった。ヘジュンも、喉まで「ドローンは諦めよう」と出かかっていた。弁償も、動画も、宣伝も、全部あとで考えればいい。まず生きて戻るべきだった。
だがドユンが、胸のカメラを握りしめたままヘジュンを睨んだ。
「ここで引くんですか」
「ドユンさん、今は危険だ」
「危険です、で全部終わらせるんですか。僕の機材、あそこにあるんですよ。映像もデータも。ヘジュンさんの店、これ撮るために来たんでしょう」
「命のほうが先だ」
ヘジュンは自分に言い聞かせるように言った。
ドユンは薄く笑った。怖がりを隠すための、張りついた笑いだった。
「じゃあ帰ったら言いますよ。閉鎖前のキャンプ場で宣伝撮影するって呼んでおいて、こっちの機材を落としたら危ないから知りませんって。修理店なのに、客の機材も責任も放り出す店だって、僕のチャンネルで全部話します」
「脅すの」
ソユンの声が鋭くなった。
「事実を言うだけです」
ミンソが一歩近づいた。
「再生数のために人を崖へ行かせるなら、あなたをロープで縛ってでも止めます」
「僕だけの問題じゃないですよ。ヘジュンさんだって、ここで手ぶらで帰ったら終わりなんでしょう?」
その言葉で、ヘジュンの息が止まった。正確な金額までは知らなくても、ドユンは彼が追い詰められていることを嗅ぎ取っていた。ソユンの視線が横から突き刺さる。兄がまた何かを黙っていると、もう確信している目だった。
ヘジュンは携帯をポケットへ押し込んだ。数字は十七で止まって見えたが、見なかったことにした。
「……俺が先に行く」
「お兄ちゃん」
「崖へは寄らない。灯りにまっすぐ行かない。音を基準にしない。ミンソさん、足場だけ見てください。ドローンがなければすぐ戻る」
ミンソは怒りを露わにしなかった。ただ、顔から余計な感情が消えた。
「私の指示に従えないなら、一歩も動かしません」
「従います」
「声を上げない。走らない。灯りが近づいても追わない。足元以外を見すぎない」
ヘジュンがうなずくと、ミンソは彼のハーネスにロープを結び直した。最後尾ではなく、先頭に立つヘジュンの腰へ。彼女はその後ろでロープを握り、進む距離を制限する構えを取った。
五人は霧の壁へ踏み込んだ。
足元は急に硬くなった。濡れた土ではなく、古い木の根と石が複雑に絡み、靴底を横へ押した。ヘジュンはヘッドランプを低く向け、一歩ごとに地面を確かめた。左の奥で黄色い灯りが瞬き、ドユンが顔を向けかけた瞬間、ミンソがロープを強く引いた。
「見ない」
ドユンは唇を噛み、カメラだけをそちらへ向けた。
発電機音は、もう遠くなかった。ぐうん、ぐうん。古い機械が壁一枚向こうで回っているように近い。だがそれと同時に、空気の温度も変わった。冷えた霧の中で、頬だけにぬるい息がかかったような瞬間があった。
ジェヒが足を止めた。
「薬品の匂いが強いです」
「またですか」
「さっきの水たまりより濃い。溶剤だけじゃない。木材に染み込んだような匂いです」
彼女がそう言った直後、霧が裂けた。
布を刃物で切るように、白い幕が左右へ割れた。その向こうに、黒ずんだ木造の小屋が立っていた。地図にも施設図にもない建物。低い屋根は傾き、軒先には苔が垂れ、壁板の隙間から黄色い灯りが漏れている。だが窓は内側から新聞紙のようなもので塞がれ、灯りの源は見えなかった。
ヘジュンは息を呑んだ。記事写真の奥に写っていた屋根と同じ形だった。ドローン映像の、あの小屋だった。
「……あった」
ドユンの声が震えた。恐怖を隠し、興奮しているように取り繕おうとして失敗した声だった。
「軒下」
ソユンが指さした。
小屋の正面、朽ちた庇の下に、黒い機体が斜めに引っかかっていた。ドユンのドローンだった。片側のプロペラは根元から折れ、ジンバルはだらりと垂れ、レンズには霧の水滴がびっしりついている。落ちたというより、何かに拾われて、そこへ掛けられたような角度だった。
ドユンが飛び出しかけ、ミンソが肩をつかんだ。
「足元を見て」
小屋の周りの土は湿っていた。苔も落ち葉も、踏まれればすぐ形が残る柔らかさだった。だが足跡はなかった。ヘジュンたちがいま立っている場所から軒下まで、人の靴跡も獣の跡もない。ドローンがそこにある理由だけが、土の上から抜け落ちていた。
「誰も近づいてない」
ソユンが囁いた。
ドユンは胸のカメラを操作し、最後の保存フレームを開いた。黒い影が右手を上げていたあの一枚。背後の柱の割れ目、庇の欠け方、扉の白い引っかき傷。すべてが今見えている軒下と一致した。だが現在の軒下には、誰もいなかった。招いた手の主だけが消えている。
ジェヒは小屋の扉を見ていた。古びた木戸には白い傷が何本も走り、金属のドアノブだけが妙に濡れて光っていた。霧に濡れたなら全体が濡れるはずなのに、握る部分だけが水を含んだ布でこすられたように艶を持っている。
「触らないでください」
ジェヒは手袋を出し、戸枠に顔を近づけた。次の瞬間、眉をひそめて半歩下がる。
「きつい。薬品です。消毒液か、酸性の処理剤に近い匂いがします」
ミンソが小屋の左右を照らした。裏へ回る隙間は霧で塞がれ、屋根の端から落ちる水滴だけが規則的に地面を打っていた。発電機音は小屋の中から聞こえる。なのに、壁のどこにも排気の熱や振動はなかった。
「ドローンだけ取って戻る」
ヘジュンは言った。扉には触れず、機体だけを回収する。それが一番ましな選択だった。
だがソユンが扉の前で止まった。
「待って」
「触るな」
ヘジュンの声が重なったが、ソユンの指先はドアノブではなく、木戸の板へそっと触れていた。すぐに彼女は手を引っ込めた。
「温かい」
「何が」
「内側。ストーブみたいに、ほんの少し」
ヘジュンは胸が冷えるのを感じた。外は霧で冷え切っている。小屋の外壁は濡れて腐り、誰も出入りした跡はない。それなのに内側だけが温かい。
ミンソは唇を結び、ヘジュンを見た。
「中に人がいる可能性があります。ですが、呼びかけないでください」
「人がいるなら」
「返事を待たない。声で確認しない。扉が開くかだけ見ます」
ヘジュンはうなずいた。手袋をはめ、ドアノブに触れた。濡れていた。冷たい水ではなく、体温を失いかけた掌の汗のような湿り気だった。
押すと、鍵はかかっていなかった。
蝶番が、細く長くきしんだ。小屋の中の空気が、隙間からゆっくり漏れた。外より明らかに温かく、古い布と湿った木材、そして薬品の鋭い匂いが混ざっている。発電機の音は扉が開いた瞬間、ぴたりと止まった。
誰も声を出さなかった。
ヘジュンが扉をさらに押すと、ヘッドランプの光が床をなぞった。中には古い寝袋がいくつも広げられていた。壁際ではない。部屋の中央を囲むように、円を描いて並べられている。色は褪せ、ファスナーは開き、内側の布だけが妙にふくらんでいた。まるで、ついさっきまで誰かがそこに横たわり、合図を受けて一斉に起き上がったあとのようだった。
ソユンが息を呑んだ。
その音に応えるように、円の中央の床板の下から、さっき止まったはずの発電機音がもう一度鳴り始めた。
ぐうん、ぐうん。
外から自分の声が聞こえても答えるな
9話 錆びた無線機の呼吸音
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